瀬音の写真集

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先週、写真だけのUPになっていましたので、都立第五福竜丸展示館で写した他の写真とともに、親類から聞いた話をメモ書き程度ですが記してみます。
 
1954年3月1日、アメリカによるビキニ環礁での水爆実験により被爆した第五福竜丸の事件については、以前から知っていたのですが、2004年3月に毎日新聞の連載『ビキニ事件・半世紀の刻印』の「被災漁船は延べ1000隻」という見出しに衝撃を受けたことが、 親類から話を聞くきっかけになりました。
 
その時から6年以上経た、2010年8月12日、実際に第五福竜丸展示館に出掛けました。
 
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新木場駅から夢の島公園内の展示館へと向かう途中、当時建設中だった東京スカイツリーが見えていました。
 
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都立第五福竜丸展示館 正面入り口
 
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第五福竜丸 船首方面から
 
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1947年初め、建造中の第七事代丸(和歌山県・古座造船所・古座川中州)
 
第五福竜丸は、1947年(昭和22年)3月に神奈川県三浦三崎港船籍のカツオ漁船、第七事代丸として和歌山県の古座造船所で建造され、1951年遠洋マグロはえ縄漁船に改造、1953年(昭和28年)5月に静岡県焼津漁港船籍の第五福竜丸となりました。(展示パネルより)
 
船を新造する場合、コスト面、造船所の評判(船のスタイル、性能)の他、大漁続きの○○丸にあやかり同じ造船所で造ろうという、縁起かつぎ等から造船所を決定することもあり、紀州の船が、三陸、北陸、瀬戸内、南九州で造られることもあったそうです。(親類より)
 
展示保管されている福竜丸は船体の塗装が剥げかかり、かなり痛んだ様子でしたが、実際被爆したこの木造船に対面し、私は鳥肌が立つ思いでした。
 
イメージ 7
死の灰
 
イメージ 2
 
上は、第五福竜丸の被災位置(ピンク色の円・中央)と危険区域(ピンク色の円)、水産庁指定要報告区域(ピンク色の四角)を記した図で、海洋上に散らばる赤い点が、当時操業中だった船を示していたと思います。
 
アサヒグラフ1954年5月号 「死の灰被った日本漁船」の紙面も展示されており、船名と船の写真、船長の氏名と顔写真の掲載もありました。写真を写してきたのですが、個人情報なのでUPは控えさせてください。 
 
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汚染されたマグロの水揚げがあいつぎ、厚生省はマーシャル海域に指定区域を設けて、そこで操業するか通過した船を検査した。
  検査指定の5港、塩竃、東京、三浦三崎、清水、焼津。
  そのほかに検査をおこなった13港、紀伊勝浦、串本、田辺、大阪、神戸、徳島、室戸岬、室戸、高知、
                         長崎、串木野、鹿児島、枕崎。
                                                   (展示パネルより)
 
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<以下、話を聞かせてくれた親類より>
 
当時、大洋漁業の母船式の船団に所属する、あさひ丸(平仮名の船名)(第2と第6があったが、多分、第2だったと思うとのこと)に乗り組んでたが、実験があったマーシャル諸島ビキニより南のフィジー海域で操業していたため難を逃れた。
 
しかし日本への帰航時にマーシャルを通った。1954年10月頃、三浦三崎港に入港時、岸壁では白衣を着た検疫官が待っており、「船全体と乗組員全員が頭のてっぺんから足の先まで(測定器で)ガーガーやられた」。あさひ丸の場合、釣ってきたマグロは検査を通らなかったものを少し廃棄した。それほど多くではない。第13光栄丸は全部捨てたと思う。事件現場近くで操業していた船の乗組員は検査が終わるまで上陸できなかったようだ。
(あさひ丸の乗組員は、主に和歌山県と宮古(岩手県)の人達だった。)
 
事件当時の漁船は、現在のものと比較すると船体が小さく、積載可能な燃料油が少なかった。母船式の船団の場合は赤道以南まで漁に出ることが可能だったが、単独で操業する船の場合、漁場への往復&漁に必要な燃料は丁度マーシャル諸島の辺りまでが限界だったため、ビキニ周辺に多くの日本漁船が存在し、水被害を被ったのではないか。第五福竜丸も、第13光栄丸も単独操業だったと思う。
 
被爆後に亡くなられた久保山愛吉さんが以前乗り組んでいた、大東魚類(築地に今もあるやろう、と言うので調べてみましたら、実際に存在しているようでした)の厚生丸に、後に乗り組んだ時、通信士として久保山さんが過去に付けていた業務日誌を見たことがある。
 
質問:事件をいつ知ったか?
当番船が情報を集め、定時に無線で皆に連絡が入る。本土の会社から船に電報が入る。
(連絡内容の詳細やいつ連絡が入ったかは、不明なのですが、入港前には事件を知っていたそうです。今は電話やFAXがあり、朝刊や夕刊も読めるとのこと。)
 
質問:船内での水の使用は?
 昔) ・水タンクに貯水したものを使う。母船式船団の場合、母船から補給できる。
    ・生活に使う水は、ほぼ全てが海水。
    ・米を研ぐのも海水、炊くときにだけ真水を使ったので少し塩味がした。  
    ・風呂水は海水。スコールがきたらカバーで水をとって頭などを濯いだ。(塩分でべたつくため)
    ・歯磨きで口を濯ぐときも最後だけ真水。
    ・洗濯も海水で手洗いし外に干した。皮膚の弱い人は塩分でかぶれることもあった。
 
 今) ・造水器があり、1日に3〜5tできる。
     ・真水のシャワー、風呂水は海水。(船によると思います)
     ・洗濯機や乾燥機もある。
 
イメージ 9
船体についてあったのは取水口でしょうか?
 
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この方の乗船していた船が、1954年3月1日以降も操業を続け、日本に帰港してくるのが10月頃ですので、9月23日に久保山愛吉さんが亡くなって間もない時期だっと思われます。
 
船上での生活に用いた海水の汚染はどうだったのか、海域にもよるでしょうが、直接、死の灰を浴びていなくても健康被害がなかったのか大変気になります。放射能の危険性に関する知識も、現代ほどではなかったのではないでしょうか。今も不安を抱えながら生活を送る方やご家族もおられることと思います。
 
最初に話を聞いた2004年から今年で9年も経ってしまいました。他に覚えていることはないかと尋ねたのですが、事件は何十年も前の事ですから忘れてしまったとのこと。他に遠洋漁業に従事していた方もいたのに高齢のため亡くなられたりして、もう少し早く聞いておけばよかったと後悔しています。
 
イメージ 3
熊野灘から引き上げられた第五福竜丸のエンジン
 
事件後、第五福竜丸は、東京水産大学の練習船はやぶさ丸として使われた後、1967年使用できる部品を抜き取り廃船となり、夢の島に隣接する埋め立て地にうち捨てられていたものを東京都職員らによって発見され、保存運動がおこり保存展示されることに。
 
一方、抜き取られたエンジンは奥地寿太郎氏に買い取られ、貨物船第三千代川丸に搭載されていましたが、1968年7月に航海途上、三重県熊野灘沖で座礁、沈没。その28年後の1996年12月、民間有志(「第五福竜丸エンジンを東京・夢の島へ」和歌山県民・東京都民運動)によって海底から引き揚げられ、第五福竜丸展示館の脇に展示されました。
 (ウィキペディアとエンジン説明板を引用参考にしました。エンジン案内板には、保存協力者として杉末廣氏のお名前もありました。 )
 
イメージ 4
マグロ塚(展示館の外にあります)
 
実際、汚染されたマグロが、消費者の手に渡る前に埋められたのは、中央卸売市場築地市場の一角とのこと。
 
イメージ 6
 
真夏ではありましたが、被爆して亡くなられた第五福竜丸の無線長・久保山愛吉さんの奥様すずさん縁のバラが花を付けていました。
 
イメージ 5
久保山愛吉さんの言葉 「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」 の石碑
 
現在も第五福竜丸の元船員、大石又七さんが講演活動を行っているそうです。被爆者という立場から、自らに罪はないのに、差別や偏見の苦悩もあられたと思いますが、事件の語り部をされている姿に頭が下がります。
 
このような事件について、どのような言葉で締めくくればよいか正直分かりません。東日本大震災の際、東京でもスーパーに長蛇の列ができたことやミネラルウォーターのペットボトルが品切れになったことがありましたが、月日が過ぎると記憶は薄れて行きます。語り継いで行くこと、忘れないでおくことのために、少しでも力になりたいと思います。
 
※ 話を聞いた親類が申します通り、約60年前のことで記憶が定かでない部分や電話での聞き取りが果たして上手くできたのか不安な点もあります。その点をご承知おきください。
 
※ 和歌山県東牟婁郡串本町の古座川河口の国道42号線赤い橋のたもと、串本側に第五福竜丸建造の地の碑があります。
 
※ 映画「放射能を浴びた X年後」 公式サイト http://x311.info/
  上映日程 http://x311.info/blog/theater/
 
 
(追記) 2013/08/19
 
昭和27年(1952年)に水産庁が漁業特例法を施行→ 漁船の大型化→さらに遠洋へ。
 
外貨獲得、マグロ=輸出品。 主としてアメリカへの輸出。
 

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展示館は完全に見落としていました。知らない事が意外なところでつながっているもんですね〜。古座の船がこんな所にあるなんて。

2013/3/4(月) 午後 7:07 るみちゃん 返信する

2011年3月11日は、夢の島のヨットハーバーから新木場駅に帰る途中でした。駅手前の陸橋で地震にあいました。駅前は液状化でひどい状態でした。地下鉄は止まっていました。
夢の島・新木場は思い出の場所です!

自主上映の日程調べました。これから東京で数度ありますから観てきます。

2013/3/4(月) 午後 9:41 3355 返信する

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Rumikoさま 私も第五福竜丸が古座(旧古座町・現串本町)で作られたとは最初は知らなかったんです。熊野の人の手によって造り出された船であり、第三千代川丸に搭載されていた第五福竜丸のエンジンが熊野灘から引き揚げられたとは、感慨深いものがあります。串本町には古座造船所で使われていた船大工の道具が保存されていると思います。

2013/3/5(火) 午前 8:51 [ 瀬音 ] 返信する

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3355さま 3.11東日本大震災当日は、未だ勤めをしていて会社にいました。書類棚が大きく揺れ、今にも倒れてきそうでした。埋め立て地では液状化の被害がひどかったんですね。お怪我がなくてよかったです。映画「放射能を浴びた X年後」上映日によっては制作関係者の来場もあるようですね。気をつけてお出かけください。

2013/3/5(火) 午前 9:01 [ 瀬音 ] 返信する

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瀬音さん、第五福竜丸”の事は充分前に知りまいたが、
当時はマスコミ”も大騒ぎ”いたいましたが、段々と、、世間の話題から、遠ざかり”最近では、殆ど話題に致しません、実に悲しい事ですね。 失礼致します。

2013/3/5(火) 午後 2:48 [ ymmdb465 ] 返信する

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ymmdb465さま 3.1ビキニデー平和行進が静岡県焼津市で行われたそうです。広島や長崎の原爆、東日本大震災による福島の原発事故は話題にのぼりますが、東海村臨界事故や第五福竜丸などの漁船の放射能被害は忘れられがちかもしれませんね。展示館には修学旅行生も訪れるようで、子供たちからの千羽鶴が飾られていました。それを見て、少しほっとしました。

2013/3/5(火) 午後 5:05 [ 瀬音 ] 返信する

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今晩は、第五福竜丸の事は今でも覚えています。
取って来たマグロから放射能が検出されたためすべて土の中に埋めていたのをニュースで見ました。
古座川大橋の袂には第五福竜丸の造船された碑が有ります。
当時のビキニ環礁での実験内容を知っている人は少なくなりつつあります。

2013/3/6(水) 午後 7:03 寿限無 返信する

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寿限無さま 私の場合は、リアルタイムでニュースを見てはいないのですが、事件のことや第五福竜丸の名前は知っていました。けれども、延べ1000もの漁船が被害を被っていたことを知らなかったのです。展示パネルにもあったのですが、放射能検査を太平洋側の主要な港でしていたことも初耳で、築地に埋め立てられた以外のマグロの廃棄についても気になります。第五福竜丸建造の地の碑は車窓から写したら、案の定ぶれていました。語り継ぐことで何ができるのか心細い気もしますが、放射能について無知であることは怖いことだと思います。

2013/3/7(木) 午前 8:30 [ 瀬音 ] 返信する

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