老兵の繰り言

「特攻隊」の生き残りが後世に語り継ぐ鎮魂の記録です。続いて、自衛隊草創期のうら話などを紹介致します。

5航空自衛隊

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            搭乗命令書。


自衛隊うら話    
          5-149、T-34を利用しました 

飛行教育集団司令部は浜松北基地に所在し、航空自衛隊のパイロットを養成する部隊を統括
していました。隷下には、第1航空団(浜松北)、第4航空団(松島)、第11飛行教育団(静浜)、
第12飛行教育団(防府北)、 第13飛行教育団(芦屋)、それに航空学生教育隊(防府北)の
各部隊がありました。

私は予算の調整やその他の要件で、集団司令部に出張することが多々ありました。この場合、
出張旅費を節約するため、ほとんど飛行機を使用していました。 飛行機を使用して部隊内で
宿泊給養を受ければ、旅費はほとんど使わずに済むからです。 おまけに往復の時間も短縮
できます。

当時航空自衛隊では、C46やYS11を使って定期便を運行していました。 ところが、定期便は
芦屋基地からしか発着しないうえ、 便数も少ないので不便でした。 そのため、搭乗命令書を
受けて自隊所属のT-34(メンター)を使用するこにしていました。

C46やYS11の客席では、空を飛んでいる感じがしませんが、T34の座席は大空を満喫できます。
そのうえ練習機だから操縦装置から計器類まですべてデュアルです。 海軍時代を思いだしな
がら、 久し振りに大空の感触に浸り、快適な飛行を堪能することができました。

5-148、浜田1尉との縁

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             班長時代の浜田2空曹。


自衛隊うら話    
          5-148、浜田1尉との縁 

私は、芦屋基地と同様ここでも単身赴任して幹部宿舎に入居していました。ここの幹部宿舎は基地外
の官舎地区にあって、南北両基地の幹部が同居していました。正確に言えば南基地の管理する宿舎
に、北基地や陸上自衛隊第13飛行隊の幹部がお世話になっていたのです。

そして、芦屋基地と違ってそれぞれが個室でした。 テレビに冷蔵庫それにマージャン卓を取り揃えた
私の部屋は、忽ち愛好家の溜まり場となり、快適な夜の生活を送ることができました。

南基地補給隊長の、浜田1尉も幹部宿舎に入居していました。彼とは浅からぬ因縁があります。私が
第1期の公募空曹として、 自衛隊に入隊した時の班長でした。そして、第10期の幹部候補生に合格し
て奈良に入校した際は同期生でした。
 
幹部候補生学校を卒業して数年後、私は脊振山サイトに転属しました。当時の補給班長、中島1尉が
事故で死亡されたとき、その後任として着任したのが彼でした。 官舎も隣合わせに住み、お互い家族
を含めての交際を続けていました。

彼の性格は真面目一方で、マージャンなどの遊びには興味を示さず、 酒も程々で、仕事一筋の男で
した。その彼が突然入院し胃癌の手術を受けたと聞きました。突然と言ったのは、その前日まで普通
に勤務し、毎日の駆け足も人並み以上の距離を走って頑張っていたからです。だから、入院したと聞
いても、まさか? と信用できなかったのです。

術後の経過も良好で面会も可能だと聞いたので、幹部候補生同期の前田3佐を誘って見舞いに行き
ました。思ったより元気そうです。
「浜田、お前……、胃癌ということに自分では気が付かなかったの?」
胃癌に自覚症状がなかったとは考えられないからです。

「うーん、体重が少し減っていたけど、これはジョギングのせいと思って気にもしなかった」
「走っていて、きついことはなかったのか?」
「うーん、別に感じなかった。ただ今になって考えると、あの方を半年ばかりご無沙汰していた……」

「ホー、胃癌にはそんな症状が出るのかなぁー?」
「でも、全然その気にならなかったもの……」
「医者にそのこと、話したのか?」
「まさかぁー……」

そのまま順調に回復すれば笑い話ですんだのです。ところが、退院して自宅療養を行っていた彼が、
また入院したことを知りました。 そして、再び彼の元気な姿を見ることはできませんでした。 まだ
40歳を過ぎたばかりです。返す返すも残念なことでした。惜しい同期生を亡くしたものです。 

5-147、帝国海軍の残党

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             甲飛出身者集合!。


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          5-147、帝国海軍の残党 

各隊に着任の挨拶回りをしました。通信隊長は甲飛10期の先輩である木船3佐、飛行場勤務隊長
は私と甲飛同期の末富3佐、業務隊長は甲飛15期の岡部3佐でした。基地業務群以外にも、適性
検査隊長上村2佐(甲飛13期)、適性検査隊河本3佐(甲飛13期)、整備補給群整備主任三原3佐
(甲飛13期)、補給隊長岡崎1尉(甲飛15期)とそれぞれ要職を占めていました。 また気象隊には、
幹部候補生同期の前田3佐(甲飛14期)が勤務していました。

よくもこれだけ予科練甲飛の出身者を集めたものです。そのうえ、基地業務群本部勤務の岡野准尉
(甲飛15期)が「海友会」と称する、旧海軍出身者の親睦会を作って、 その世話役をしていました。
毎年5月27日の「海軍記念日」には、記念行事を盛大に行うとのことでした。

「海友会」の会員名簿を見せてもらって驚きました。 戦艦長門の艦長を勤めた、兄部少将を筆頭に
多士済々です。 甲飛出身者だけでも防府北基地に13名、南基地にも6名在籍していました。 また
自衛隊以外にも甲飛10期の先輩を含め、市内居住者十数名が名を連ねていました。

これらの関係者は、帝国海軍の残党が集まり共に歓談を楽しめる、年に一度の「海軍記念日」を待ち
遠しく思っている様子でした。

5-146、無事故達成

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            庭園に座し、荒地だった昔日を偲ぶ。




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          5-146、無事故達成        

ここの隊員は、この恵まれた環境に育まれ和気あいあいと勤務に精励していました。この良好な
環境があればこそ、5年間にわたり、飛行部隊として世界最高を誇るに足る、飛行188,700時間
に及ぶ無事故達成も可能であったのです。

それに比較して、芦屋基地の術科学校は旧態依然たる教育環境で、その改善は遅々として進み
ませんでした。あれでは事故が続発しても仕方がないと思われます。

「孟母三遷」の教えのとおり、 教育の基本は良好な環境整備が最も肝要であると痛感しました。
その意味では、昭和45年3月、航空学生教育隊を、芦屋基地から防府北基地へ移駐させたこと
は賢明な処置であったと思います。       
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5-145、平山2佐を偲ぶ

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             環境整備に努力された、故平山次男2佐。


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          5-145、平山2佐を偲ぶ 

あれからすでに十数年、担当者は交替しましたがその意志は引き継がれ、環境整備に努力を重ねた
結果が今の防府北基地の姿です。立派に完成した庭園に、荒れ地だった昔日の面影を見出すことは
できません。

平山2佐は旧海軍士官で歴戦の勇士でした。  昭和49年4月、バリ島において航空機事故によって、
その生涯を閉じられました。痛恨極まりなし。その代り、丹精込めて造成された防府北基地の環境が、
平山次男氏の名とともに、永遠に遺されることを心から祈願する次第です。


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