瀬音の写真集

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写真の整理中です。

※ 2017年1月 撮影時のデータです。

(皆様のご訪問、ナイスを下さった皆様に感謝致します。 


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まずは、池間島(宮古島とは池間大橋で繋がっています。) カイミールさん(土産物&軽食)の屋上展望台からの眺望。

奥に見えている島の名は、大神島です。 


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池間大橋を宮古島側へと渡り、南下、狩俣地区の「東の大門」は、県道230号線から、すぐの場所にあります(大神島側)。


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現在(2017年1月) 東の大門


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現地案内板


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(案内板より過去の 東の大門 … 1923年に撮影された写真とのことです。個人名は控えます。)


狩俣自治会指定文化財 東の大門 あーぬ ふじゃー (現地案内板より)

狩俣集落は、古い時代に系統の異なる、三つの小集団が渡来し定住した。

時代が進み、住居が増えると、散在していた人々は暮らしの便や安全をはかる上から集落をつくり、周りを石垣で囲い、東、西、北に石門を設け、居住区域を限定し,外敵に備えた。

こうして島内では、他に例のない、「城郭集落」が形成されたのである。

人口が増加すると、居住区は前方に広げられ、門の場所も約50メートル先(現位置)に移された(写真)。

この石門は、「あーぬ とぅーりゃ(東の通門)」とも呼ばれ、集落の表門にあたる主要な出入り口で、昔から村の伝統的な祭事と深くかかわってきた。

戦後、集落内の交通事情により撤去され、その後、コンクリート製になったが、老朽化したため、今回、建て直すに当たり、元の形に戻すべく、旧来の工法で地元の石材を用い一回り大きめに復元した。

伝承によれば、「城郭集落」を構築した主要人物が、14世紀頃、中国から渡来し狩俣で一生を終えた、「くばらばあず」で、神通力を持つ、占いの名人、預言者であったという。

中国の陰陽道に通じ、風水や易学の知識を有し、石工、木工の技にも長けていたようである。

「くばらばあず」は、狩俣では、「すまぬぬす」(島の主、村の守護神)として尊敬されている。

石の大門は、狩俣集落の発生と変遷を知る上で貴重な存在である。

歴史民俗文化材として後世に遺したいとの思いから、この度、建立した。

2010年4月 狩俣自治会


☆案内板の設置に感謝いたします。 
 
☆生活道ですのでマナーを守って見学させて頂いてください。宜しくお願い致します。


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県道230号線にもどり、少し南下。(東の大門からの所要時間は車で3〜4分だったようです。)

狩俣〜島尻付近「四島の主の墓」の案内標識。

こちらも、左折してすぐの場所にあります。


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夫婦の樹?


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「四島の主の墓」入口の門


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石門 左手上部


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石門 右手上部


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門から中は、草が生い茂って、これが限界。(外郭のみで、すみません。)

興味のある方は、草刈りされた頃の写真をネット検索してみてくださいね。


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市指定文化財 四島の主の墓
 (案内板より)
Yahoo!Blog瀬音の写真集管理人が入力させていただきました。
指定年月日 昭和53年(1978年) 3月6日

現在、狩俣には、「四島の主の墓」といわれている墓が、四ヶ所ある。

この墓は、そのうちの一つである。

この墓は、島尻、大神、狩俣、池間の四邑が遠望できる丘陵上にある。

この墓の構造は、ツガ墓に似ており、周囲には石積みの外郭が二重にめぐらされ、南南西に向かって一枚岩を乗せたアーチ門が築かれている。

また、墓室は一室で墓口が二つ設けられている。

この墓は、近年まで「四島の主」の子孫により、代々使用されてきたと伝えられている。

「四島の主」とは、狩俣、島尻、大神、池間邑の支配者の俗称で、「雍正旧記ようしょうきゅうき」には、「昔、狩俣村四島の親童名百佐盛と申す人は、狩俣、島尻、大神、池間合わせて四ヶ村壱人にてかけ候に付き、四島之親と為申由候」と記されている。

また、「四島の主のあやぐ」には、「何からが如何からが親なたよ、墨からど筆からど親なたよ」と歌われており、「四島の主」は文筆にすぐれていたことがうかがわれる。

「四島の主」は、仲宗根豊見親の支配下にあって仁政を施したが、その業績としては、狩俣・島尻を結ぶ「渡池橋」築造のほか、農道の改修、狩俣・平良間の休憩所設置および井戸の掘削などが伝えられている。


☆案内板の設置に感謝いたします。


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付近の植生。

先端部が3枚セットの葉。 黒いとげ。


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この記事は、ここまでです。

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池間島 カイミールさん しぼりたてサトウキビジュース。(注文後に、一杯ずつ搾ってくださいます。)

最後までご覧頂き、ありがとうございました。

☆南国ですが、草深い場所の散策は、長袖長ズボンの服装が宜しいかと思われます。念のため。


Yahoo!Blog瀬音の写真集『仲宗根豊見親の墓』の記事へのリンク
https://blogs.yahoo.co.jp/seoto_kisyuu/61708801.html

Yahoo!Blog瀬音の写真集『アトンマ墓』の記事へのリンク
https://blogs.yahoo.co.jp/seoto_kisyuu/61714016.html


写真の整理中です。

※ 2017年1月 撮影時のデータです。


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レンタカーにて、宮古島の県道83号線を吉野海岸方面から北西へ(北上する感覚)。

進行方向、左側、高腰城跡 と記された看板を見逃さぬように。

写真は、看板の分岐点を左折したところ。

※ 場所の見当がつかず、ちょっとウロウロ。 必死にネット検索。
  情報をUPしてくださっていた方に感謝致します。


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畑の中を道なりに進みます。

ここか?と思いましたが、違いました。

右手は、行き止まりでした。

素直に直進です。

あの、貯水タンクのようなものがランドマークになるでしょうか。


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貯水タンク?の模様です。


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僅かに海が見えています。


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途中、頭穴御嶽 つづぴかうたき と記された案内板に遭遇。


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指された方向に目をやりますと…。

このような景色。

御嶽は聖域とのことですので、立入は控えさせて頂きました。


元の進行方向に視線を戻し、道なりに進みますと、高腰城跡と記された標識が見え、左折。


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史跡の案内板が見え、ホッとしました。


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高腰城跡 たかうすじょうせき 石碑


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県指定史跡 高腰城跡 たかうすじょうせき 
指定年月日 平成3年 (1991年) 8月2日
Yahoo!Blog瀬音の写真集管理人が入力させて頂きました。
宮古島の東海岸側、比嘉集落北の丘陵(高さ113m)の頂上部分に造られた城跡である。

東西約70m、南北約40mの大きさで、自然の石をそのまま積んだ城壁の礎石が残っている。

「雍正旧記ようせいきゅうき」 (1727年)や「宮古嶋記事仕次みやこしまきじしつぎ(?)」(1748年)等の宮古旧記類には、この城の城主が高腰按司たかうすあじ であったことや、城の大きさなどが明記されている。発掘調査によって、13世紀〜15世紀の土器、陶磁器、古銭、鉄製品などが確認されている。

グスクとしての遺構をよく残し、また、琉球王国の勢力が及ぶ前の宮古のようすを知るためにも重要な遺跡である。


The Ruins of Takausu Castle

Designated a Prefectural Historic Site on August 2, 1991.

Takasu Castle was built at the top of a 113m high hill located north of Higa villge on the east coast of Miyakojima.

The ruins are situated east to west with a length 70m and awidth of 40m.

A castle wall made of undressed stone can still be seen on the site.

It is believed that the castle was built during the time of Lord Azu Takausu.

The dimensions of the castle are document in ole historical records, such as Yosei Kyuki (1727) and Miyakojima Kiji Shitsugi(1748).

Artifacts such as earthenware pottery, old coins and iron implements dating from the 13th to 15th centuries have been excavated on the site.

The ruins provide a good example of a castle in ancient times and are significant in understanding the culture of Miyako before it was influenced bu the Ryukyu Kingdom.


☆案内板の設置に感謝致します。入力ミスがございましたらご容赦ください。


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県指定史跡 高腰城跡 
所在地 : 宮古島市城辺町字比嘉仲尾嶺   (城辺の読み方=ぐすくべ)
指定年月日 : 平成3年8月2日
Yahoo!Blog瀬音の写真集管理人が入力させて頂きました。
高腰城跡は、比嘉集落北方の高腰嶺(標高113m)に形成された13〜15世紀中葉頃のグスクです。

城の北東部には、按司の泉(湧水)、西方約600mには、城主の高腰按司を祀った高腰神社(御嶽)があります。

城の大きさは、東西約70m、南北約40mです。

城壁は主に野面積みで、現存する石積みの高さは約40〜50㎝程度です。

城門は南東部にあり、城内は3ないし、4つの郭(間仕切り)に分かれています。

「雍正旧記ようせいきゅうき」(1727年)には、城の大きさ、門の位置、城壁の状態についての記録があります。

伝承によると、城主の高腰按司は、この一帯を支配していたが、中喜屋泊村なかきやとまりむら の 内立按司うつだてぃあず の裏切りによって与那覇原軍ゆなぱばらぐん に滅ぼされたといわれています。

城跡からは、地元産の土器を中心に、中国製の青磁・白磁・褐釉陶器、徳之島産と思われる類須恵器、玉、鉄製の鏃、中国製の古銭などが出土しています。

なお、この地域において無断で現状変更することは、県条例で固く禁止されています。

沖縄県教育委員会
城辺町教育委員会


☆案内板の設置に感謝致します。


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先ほどの案内板の裏手が、高腰城跡かと思ったのですが、どうも違うようで…。

車を置いて、さらに奥へ進みますと。


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このような、高腰城跡復元予想図 が設置されておりました。

現在地は、予想図内の右端、赤い☆印です。


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少し、下がって撮影。


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予想図看板の左手から撮影。


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高腰城址?


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琉球石灰岩の石積み?


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付近の植生

1月でしたが、スミレが咲いていました。

城跡の記事はここまで。

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おまけ


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おなじみ、島の安全のため不眠不休で勤務する、宮古まもる君。(兄弟かも)


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砂山ビーチ



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ヤドカリくん


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宮古案山子くん


最後までご覧頂きありがとうございました。 



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写真の整理中です。

※ 2015年9月撮影時のデータです。


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無窮洞入口


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地図で確認しますと、川を挟んで、対岸の建物は、宮中学校だと思われます。

中学校の近くには、宮小学校もあるようです。


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無窮洞 むきゅうどう

無窮洞は、戦争中に宮国民学校の先生と生徒たちによって掘られた防空壕です。

岩壁に「無窮洞」と大きく彫られた下にある「工事概要」には「本工事ハ昭和十八年八月二十九29日起シ、同二十年八月十五日炊事場ヲ未完成ノママ停止セリ。作業ハ一切外部ノ労力ヲカラズ爆薬をソ用イズ、職員生徒児童ノ手ニヨリ つるはし、のみ、かなづち、くわヲ使用セリ。底面積凡七十坪 内四十坪ヲ板張リトシ映画場ノ設備ヲモ施セリ…」と書いてあります。

「無窮」とは、「きわまりのないこと」「かぎりないこと」で、日本と子どもたちの将来がいつまでも栄えることの願いを込めて書いているのでしょう。

当時、小学生だったお年寄りの話によると、小さな体で鍬やツルハシで少しずつ掘り、先がつぶれたツルハシは学校の工事場で、鍛冶屋さん宅の児童が修理したということです。

女子もホゲなどで、土運びをして手伝い、全校生六百人が入れるような広い地下壕ができました。

板張りの教室には、石の教卓やローソク立てがあり、書類棚、倉庫、炊事場、トイレもあり、防空壕で生活できるよう準備されていたようです。

入口は川の方向に二つあり、山へ出る非常口は、通風口でもありますが、山から下の方へ掘るものと、中から上に掘るものが、つながった時は大変喜んだということです。

無窮洞は、子どもたちの労力で完成させたとは思えないような立派なものです。

平成6年の水不足は深刻で、無窮洞は立派な文化財なので惜しむ声もありましたが、貯水池に利用されました。

後に別の場所に貯水池ができたので、平成14年の佐世保市政百周年記念行事に、無窮洞の復元整備工事をして一般開放することになりました。

宮地区青年事業会猪の会製作(平成19年7月)

寄贈 佐世保中央LC 五島LC 佐世保東LC 佐世保南LC 佐世保みなとLC 佐世保えぼしLC


(案内板の設置に感謝致します。)


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周辺の様子

(いいところですね)


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防空壕を掘る少年と少女の石像

(案内板より)

この石像は戦後の青年団事業として茶園を造成して活動したのであったが、後に、その茶園を売却することとなり。その資金の中から、当時、無窮洞、掘削に関与した同士の好意により、当時の思い出として、作成・建立し、寄贈したものである。

平成19年 10月吉日


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宮村の先覚者 長野常道 ながのつねみち氏 (現地案内板より)

長野常道は、慶応2年(1866年)宮村に生まれた。

梅ヶ枝酒造(国指定登録文化財)で育ち、常に正義節操を尊び、漢学の素養深く、若くして政治運動に熱心で、憲法発布の促進をされた。

明治31年、推されて宮村村長になられた。

原野の植林をすすめ、村有林を持つ財政豊かな村にされた。

明治34年、当時としては壮大な二階建て教室を新築し、隣村に先駆けて高等科を設置。

江上村、崎針尾村、川棚町からの通学も受け入れて、教育の振興に努められた。

明治30年より24年間、県会議員に連続当選。

大正4年からは県会議長になられた。

議会でのめざましい活躍が「長崎県議会史」に記載されている。

昭和6年(1931年)に逝去。

功績を顕彰し、教育上の効果を期待して、昭和30年に胸像が建てられた。

平成20年7月 宮地区青年議会 猪の会製作


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平和の鐘 (案内板より)

この鐘は米海軍佐世保基地司令官より、平和の鐘として寄贈していただきました、


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岩を掘って造った階段


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佐世保市の米軍基地前にて


私は、防空壕内の見学はさせて頂きましたがが、写真を撮しておりません。 
内部の様子や場所は、長崎旅ネット様のサイトを見せて頂いてください。

長崎旅ネット様サイト 無窮洞のページ
https://www.nagasaki-tabinet.com/guide/61274/


最後までご覧頂きありがとうございました。 

☆案内板の設置に感謝致します。



写真の整理中です。

※ 2017年3月撮影時のデータです。

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国指定史跡 山ノ鼻1号墳(今宿古墳群) の案内板 
(JR九州 筑肥線 九大学園都市駅の南側)

山ノ鼻1号墳から、西側の 丸隈山古墳まで徒歩で向かいました。(途中、イオンモール福岡伊都にて休憩)


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少し上り坂になっている道路。(背後が、さいとぴあ西交差点方面)


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湯溜池 (マピオン地図より)を右手に見ながら進みます。


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国指定史跡 丸隈山古墳 に到着。

さいとぴあ西交差点からの所要時間は、10分程度なので、九大学園都市駅からですと、15分弱程度かと思われます。(写真を撮りながら、ゆっくりめの歩調で。)

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国指定史跡 丸隈山古墳 (現地案内板より)
THE MARUKUMA-YAMA TUMULUS
(A HISTORICAL SITE DESIGNATED BY THE NATIONAL GOVERNMENT)

江戸時代の初めに発見されたこの古墳は、5世紀前半に築かれた前方後円墳で、後円部が三段に、前方部が二段(一部は三段)につくられ、各段の斜面に葺き石を敷き、テラス部に埴輪をたて並べています。

埴輪には、円筒のほか、朝顔型、盾、水鳥などの形象埴輪があります。

後円部の中央には、初期の横穴式石室があり、石室の中に中央の壁を共有する二基並列の組合式箱式石棺があります。

その中には、男性人骨と鏡二面(仿製二神二獣鏡)、巴形銅器、玉類(勾玉・管玉・小玉)、刀、剣、鉄鏃の副葬品が残っていたことから、この地域を代表する首長の墓と思われます。

昭和62年3月 福岡市教育委員会

(案内板の設置に感謝いたします。)


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墳丘復元図


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石室復元図



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前方部 西側・斜めから


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一つ前の画像より若干右手(西側)


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階段を上って墳丘の上部へと。

正面奥に石室   左手の建物は観音堂か地蔵堂かだったかな…。



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丸隈山古墳の石室

これまで見学させて頂いた、巨石を組み合わせた古墳とは異なりますね。

煉瓦のように整えた石を積み上げた壁面です。

天井部は板状の石。


 
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石室の入口左 お不動様の石像 と 手水鉢

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石室入り口右の様子

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墳丘 南側 後円部

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先ほど上ってきた階段からの眺望 墳丘北側

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階段の杯状穴

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国指定史跡 丸隈山古墳 (現地 別の案内板より)

この古墳は、5世紀前半の前方後円墳です。

階段を上がると、横穴式石室があり、いつでも見学できます。

石室の前は広場になっており、毎年8月17日には、この場所で、宇田川原豊年獅子舞(うだがわらほうねんししまい)(福岡県無形民俗文化材)が、奉納されます。

ここから東には、山の鼻1号古墳、若八幡宮古墳、大塚古墳や鋤崎古墳(すきざきこふん)が続き、古墳めぐりが楽しめます。

『※これらの古墳をあわせて、「今宿古墳群」として、平成16年4月5日に国指定史跡に指定告示されました。』(この箇所は上からテープにて追加記載されていました。)

図の説明 石室と石棺 丸隈山古墳から出土した仿製六獣鏡 宇田川原豊年獅子舞

平成13年3月 西区区役所


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案内表示 若八幡宮まで800m  JR周船寺まで850m

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※ 丸隈山古墳前の道路は、見通しの悪い箇所があったり、道幅が狭いために歩道が確保されていない場所もありました。  散策の際は交通事故にご注意ください。

この日は雨脚が強まったため、これ以上の古墳散策は中止。九大学園都市駅へと戻りました。


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天神地下 ベーカリーカフェ アペティートにて (キッシュ)

☆最後までご覧いただきありがとうございました。

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2017/08/27追記

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長崎県西海市大瀬戸町雪浦 雪浦地区公民館  2015年9月撮影


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雪の浦を通過中、車窓から撮影。(ぶれてます)

おもしろい石積みだったため、記憶に残っていました。

場所も時代も異なりますが、丸隈山古墳の壁の積み方(石の割り方 積み方)に似ているような気がします。


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角力灘

以上、追記しました。



写真の整理中です。

※ 2017年3月撮影時のデータです。


イメージ 1
JR九州 筑肥線 九大学園都市駅 駅舎 (南側のロータリー前) 

関東地方の太平洋側に住んでおりますと、おおまかには 海が南 、 よって 海と平行に走る路線は、海の反対側が北 と刷り込まれてしまっているのですが、福岡県の北部、玄海灘方面は、海が北側、山が南側となり、普段とは方向感覚が逆になる感じですね。 (北側には、糸島半島の山もあるのですが)


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山ノ鼻古墳公園 (このときは、未だ工事中のエリアがありました)


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山ノ鼻古墳公園 利用上の注意書き看板


イメージ 4墳丘の斜面の様子 西


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墳丘斜面 左手が東側方面


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振り返って、イオンモール福岡伊都(九大学園都市駅に隣接)。


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墳丘斜面の土壌の色(芝生を植栽している箇所もあるのですが)


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山ノ鼻1号墳


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国指定史跡 山ノ鼻1号古墳 Yamanohana Kofun 1 (今宿古墳群いまじゅくこふんぐん) (現地案内板より)

山ノ鼻1号古墳は、4世紀につくられた古墳です。

地表を観察しても、古墳の形は、はっきりしませんでしたが、発掘調査により古墳の裾にあたる部分に葺き石の一部を確認し、(右下写真)、墳丘の長さ約37m、後円部の径約21mの前方後円墳であることが分かりました。

また、古墳のまわりからは、赤色の顔料の付いた板石(いたいし)などが見つかっており、埋葬施設は竪穴式石室(穴の中に石を積み上げてつくった墓室)であったかもしれません。

現在地は、丁度、古墳(後円部)の上にあたり、盛り土をした部分が古墳の位置と大きさを示しています。

今宿平野の南側に広がる高祖山(たかすやま)などの山麓一帯には、12基の前方後円墳が見つかっています。

中でも、山ノ鼻1号墳を含む7基の前方後円墳は規模も大きく、この地で大きな力をふるった首長の墓であったのでしょう。

首長たちは、古墳時代(4〜6世紀)を通して、今宿地域を中心とする限られた場所に、自分たちの墓をつくり続けました(右上図)。

これは、全国的に見ても珍しいことで、平成16年(2004年)、7基の前方後円墳は、まとめて史跡「今宿古墳群」として、国の指定を受けました。


イメージ 10

以下、現地案内板&からの情報。

画面中央、今宿バイパスの向こう、小山の辺りが、若八幡宮古墳(4世紀) さらに、さらにその奥手には下谷古墳があるとのこと。


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距離感が掴めないのですが、若八幡宮古墳の南東方面に、女原C14号墳。

案内板地図から、ざっと、文字おこししておきます。

背振山 高粗山 雷山 羽金山
鋤崎古墳(4世紀) 木村A1号墳 谷上B1号墳 大塚古墳(6世紀) 山ノ鼻1号墳(4世紀) 若八幡宮古墳(4世紀) 下谷古墳 丸隈山古墳(5世紀) 飯氏B14号墳 兜塚古墳(5世紀)

自分の為のメモ
マピオンの地図より 福岡県西区の地名など
湯溜池 女原(みょうばる) 石川県白山市の場合はオナハル 女原神社 女原1号公園 一宮神社(濠?)  飯氏(いいじ) 都橋 周船寺1号公園  塞神社 伊観神社 北原 徳永 横浜 西都 江の口橋 上新田 田尻 富士見 泉 高田 板持 千里 


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周辺の様子

福岡市西側のベッドタウンといった印象。


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山ノ鼻1号古墳 西側から

以下、土砂、石など。 元から、この土地にあったのか、公園整備工事のため運び込まれたものなのかは不明ですが…。


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こちらは砂っぽい。


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やはり赤土が目立ちます。


イメージ 16

この石が気になった。


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イメージ 18



イメージ 22

イオンモールにてランチの後、丸隈山古墳へと向かいます…。


この記事は、ここまで。

最後までご覧頂きありがとうございました。


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