老兵の繰り言

「特攻隊」の生き残りが後世に語り継ぐ鎮魂の記録です。続いて、自衛隊草創期のうら話などを紹介致します。

5航空自衛隊

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              試験官も楽じゃない。


自衛隊うら話    
          5-154、空曹昇任は狭き門 

航空自衛隊では、空士を空曹に昇任させる場合は昇任試験で選抜します。試験はまず筆記試験
を行いその合格者に対して面接試験を実施します。2等空士で入隊した隊員が、1等空士を経て、
空士長に進級するまでは、一定の期間を経過して勤務上特に問題がなければ無試験で進級でき
ます。特に試験による選考の制度はありませんでした。ところが、空士長から3等空曹へ昇任する
のは難関でした。

その原因は、昇任有資格者に対して定員の枠があまりにも少ないからです。自衛隊では空曹や
空士の定員は、それぞれ編制部隊ごとに決められています。自衛隊の創設当初は、毎年のよう
に定員が増加していたので、昇任にも余裕がありました。                   

だが、態勢が整備され編制定員が固定化するにしたがって、昇任は狭き門となりました。部隊の
定員に変更がない場合は、現在の空曹が幹部に昇任するか、停年などで退職する以外に空曹
の欠員は生じません。その限られた枠を獲得できなければ、自分が退職する以外に進む道はな
いのです。

空士は空曹に昇任すると非任期制の隊員に任用され、停年まで勤務することができます。とこ
ろが、空士のままだと任用期限が決められていて、任期満了で退職しなければならないのです。
任用期限は、航空自衛隊では最初が3年です。それ以降は2年毎に継続任用の手続きが必要と
なります。しかし、継続任用にも限度がるのです。

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             飛行適性検査。


自衛隊うら話    
          5-153、飛行安全と適性検査 

大分県出身の後藤1尉は私と同じ会計職種です。彼とは公募空曹の1期生として、同時に航空
自衛隊に入隊し会計職種に配置され、 浜松の整備学校で教育を受けました。帝国海軍では1期
後輩の甲飛第13期生として、 同じ鹿児島空に昭和18年10月入隊した仲です。 彼の父親は
旧帝国海軍の主計少佐でした。昭和18年決戦部隊として編成された、第1航空艦隊第261航空
隊(虎部隊)の主計長を勤められた方です。

幹部候補生学校に入校したのも彼が1年遅れです。卒業して最初の配置も輸送航空団で、 私の
後を追うように赴任してきました。 輸送航空団時代には一緒に磯釣りなどをして遊んだ仲です。 
私が脊振山サイトの会計小隊長に転属になると、 後を追って高畑山サイトの会計小隊長として 
赴任してきました。そして、 第3術科学校の教官配置も1年遅れでやってきました。不思議な因縁
で結ばれていました。

私が第12飛行教育団の会計隊長に赴任後しばらくしてから、  後藤1尉から電話がありました。
防衛大学校を卒業して幹部候補生となった彼の長男が、操縦適性検査を受けるため、防府北基
地に行くから宜しく頼むとのことです。30年前、自分が果たせなかった大空への夢を、息子には
適えさせてやりたいとの親心でしょう。

第12飛行教育団の編制には、操縦適性検査隊があります。ここでは航空自衛隊でパイロットを
目指す者すべてについて、実際に飛行機に乗せて操縦適性の検査を実施します。身体的な条件
は地上での検査が可能です。だからここでの判定が、操縦適性の最終決定となるのです。

自衛隊では飛行安全には万全の注意を払っていました。それは一度事故を起こせば、その人的
並びに物的損害は計り知れないものがあるからです。 だから、 パイロットにはあらゆる方法を
用いて適性のある者を選抜するのです。

しかし、帝国海軍の搭乗員のように、 手相や人相までは判定の対象にはしていませんでした。
また機材の整備にも万全を期していました。それでも航空機事故は後を断たないのです。

幹部宿舎で私の隣室には益田1尉が入居していました。 彼は航空学生出身のパイロットです。
そして、操縦適性検査隊の検査班に所属していました。 そのうえ、都合の良いことに、毎晩の
マージャンの常連客でもあったのです。さっそくこの件を依頼しました。

適性検査も終わりに近づいた頃、益田1尉が会計隊事務室にやってきました。
「隊長、後藤候補生の件ですが、特に問題はないと思いますが……」
と、 切り出しました。私はとっさにその先を遮りました。

「益田1尉、初めに頼んでおいて何ですが……、後藤候補生の件はなかったことにしてください、
そして先入感なしで判定してください」
と、言いました。 彼は不審な顔をしながら部屋から出て行きました。私の言葉をどんな意味に
解釈したのか知りません。そして、その後の判定結果も聞きませんでした。

私は予科練の同期生のうち約3割を戦争中に失くしました。 特攻戦死を始め、訓練中の事故に
よる殉職などを数多く見聞しています。 終戦後になっても昭和37年9月3日、 鹿屋基地から
「血清輸送」のために奄美大島に派遣され、 天候悪化により名瀬市郊外に墜落して殉職された、
海上自衛隊P2Vの機長石川昭義3等海佐。 続いて9月20日、熊谷の操縦学校で夜間飛行訓
練中、墜落事故で殉職した航空自衛隊の堀川光政3等空佐。 さらには、 昭和41年2月4日、
木更津沖で墜落事故を起こして死亡した、全日空727機の高橋正樹機長。 

彼らとは鹿児島空及び谷田部空で共に猛訓練を受けて、決戦の大空へと巣立った同期生です。
銃弾飛び交う苛酷な戦場を生き抜いた幸運を信じ、戦後再び大空に羽ばたいのです。 しかし、
運命とは皮肉なもので、絶対安全と思われた平和な空が彼らの貴い命を奪ってしまったのです。

だが、これら戦後の事故に関しても、戦争中の戦没者についても、私はその因果関係に直接か
かわり合いを持ちません。 ところが、今度の後藤候補生の件に関しては立場が違ってきます。
もしも、操縦適性に疑問があるのに、益田1尉が私の依頼を念頭に置いて「操縦適」と判定した
ため、パイロットへの道を進み、将来、不時着その他の事故を起こして負傷か死亡するような
ことがあれば、その責任の一端は当然私にもあります。 今度はかかわり合いがなかったとは
言えなくなるのです。

恐らく「あの時、無理に頼んでパイロットに進ませなければよかった……」と、 何時までも後悔
することになるでしょう。 何事も運命にしたがうべきです。作為をして悔いを残すべきではない
というのが私の結論でした。だから、益田1尉には迷惑をかけたが先の依頼を取り消し、先入観
なしでの判定をお願いしたわけです。

5-152、昔日を偲ぶ

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              T-43(メンター)の前で。


自衛隊うら話    
          5-152、昔日を偲ぶ 

午後になってようやく飛行の許可がおりました。 エプロンに駐機していたT34に乗り込んでいると、
平山2佐がわざわざ見送りに来られました。そして、パイロットに気象状況などのアドバイスをして
いる様子です。

「飛勤隊長とは、どんな知り合いですか?」
「ウーン……、 むかし脊振山で一緒だったの……」
「いい人ですねえ……」
これは、離陸後の益田1尉との会話です。 彼も平山2佐の人柄を理解しているような口調でした。

撤退作戦の指揮は侵攻作戦を指揮するよりもさらに困難であるというのが定説です。仮に、大東亜
戦争末期の昭和19年末から20年当時に、フィリピン方面や沖縄方面の戦闘に、彼のような指揮官
がいたとすれば、随分と違った作戦が実施されたであろうと想像できます。 即ち、「体当たり攻撃」
を拒否した「芙蓉部隊」の指揮官のように、人間を生かして使うことに重点を置いた作戦指導が行わ
れたであろうと推察します。
     
離陸して見ると、前面は厚い雲の壁です。鈴鹿山系は特有の雲の流れで完全に姿を消しています。
三河湾、伊勢湾など空からの眺めは鈴鹿空時代に「白菊」で訓練飛行を行っていた頃を思い出させ
る懐かしいものでした。

浜松出張で、最初にここの上空を飛んだ時のことです。渥美半島越しに三河湾を眺めていると、何と
なく感じが違います。 旧豊橋空のあの特徴ある形の島と、長い橋が忽然と消えているのです。ある
べき所に島がないのです。そんな馬鹿な! 

豊橋空は陸上攻撃機専修の同期生が実用機の訓練を受けた航空隊です。 なぜか気になるので帰途、
浜松を離陸して徐々に高度をとりながら、比較的低空で豊橋の上空を通過しました。気をつけて見ると
滑走路など航空隊の跡はハッキリと残っていました。 島という先入観があったので、埋め立てで陸続
きになった今の姿を見落としていたのです。

ところで、今日の天候は極端に悪く、30年前の回想に耽る余裕などありません。 雲の壁を越えるため
急速に高度をとりながら雲上に出ました。 旧海軍時代は難所と言われていた鈴鹿越えの特有な雲の
流れや気流の悪さも特に気にする必要はありません。  この程度のフライトでは少々視界が悪くても、
現在の飛行機では機位を失することはないのです。ほどなく瀬戸内海に抜けることができました。

こちらは思ったより天気は回復していました。夕日に映える箱庭のような瀬戸内海の景色を眺めながら
「敵機」を意識せずに飛べる大空の醍醐味を満喫し、 在りし日の感慨に耽ると共に平和の貴さをしみじ
みと感じました。

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             機種選定に問題? F−104。


自衛隊うら話    
          5-151、積極果敢な林1尉 

同じ1期生の中に林1尉(当時)がいました。彼の言動は常に積極果敢でした。ある時、林1尉に私が、
「航空自衛隊ではなぜF104を採用したんですかね……、  いくらスピードがあっても、後ろに回り込ま
なければ撃てないサイドワインダー装備では、迎撃にロスが出るでしょう? その点F102なら正面から
でも攻撃できるから有利ではないですか?」

脊振山サイトの幹部宿舎では、 アメリカ空軍所属のF102に対して要撃管制指令を担当していました、
コントローラーの話を毎晩のように聞いていましたので、職種は違っていても要撃戦闘の要領ぐらい
は承知していました。

これに対して、林1尉の回答は単純明快でした。
「間に合わなければ『体当たり』して墜とします!」
私は一瞬ドキッとしました。

私が帝国海軍時代に特攻隊員として「体当たり攻撃」の部隊に所属していたことなど、彼は恐らく知ら
ないはずです。彼が「体当たり」という言葉をどのように意識しているのか私には分りません。「体当た
り攻撃」即ち戦死と自覚しているのか、それとも「体当たり」した後脱出可能と考えているのかも知れま
せん。

何れにしても、咄嗟にこんな言葉が出るということは、日ごろから彼の思考の中に「体当たり攻撃」の
認識があるという証拠です。それとも、F104パイロットとしての矜持がそう言わせたのかも知れません。
戦時中ならともかく、平和なこの時期に「体当たり攻撃」を意図しているとは、相当な人物だと感心しま
した。             

昭和41年1月18日。 第5航空団(新田原)において、F104Jに搭乗して飛行訓練中の林正弘1尉は、
エンジントラブルのため海上に不時着して殉職されました。死の瞬間、彼の脳裏に映じたのは、敵機に
「体当たり攻撃」をしている己の姿ではなかったでしょうか。志半ばにして大空に散華された彼の胸中を
偲び哀惜の誠を捧げたいと思います。実に惜しみても余りある人材を亡くしたものです。

彼の積極果敢な性格を、大東亜戦争の戦史と重ね合わせてみれば、ミッドウェー海戦で戦死された、
第2航空戦隊司令官山口多聞少将を凌ぐ勇将に成長されたであろうと推察します。

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             防衛大学校1期生


自衛隊うら話    
          5-150、 防衛大学校1期生 

司令部への出張の帰り、 パイロットの益田1尉がフライトプランを提出するため、 オペレーション
に行きました。 私はコーヒーでも飲みながら待つことにし、 控室の裏にあるスナックに入りました。
すると、カウンターに飛行服姿の検見崎2佐がおられました。 彼とは幹部学校SOCの同期生です。
現在は防衛大学校助教授のはずです。技量保持のため年間飛行訓練にでも来たのだと思います。

ちょっと挨拶を交わしてテーブルに座りました。しばらくすると、
「永末さーん、何ごとですか?」
と、声がかかりました。振り返って見ると平山2佐が立っています。彼は検見崎2佐と同じ防衛大学
校1期生出身のパイロットです。私が飛行服を着込んでいるので不審な顔をしています。

「防府に帰るとこですよ……、 お久しぶりですね……、お元気でしたか?」
「アーア、あの飛行機ですか……、 さっきフライトプランを見ましたが、しばらく出発を見合わせて
様子を見てください、向こうは天気が崩れていますから……」
と、心配そうに告げられました。

平山2佐とは脊振山サイト以来の顔合わせです。話によれば、彼はいま第1航空団所属で飛行場勤務
隊長の職にあるとのことです。  

航空自衛隊では有事に備えて、定員以上にパイロットを確保しています。この定員以外のパイロットは
操縦技量を保持するため、年間に一定時間の訓練飛行の実施を義務づけられているだけで、本来の
パイロットとしての配置には就かず、他の職域で勤務することになっています。

平山2尉(脊振山当時)は、本来の特技がパイロットでありながら、コントローラー(要撃管制官)の教育
を受けて脊振山サイトに配属されていました。いわゆる兼務パイロットです。 
 
パイロットの職域では、飛行隊長⇒飛行群司令⇒航空団司令⇒航空方面隊司令官⇒航空総隊司令官
と進むのが出世コースの本命です。その意味から兼務パイロットは傍系と見られていました。しかしな
がら、平山2尉の勤務態度は真に誠実でした。何事にも率先垂範、陰日向のない行動に私は深い感銘
を受けていました。

大雪の朝など幹部宿舎の前の通路を、 防衛大学校後輩のパイロットと二人で、黙々と除雪をしている
姿を見かけたこともあります。隊員を使ってやらせればすむ事でも、自分でできることは自分でやると
いった信念を持って行動していました。

その彼が、ここでもまた傍系である飛行場勤務隊長を勤めているのです。あの誠実な人柄からすれば、
これは適切な配置かも知れません。それにしても、もったいない配置です。 私の知っている範囲でも、
防衛大学校の1期生出身者には積極的な人物が数多くいました。

彼ら1期生とは、幹部候補生学校が同じ時期であり、またSOC(幹部学校普通課程)も一緒に教育を
うけた仲です。 F104Jパイロットの林・検見崎・石原・宮本1尉、それに、F86Dパイロットの安藤・
前田1尉らが同じクラスでした。

彼らはそれぞれ優秀な技能を持ち、将来の提督を目指して積極的に自己研鑚を行っていました。そして、
自分達が防衛大学校出身者としてその伝統を築くのだという意気に燃えているように見受けられました。
1期生としての自覚がそうさせていたのでしょう。 2期生以降のような単なるエリート意識とは異なった
ものを持っていました。 


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