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※ 2013/05/01撮影の古い写真ですが、宜しければご覧下さい。
『吹屋小学校』 (現地案内板より)
吹屋小学校は、明治6年(1873年)に民家を借用して創立されました。
その後、明治31年に吹屋村が、吉岡銅山本部跡地を譲り受け、明治33年に東西校舎と東西廊下が完成し、この地に小学校が移転しました。
また、明治42年には、中央の本館が完成し、現在の校舎の配置が整いました。
この地に校舎が建築されてから、111年にわたり、多くの児童の成長を見届け、現役最古の小学校校舎として活躍してきた吹屋小学校ですが、児童数の減少から平成24年3月末をもって、閉校となりました。
吹屋小学校校舎は、岡山県重要文化財に指定されており、今後は文化財としてほぞんしていくこととなっています。
(岡山県高梁市教育委員会)
近くの土産物店の方のお話ですと、閉校の頃は児童数が7人まで減っていたそうで、現在、子どもさん達は近くの小学校までスクールバスで通学されているとのことでした。(夜間ライトアップが綺麗と教えた頂きましたが、詳細不明ですので、ご覧になりたい方は関係機関にお問い合わせを。)
※ 隣接して宿泊施設、ラフォーレ吹屋がありました。
綺麗に手入れされていて、今もどこからか子どもさん達の声が聞こえてきそうな雰囲気です。
明治33年、開校当時の写真だそうです。
(玄関付近の展示写真より。ガラス越しの撮影。)
銅栄寺(観音堂)付近に咲いていた花。 (参詣せず。)
ご本尊は、毘沙門天、薬師如来等、色々祀られており、延宝8年(1680年)のご位牌が存在するそうです。(現地案内板より)
旧片山家(ベンガラ製造で繁栄)の展示物。(本家と分家の2箇所が郷土館として公開。)
小倉百人一首、東京・大阪かるた研究会撰、ひらかな・かるたKaruta(読札)、登録商標丸の中に法。
練習かるた・ひらがな(取札)、東京綱島書店発行。
こちらは、登録商標丸の中に光。
木製ボードゲームのようなものと独楽(Koma こま)。
国旗、日の丸ではなく、旭日旗と呼ばれるものがプリント。 計36個の円形の穴。 4人で対戦?
☆ 日本・緑色 フランス仏・赤色 アメリカ米・青色 イギリス英・黄色 ビー玉のような球体を使用する遊びか? (国際連盟?) これは何というゲームなのでしょうか? (Vintage Board Game) (Vintage Toys) TINKERTOYと書かれた組み立て玩具。
外国製のようです。
ネットで調べると、1920年頃(大正期?)のパッケージに似ています。
登録実用新案第37603号とあるようです。
こちらは、テニスラケットや野球のキャッチャーマスクのようなもの。
山間部の村ですが、片山家の財力を証明する品々です。
こちらも片山家の展示物・蔵書。
金の舟(島崎藤村、有島生馬監修)、大日本麦酒株式会社三十年史など。
大日本麦酒株式会 ウィキペディア
茶碗の一生、覚悟せよ!次の大戦・海軍少佐中島武、正文章規範講義、新しい毛糸編み物の仕方、全力の人・堀内新泉。
台所付近の壁に掛かっていた木札、中町第一家庭防空当番。
家庭で防空? 防空壕? 何の当番札でしょうか。
吹屋ふるさと村の奥まったところにある駐車場前の食堂『いろり』様。
うどん、そば、おでん等がメインのようでした。 (コーヒーもあるようですね。)
山菜うどん。(このときは、500円ほど。)
鰹よりも昆布系でしょうか。
ほんのり柚(多分)と胡麻風味の優しい味のおうどんでした。
備中神楽が描かれた湯呑み。
オロチ退治?
拝見してみたいですね。
岡山県高梁市公式サイト *−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−*
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『ふるさと村』 『食堂いちえ』
奈良県吉野郡東吉野村大字大豆生739
古民家カフェ 『月うさぎ』 (廃校の用務員室を再利用との情報。)
奈良県吉野郡東吉野村谷尻478−1
廃校を利用したパン屋 『木造校舎』
和歌山県新宮市熊野川町西敷屋 旧敷屋小学校
※ こちらの場所も山間部です。安全運転でお願いいたします。
2013/10現在のHP情報では、予約販売&ネット販売のようです。
最新情報は、HPなどでご確認ください。
農家の方が、自家栽培の小麦で作るパンだそうです。というより、パンを作るために農家をされているのかもしれません。(一部、他所の国産小麦使用のようです。)
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岡山の写真2013/05
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吹屋ふるさと村・町並み保存地区は、その名の通り、最初から観光目的で造られた建物群ではありません。
(土産物屋、飲食店、資料館として使われている家屋も多いですが)
『セールスお断り!』の貼り紙。
大きな甕カメ(壺?)
クロネコヤマトの宅急便。
石臼。
納屋なや・物置倉庫が車庫になったのでしょうか。 うらやましいです。
この部分の名称がわからないのですが、しっくい(土かも)で屋根の裏側を補強しているようです。
縄をくるくる巻き付けた竹竿のようなもの。
風呂釜のようなもの。五右衛門風呂?
コンクリート製の側溝のようなもの。これも樋と呼べるのか…。バーベキューに使えそう。
鍬やスコップ類? 大鍋の蓋のようなもの。 木箱。
上下クリーニング 取次所 麻田百貨店。
大甕カメ。 石積み。
木の枝。 大樽。 漬け物用か味噌樽?
お寺の石垣、エッジ。
関係ないですが、下は沖縄・首里城の城壁。
吹屋の民家の脇にシロバナタンポポが咲いていました。
キビシロタンポポでしょうか?
見分けが付きません。
全国どこでもそうですが、住民の方がおられます。
お互い様で、迷惑のないように散策お願いいたします。
(トイレ、吹屋ふるさと村地図、備中宇治彩りの山里地図については、下記の記事をご参照ください。)
ベンガラ館の記事
笹畝坑道の記事
本山山神社の記事
職人としての吹屋の記事 (広岩のお地蔵様)
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昨日ご紹介した観龍寺と同じ鶴形山あるいは妙見山に鎮座する阿知神社の記事です。
山全体の見取図です。(左手前がすぐ美観地区)
左手に観龍寺・妙見宮・稲荷神社。
中央付近に阿知神社。
荒神社、戎大黒社、菅原神社、護国神社、稲荷社、東方遙拝所、芭蕉堂、神代桜、厄除けの段(33)、還暦の段(61)、米寿の段(88)、神楽殿、絵馬殿、高灯籠、斎館、水琴窟、相撲場、本栄寺、古代庭園、陰陽の磐座。
植田翁碑、林悟陰碑、岡雲臥碑、窪田貧泉碑、原澄治碑。
日本一阿知の藤。
駐車場。
随神門と厄除けの段(33)。
狛犬。
石灯籠。
魚屋久衛の文字。
他にも、京都万屋正兵衛建立の巨大な石灯籠もありました。
拝殿。
挙式の最中だったようです。
結婚式のスタッフと思われるスーツ姿の女性二人を見かけました。花嫁さんの着付けなど担当されている方でしょうか。
本殿。
『倉敷総鎮守 阿知神社 略記 (一) 』 案内板より
鎮座地 倉敷市本町十二番一号 鶴形山山頂 標高四三米
旧社格 県社
「御祭神」
「主祭神」 宗像三女神(多紀理毘売命、多岐津比売命、市寸嶋比売命)
「相殿神」 応神天皇
「配神」
伊邪那岐命、伊邪那美命、天照皇大神、素戔嗚尊、八意思兼命やごころおもいかねのかみ、
八十枉津日神やそまがつひのかみ、神直日神かむなおびのかみ、大穴牟遅命おおなむちのみこと、
少彦名命、稲田姫命、久那斗神くなどかみ、
住吉三前大神すみよしみさきのおおかみ
(上筒男神、中筒男神、底筒男神)
宇迦之御魂命、大市姫命、吉備津彦命、大直日神おおなおびのかみ
「沿革」
創祀は応神期に遡り、まだ当地が海島であった頃、阿知使主の一族が半島より帰化し、周辺に住みついたと伝えられ、水夫漁民の祖神、海上安全の守護神として祀られる。
周囲は阿知潟と呼ばれる海域であったが、江戸初期には陸化、倉敷代官所が置かれ、旧倉敷村の氏神として歴代代官の崇敬篤く、石灯籠はじめ数多くの寄進を受ける。
当時、妙見宮(明剣宮)と称され、観龍寺が別当寺を務めていたが、明治二年、神仏分離令に伴い、現社号となる。
明治四年郷社、明治四十三年近隣十二社を合祀、昭和十七年県社。
平成十六年十二月吉日記
次の画像へJUMP願います。
(自分のためのメモ)
ウィキペディア、コトバンクなどより
絵馬殿。
ヤグラ?部分、釘を用いていないように見えましたが。
絵馬殿に奉られていた絵馬。
金時・金太郎さんのような子ども。
外国人女性が、小ぶりのスケッチブックに何かの意匠を熱心に書き写していました。
高灯籠。
大きな常夜灯のようです。
後宮。
ご神体の守護らしい。
写真に写した文字が読めず残念。
歴史を感じる家並み。
左手後方が倉敷駅。
磐座と八意思兼命やごころおもいかねのかみの祠。
『八意思兼命』 (案内板より)
旧阿知潟神社(阿知町)御祭神。
八百万の神々の中で、最も思慮深い神で、知恵と知識を兼ね備えた長老神。
天の岩戸開きを導いた、企画開発の神でもあります。
「御神徳」
家運隆昌、痴呆除け、学問成就、技芸向上。
筒には、榊と、あと一種類類別の葉が生けられていたのですが、何か分かりませんでした。
阿知神社の大藤へと続く道。
奥に見える藤色が大藤。
藤の見頃は未だのようでした。(ゴールデンウィーク中に藤祭りが行われるとのこと)
写真では伝えきれませんが、独特の雰囲気を漂わせる樹。
注連縄が巡らされていたので御神木と思われます。
『阿知の藤』
案内板によると、日本一のアケボノフジ、樹齢300〜500年、幹廻り1.5M、根元周囲2.2M、とのことです。
『曙藤蘇って発く(ひらく)』 漢詩の碑 (読み下し文の方ですが)
義に殉ず郷衆福山の師(いくさ)
逆賊肝は寒し吉備のはた(麻の下に毛)
魂魄今蘇り花曙に発く
行人識らず好し詩(うた)に題せむ
阿知の曙藤
千垂の瓔珞古藤の棚
薄紫の聯珠(れんじゅ)頬を撫でて清し
平昔(へいじゃく)の郷民愛育に孜む(つとむ)
陽春曙に映じ丹誠に報ゆ
*−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−*
時間の都合があり、東方遙拝所、陰陽の磐座は拝見できていません。またいつか訪れてみたいと思います。
※ 写真の順序と実際の参拝順序は異なります。
☆ TATSU様の倉敷・阿知神社・秋季例大祭、屏風祭りの記事へのリンクはこちらから。
(追記)
春からいくつかの神社を参拝させて頂きましたが、案内板に記された沿革を入力する際感じるのは、神社合祀令の嵐。案内板に合祀記録を残しているのは「本当はこうだったよ」という氏子の方々のせめてもの抵抗の証ではないでしょうか。
瀬音の写真集 観龍寺・妙観宮・稲荷神社の記事
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鶴形山あるいは妙見山の遠景(右手がすぐ美観地区)
西村伊作氏設計の日本基督教会・倉敷教会堂と若竹の園保育園を見学、その後、美観地区内へ。
ゴールデンウィーク中、鶴形山の阿知神社の大藤が咲いているのではないかということで、そちらに向かう。
大藤は満開まであと数日か。
阿知神社参拝。(後日UP致します。)
参道を下るとき、古い建物が見えたので気になり左折。
立派な墓地
別格本山観龍寺山門
石鎚大権現倉敷支部
『倉敷騒動』 案内板より
慶応二年四月十日、立石孫一郎の率いた長州からの一隊は、代官所を襲撃、観龍寺に陣屋を設けて物資を調達した。
山門左側小門の鴨居にある槍の突きあとは、その史跡として現存している。
左手ご本堂
境内の様子
妙見宮
妙見宮の由来 案内板より
当寺の旧名は、北斗山宝積院。
北斗とは、星の帝王である北極星乃至北斗七星を指す。
密教では、妙見菩薩と呼び、平安時代から星まつりや星供の本尊として、各地で修法や祈祷が盛んに行われた。
倉敷村の黎明期、村の鎮守に選ばれたのが、当妙見宮であり、当寺を離れ、この山の東の峰へ遷宮(文禄三年一五九四)。
その後、寛永五年(一六二八)、当寺は、正式に妙見宮別当に任ぜられる。
当寺は、神仏の区別なく爾来三百年、当寺住職が全ての祭祀祭礼を司る。
明治二年(一八六九)、神仏分離令により妙見宮は当寺へ戻る。
鶴形山とは昭和以降の呼称であり、元は妙見山と呼ばれた。
平成一七年完結の新修倉敷市史により、神仏分離とその後の不明確な歴史記述が是正された。
一つは明治以降になって新設された阿知神社(宗像三神)と当妙見宮の関連性はないこと、一つは妙見山という旧称の通り、この山の元来の祭神は妙見宮であるということである。
(この部分追記 自分のためのメモ) 次の写真へJUMP願います。
『明剣宮』とも 阿知神社の方の由緒案内板より。
妙見宮・産鉄?
高梁川・過去に暴れ川、川砂体積、上流での砂鉄採取(カンナ流し)が原因の一つ。
くらしき文化サポーター様 地名と人々の営み様
岡山県内の製鉄(たたら)地名 藤(葛・オドロ)
天御中主神社(和歌山県新宮市佐野)
「当地は産土神に加へ、戦国時代後鉱脈を温存する目的で「妙見神」を祀っていた。」
本堂の左手は、稲荷社のようでした。
鳥居手前は百度石と書かれており、お百度参りのためのものでしょうか。
稲荷神社の象の彫刻。
高梁市吹屋ふるさと村の本山山神神社も象の彫刻がありました。
しかし場所と方向が違います。
石鎚蔵王大権現の祠
四国の石鎚山信仰のようです。
左 第一七番 井戸寺 七仏薬師如来
延?(文字が隠れてしまって…)命地蔵菩薩
中央 千手観世音菩薩
おん ばざら たらまきりく
無理に撮影しませんでしたが、千手観音の石仏像は美しく端正な印象でした。
右 第七十五番 善通寺 薬師如来
おん ころころ せんだり またうぎ そわか
若竹の園保育園近くにもあった、倉敷八十八ヶ所霊場でしょうか。
閻魔大王とお地蔵様
これは一体…。
罪○消滅
弘法大師法要の石塔のようですが。
参道の磐座。山の至る所に大岩があり、全体が聖域のようでした。
下調べなしの参詣でしたが、山門からすぐの場所(境内)にお宮さんがあり目を疑いました。(しかも稲荷神社も)宣言文のような御由緒の文中「当寺は、神仏の区別なく爾来三百年、当寺住職が全ての祭祀祭礼を司る。」も自分的に大発見でした。こんな場所が残されていたとは驚きです。
ある方が、神仏習合と神仏混淆は違うとおっしゃられていましたが、ウィキペディアでは、ひとくくりになっているようでした。
難しいことは分かりませんが、下の方のブログが参考になるのではと思いました。
老いの入り舞様のページ
容量の関係で鬼瓦が載せられませんでしたが、建物も一見の価値があると思います。
皆様も美観地区や阿知神社だけでなく観龍寺も参拝されてみてはいかがでしょうか。
倉敷の隠れた名所の一つですね。
倉敷浅尾騒動 ウィキペディア
瀬音の写真集 阿知神社と大藤の記事
倉敷観光web (観光情報、観る遊ぶ食べる泊まる)
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日本の中世3 異境を結ぶ商人と職人 笹本正治著 中央公論新社
によりますと、
「新たな鉄砲の戦闘形態を確立したのは織田信長であった。堺の町の有力町衆の一人である今井宗久は、永禄十二年(1569)八月以前に、五箇荘(大阪府堺市)方面の代官に任命され、五箇荘我孫子の吹屋(金属を精錬または鋳造する人、鋳物師)を支配し、堺やその近辺の吹屋にも統制を加えた。おそらく彼の下で鉄砲製造も行われていたのであろう。」
と書かれていました。
金属を製造加工するときに用いる、鞴(吹子、ふいご)からのものでしょうか。
吹屋ふるさと村から山を下ってくるときに見つけた小屋。
棚田が続く山道で、田は代掻きが終わっているようでした。
広岩と書かれた五叉路。 (岡山県高梁市)
成羽町中野(至吹屋)、野呂・白和、丸山(至かぐら街道)、本郷・中組(至宇治)の文字。
大きい岩があるのでしょうか。
お大師様(多分、弘法大師)とお地蔵様が並んでいました。
大師の文字は読み取れるのですが…。
この背後の岩が気になりました。
広岩?地元の方にしか分かりませんね。
手向けられていた花は、庭や山からのものでしょうか。
椿の花が落ちていたものの、日は経っていないようです。
小屋には、新聞受けが置かれていて、地域の新聞をまとめて配達してもらう場所なのかもしれません。
となりのトトロの稲荷前バス停を思い出しました。
残して欲しい風景です。
(トイレ、吹屋ふるさと村地図、備中宇治彩りの山里地図については、下記の記事をご参照ください。)
ベンガラ館の記事
笹畝坑道の記事
本山山神社の記事
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