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【7】 司令官室の棚

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【7】 司令官室の棚

昭和20年8月28日。
大田實司令官の遺体確認の為に、壕内に入り旗を持ち出した米兵C・バゾイアン(Charles Bazoian)一等兵の証言によれば、旗は司令官室内の大田司令官の遺体から5フィート(1.5m)離れた位置にあったとあります。

では、少将旗は司令官室のどの位置にあったのでしょうか。
関係者の全てが亡くなっており、その正確な検証は不可能ですが、確認できる事実を繋ぎ合わせて推測してみたいと思います。

イメージ 2


まずは司令官室の写真からです。
司令官室の大きさは295cm×705cmx高さ223cmの大きさです。

西壁に大田司令官の愛唱歌「大君の 御はたのもとで死してこそ 人と生まれし甲斐ぞありけり」が書かれている事もあり、司令官室を撮影する場合、ほとんどの方がこの方向にカメラを向けて撮影します。

壕内に掲げられているイラストも大田司令官がこの愛唱歌を背にして作戦会議を開いている様子が描かれ、どう見てもこの壁の方向が正面上座と感じられる扱いをされています。

部屋には必ず上座下座が存在します。
愛称歌が書かれている西壁側が上座になるのでしょうか。
礼節を重んじる大田司令官が、上座の壁に書込みをすると言う事は不自然に感じます。

では、反対側の東側の壁はどの様な外観になっているのでしょうか。
東壁は写真ではほとんど紹介されていません、西壁の愛称歌があまりにも有名で注目されていないからです。


イメージ 5

東側の壁の写真です。
左側にある出入口が正式な入り口(表口)で、中央通路に繋がっています。
通路の途中に、入室を管理する従兵控室(衛兵控室)があります。
通路の方角は北東、つまりその延長線上に日本本土があります。

もし、少将旗をこの司令官室で保管するのであれば、上座に位置する側の壁付近に置かれていたと考えるのが妥当だと思います。
また、自分の目線より高い位置に置くのが礼だと思います。


イメージ 3

この写真は司令官室の西側の壁です。
愛唱歌が書かれている西壁は当時のまま残されているとの事です。
この愛唱歌が書かれた壁が、正面上座の方向なのでしょうか。



壕内案内図を見ると、司令官室には方角的な特徴がある事が分かります。
この部屋の4面の壁は、他の部屋とは異なり、正確に東西南北を示しているのです。

イメージ 1


この壕は、昭和19年8月沖縄へ進出した山根部隊(設営隊)により建設が開始され、昭和20年1月20日大田司令官が沖縄に赴任した以降も突貫作業で続けられていました。
この司令部壕だけは直轄の陸戦隊員だけでおこない、住民がうっかり近づくと銃剣を構えた衛兵に追い返されました。
司令部がこの壕に移動したのは昭和20年2月中と言われています。

壕内の部屋は通路に沿った形状をしていますが、司令官室は明らかに東西南北の方向を意識して作られています。
壕内は暗くて迷路の様であり、当然自分がどの方角を向いているかが分かりません。
この為、司令官室だけは正確に東西南北が分かる様に造られていると考えられます。
これは、壕内にいても常に作戦方向や、天皇陛下がいる東京(本土)の方角が簡単に分かる配置で作られているからだと思います。


私は、中央通路に繋がる正式な入り口があり、東京に繋がる東壁(東京は正確には東北の方角)が、この部屋の正面上座だと考えます。
愛唱歌が書かれているのは西壁ですから、大田司令官は下座の壁に愛称歌を書いた事になります。
西壁に書かれた「御旗」文字から、この方向を上座と考えてしまいますが、上座に書き込むのは礼を失する行為だと思うのです。

イメージ 4


大田司令官の遺体確認は6月15日と8月27日、28日に行われていますが、この内8月27日に壕内に宮城、堀川、森田の3人の見た壕内の様子は田村洋三著の「沖縄県民斯ク戦ヘリ」で次の様に紹介されています。

「大田司令官を最左翼に、幕僚達6人が部屋の東から西へ整然と一列に並んで自決しておられた、北まくらではなく、頭は南の方を向いていました。」

当時の司令部壕の「正式な出入口」は、現在の「南出口」になります。
つまり彼ら3人は当時の正式な出入口である南口から入り、真っすぐ北上し、通路を左折して司令官室に入った為、最左翼に大田司令官の遺体を確認したと表現したのだと思います。
逆の西側通路の入口(裏口)から司令官室に入れば、大田司令官の遺体は最右翼の位置となります。

即ち、この司令官室の正面上座は東壁であり、その方角は東京方面にもつながる方向ですから大田司令官の遺体が東壁に最も近い位置との整合性が取れると思います。

従って、少将旗が置いてあったとすれば、東壁の近くと考えられます。


イメージ 5

もういちど司令官室の東側を見てみたいと思います。
詳しく見ると東壁には4個所、棚用の杭孔と思われる痕跡があります。
この孔はなんの為の穴だったのでしょうか。

沖縄の旧海軍司令部壕に問い合わせた所、
    「この孔は棚を取り付けていた孔です。」との回答を得ました。

大田司令官は東側の壁を上座とし、そこに棚を作成し、おそらく天皇陛下の御真影と大切にしていた旗を置いていたものと考えます。

少将旗がこの東壁にあった棚に折り畳んで置かれていたとすれば、東壁に最も近い位置に大田司令官の遺体がありましたから、5フィート(1.5m)の位置にあったと言う発見者のC・バゾイアンの証言と一致する事になります。




さらに調べていく過程で、私は司令官室にもう1枚の旗が存在していた事を知る事になります。



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