老兵の繰り言

「特攻隊」の生き残りが後世に語り継ぐ鎮魂の記録です。続いて、自衛隊草創期のうら話などを紹介致します。

5航空自衛隊

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             平山2佐のもと環境整備に汗を流す隊員。


自衛隊うら話    
          5-144、教育環境の重要性 

昭和34年6月、編制改正に伴い第12飛行教育団が誕生しました。しかし、基地業務群の編制表に
は、 群本部以外には飛行場勤務隊・施設隊・管理隊のみで、業務隊・通信隊・衛生隊・会計隊など
の後方支援業務は、従来通り南基地の第1航空教育隊が担当することになっていました。名実とも
に独立部隊としての、第12飛行教育団が編成されたのは、翌昭和35年8月のことです。

それに先立つ3月に、庁舎および隊舎が完成したので所属隊員は南基地から移転しました。ところ
が、建物だけは新築されたのですがその周辺は、草薮あり水溜まりありの荒れ地でした。

当時の基地業務群司令は、平山2佐でした。教育環境の重要性を認識された方で、早速その整備
に着手されました。連日連夜にわたり隊員を陣頭指揮して、庭石を集めたり、池を掘ったり、樹木を
植えたりして建物周辺を次々に庭園化していきました。

第12飛行教育団の今の環境は、決して自然にできたものではありません。私はその当時南基地の
会計隊に在職していました。国の予算に頼らず、伝を求めて東奔西走、隊員の先頭に立ってご苦労
なされている平山2佐の姿に深い感銘を受けていました。

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3-1-6              防府北基地コントロールタワー。


自衛隊うら話    
          5-143、第12飛行教育団 

佃空将補の置土産で、次の配置が発令されました。山口県防府市に所在する、第12飛行教育団
会計隊長です。故郷九州からも近いうえ気候も温暖です。寒さに弱い私には理想的な配置でした。

当時の団司令は生野空将補、基地業務群司令は児玉1佐でした。 児玉1佐は、第3術科学校の
教務課長の職から転属された方で、面識があり気心も知れていました。また陸大出の優秀な方で
した。
 
第12飛行教育団の所在する防府北基地は、 芦屋基地と違って、こじんまりとした綺麗な基地で
した。十数年前の情景を知る私にはその変貌は驚きでした。 これは、芦屋基地のように旧陸軍や
米軍の残した古い建物がなく、すべて自衛隊が新しく計画的に建設した基地だからです。

昭和19年4月、陸軍はこの地に飛行場を建設しました。そしてこれを管理するため、第235飛行場
大隊が編成されました。同年6月には、第51戦隊が小月飛行場から移駐して訓練を開始しました。
錬成なった同戦隊は同年9月、南方戦線へと飛び立って征きました。

これに替わって10月には、フィリピン戦線で活躍中の第71戦隊の留守部隊が、亀山から移駐して
きました。やがて終戦となり、英濠連合軍によって接収されました。

ところが、近くに旧海軍の防府通信学校の建物が残っていたので、連合軍はこれを利用しました。
だから、ここに施設らしきものは建設されず、今の言葉で言えば「更地」のまま残ったのです。

昭和30年10月、 パイロットの急速な養成に迫られた航空自衛隊は、ここに第1操縦学校分校を
開設しました。ところが、滑走路だけで付帯設備が何もないので、防府南基地の第1航空教育隊が
全面的に後方支援を担当することになっていました。

また格納庫などもないので、飛行機はすべて野外係留されていました。そして整備作業は、大きな
天幕を張って飛行機をこれに収容して実施する有様でした。戦争中の野戦部隊並の苦労をしながら
飛行教育を実施していたのです。格納庫やベースオペレーションなどの施設が完成したのは、翌年
4月のことでした。

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              六調子の味でした。


自衛隊うら話    
          5-142、佃空将補空幕へご栄転 

この年9月、北海道の「長沼訴訟」で自衛隊は憲法違反であるとの判決が下されました。これに
対する世間の反応は様々でした。しかし、部内では特に話題にはなりませんでした。それよりも、
翌月に勃発した、第4次中東戦争に伴い石油不足が深刻化しました。いわゆるオイルショックは
他の物価にも影響を与え、予算の執行を担当する会計職員はこれの対応に忙殺されたのです。

第3術科学校長在職2年半、佃空将補は空幕へご栄転されることになりました。 日ごろの口の
悪さとは裏腹に、私のために次の職務配置と昇任のお膳立てをして離任されました。 最初は飲
みくちに癖があって刺激が強いのですが、爽やかな酔い心地の「六調子」の味そのものでした。

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           「佃盃」は今も私の手元に。


自衛隊うら話    
          5-141、「中国文化研究会」 

佃空将補の口の悪るさは天下一品でした。会議などで自分の気に入らない発言があると、すぐ
に「単細胞」と決め付けるのです。私も、教程(教科書)審査でやられました。従来の文字ばか
りの教程を、思い切って図解や漫画を取り入れたものに変更しました。これは当時の新隊員は
基礎学力が低く、一般の文書でも満足に読めない者がいたからです。

ところが、この改訂内容が校長には気に入りません。新隊員が対象だから極力分かり易くと考
えて作成したのに、校長はあまりにも幼稚過ぎるとしか評価しないのです。 そして、「単細胞」
の考えることはこの程度かと決めつけるのです。 悔しくてたまりませんが、階級の差は歴然と
しているので反発することもできません。畜生! 今に見ておれということになります。

佃空将補の趣味はマージャンでした。夕食が終わると、人数を集めて卓を囲むのが日課でした。
月に一度の割合で「中国文化研究会」などと称して、十卓前後を集めて大会を開いていました。
校長官舎の壁には常連の名札を並べた大きな額が、位階勲等の序列を示すごとく掲げられてい
ました。これは大会の成績で順位が上下すのです。この額には校長よりも「単細胞」である私の
名札の方が上位にかけられるのが常態でした。

日ごろの欝憤を晴らせるのは、ここだけです。 ちなみに私の優勝は、 4回・5回・13回・14回・
16回と五度に及びました。 それに対して、校長の優勝は7回の一度だけでした。また2回以上
優勝した者も他には居ませんでした。校長のご栄転が決まり、最後の送別大会が行われました。
この時も私が優勝しました。だから「佃盃」はその記録と共に今も私の手元にあります。

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            脊振山当時の主任官が副校長で着任。


自衛隊うら話    
          5-140、佃空将補と「六調子」 

佃空将補が着任されてから、急に宴会が多くなりました。何かと名目を付けては開かれていま
した。「黒潮荘」がよく利用されました。また幹部学生の入校や卒業など、少人数のパーティー
は校長官舎でも行われました。

この際佃校長の飲物は「六調子」という銘柄の球磨焼酎に限られていました。焼酎全盛時代で
はありましたが、校長の影響で「六調子」はまたたく間に普及しました。癖があるので、最初はち
よっと飲みづらいのですが、慣れてくるとなかなかの味です。行く先々でこの調子ですから、
「六調子」は自衛隊内では全国的に名が売れるようになりました。

明けて昭和48年7月、河野1佐が空幕会計課長から第3術科学校副校長として着任されました。
これで「会計一家」の勢揃いです。担当者会議や講習会など会計職域の集まりが急に多くなりま
した。夜になれば恒例の懇親会です。ここでも「六調子」が飲まれたことは言う迄もありません。


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