|
. 【1】はじめに 太平洋戦争末期の沖縄戦では、日本側、米軍側合わせて20万人以上の方が亡くなりました。 その詳細については、文献やインターネット等で詳しく紹介されております。 ここでは、そのあらましだけを触れておきたいと思います。 1944年7月のサイパン島玉砕、そして1945年3月の硫黄島玉砕・・・。 アメリカ軍を主体とする連合軍は、確実に日本本土に迫っていました。 これに対し日本軍は陸軍牛島満中将の下に、沖縄県方面の兵力増強に努めていました。 そして1945年4月1日、アメリカ軍を主体とする連合国は548,000名の兵力を以って、沖縄本島に上陸を開始します。 これに対し沖縄守備軍の数は、陸軍86,400人、このほかに海軍陸戦隊が約10,000人弱、学徒隊などが20,000人で、総計116,400人が守っていました。 日本海軍の沖縄方面根拠地隊は、大田實少将が指揮を執っていました。 6月4日にアメリカ軍は第6海兵師団を迂回上陸させ、沖縄方面根拠地隊に対して包囲攻撃を開始します。 沖縄方面根拠地隊は、現那覇市豊見城市の海軍司令部壕に4000名が立て篭もり抗戦を続けます。 そしてついに海軍部隊は壊滅し、6月13日に司令部壕内で、大田實司令官は幹部5名と共に拳銃自決を遂げます。 6月23日、日本陸軍守備隊は連隊旗である軍旗(旭日旗)を奉焼し玉砕、沖縄守備軍最高指揮官の陸軍牛島満中将が摩文仁司令部で自決し、 沖縄戦の組織的抵抗が終結しました。 海軍沖縄方面根拠地隊の大田實少将は自決に先立つ6月6日、海軍次官宛に有名な電報を打ちます。 「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」 「沖縄戦」による死亡者は、アメリカ軍1万2,520人、沖縄出身者も含む日本軍約9万4,136人、沖縄の住民9万4,000人といわれます。 大田實少将が自決した海軍司令部壕は現在、整備されて内部が公開されています。 自決した司令官室には、大田實司令官が自ら記した愛唱歌が今も鮮やかに残っています。 「大君の御はたのもとに死してこそ 人と生まれし甲斐ぞありけり」 ※この歌の作者は幕末に生きた勤皇の志士「田中河内介」です。 大田實司令官はこの歌を司令官室の壁に書き、その部屋近くで自決をする事になります。 大田司令官の遺骨が収集されたのは、自決から7年が経過した昭和27年3月の事です。 それまで海軍司令部壕へ、立ち入って調査される事はありませんでした。 この7年の間に、湿気の多い壕内では、木や布は朽ち果ててしまいました。 大田實司令官が亡くなって66回忌にあたる2011年8月、アメリカで大田實司令官の遺品が、忽然と現れます。 それは沖縄戦が終了した直後に、自決した海軍司令部壕から米兵によって持ち去られた1枚の旗でした。 大田實司令官が壁に書いた愛唱歌に繋がる大きな旗でした。 大田實司令官の「大君の御旗」は実在したのです。 この書庫「大田實少将、大君の御旗」は、この旗が66年振りに発見され、祖国日本に戻るまでの経緯を記すものです。 ※このブログの記載内容は、私が把握した事実に、私独自の推理を加えて構成したものです。 戦後67年が経過し、当時者はほぼ全員が亡くなり、当時者の証言で検証する事は不可能です。 歴史的な秘話を研究する私の手法は、断片的な資料や事実を私の推理でつなぎ合わせ、 仮説を立てて検証する事です。 より具体的なイメージを皆さんに提示し、その正誤を皆さんの判断に委ねたいと思います。 間違いがあったり、新たな事実が発見されれば、その時点で改めれば良いと考えています。 従って、文中に思いこみや勘違い部分があるかもしれません、指摘頂ければ直ちに訂正させて頂きます。 .
|

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用


