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【9】 自決場所の謎

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【9】 自決場所の謎


このブログでは、6月15日に綺麗な状態のまま壕内から持ち出されたのが「軍艦旗」であり、8月28日にかなり傷んだ状態で持ち出されたのが「少将旗」であるとの考え方を採っています。

その検証を進める過程で、大田司令官が自決した場所について、現在は「司令官室」とされていますが、必ずしも司令官室と断定出来ない幾つかの証言と、映像が存在しています。
この章では、この謎について考えてみたいと思います


歴史的な秘話を研究する私の手法は、断片的な資料や事実を私の推理でつなぎ合わせ、仮説を立てて検証する事です。
より具体的なイメージを皆さんに提示し、その正誤を皆さんの判断に委ねたいと思います。

尚、この章の内容は、今回の少将旗の検証結果に直接影響を与えるものではありません。



【自決した場所に関する記述】

1.米国陸軍省編 「沖縄日米最後の決戦」 6月15日の項
    「地上司令部の通路で一段と高くなった所に座布団をしいて自決した大田少将と5人の参謀の死体を発見した。」

2.上原正稔著  「沖縄戦トップシークレット」
    6月15日に壕内で撮影された写真で自決の場所について
    「この写真では場所は特定できないが、司令官室ではない事は確かだ。」

3.宮里一夫著  「沖縄海軍部隊の最後」  ※上記米国陸軍省資料の引用と考えられる
    「地上司令部の通路で一段と高くなった所に座布団をしいて自決した大田少将と五人の参謀の死体を発見した。」

「一段と高くなった通路」とはどの場所でしょうか。
この文書はもともと英文で書かれていたものを翻訳したものです。
原文が「一段と高くなった場所」か「一段高くなった場所」かを含めて見極める必要があります。

次に上原正稔著「沖縄戦トップシークレット」で紹介されている6月15日に撮影された大田司令官の遺体写真から自決場所を推定してみます。

※写真は白黒を反転し、サイズを小さくしています。
 元写真を確認されたい方は「沖縄戦トップシークレット」を購入してご覧下さい。
イメージ 1

解説文によれば上原氏が確認した写真は2枚あり、1枚は大田司令官の単独写真であり、もう1枚がこの3人が写っている写真との事です。
この写真から読みとれる事は、

 1.背面の壁の状況からして、コンクリートで塗り固められた司令官室(室高223cm)の外観とは異なる。
 2.写真の背面の壁は、横板の巾が3寸(9.09cm)と仮定した場合、少なくとも床から150cm程まで垂直に
   立ちあがっている。
   これに対し、司令官室の蒲鉾型の壁は高さ1m程から少しずつカーブしている。
 3.司令官室の場合、遺体が北枕でも南枕でも、写真の右端にあるはずの出入口が写っていない。
 4.頭が壁間際まで近付いており、奥行きのない場所と考えられる。
 5.3人の遺体の間隔からして間口の狭い場所と考えられる。
 6.撮影者は6人全員の写真を撮りたかったと推定するが、カメラ位置と被写体の距離が取れなかった為に
   3人しか写せない近い距離からの撮影と考えられる。

イメージ 6


次に、司令部壕で生き残った人物の証言から検証したいと思います。

1.宮里一夫著  「沖縄海軍部隊の最後」 6月12日夜のある女性軍属の証言より。
  全員入口に向かって前進を始めた。彼女も人並みに押されて歩いていると、右側に灯りのついた部屋を見つけた。
  なにげなくそこを覗くと、四、五名の将校の遺体が、頭は北に足は入口に向けて、両手は胸の上に組み、
各自の側には日本刀を置いて静かに横たわっていた。

2.田村洋三著 「田村洋三著「沖縄県民斯ク戦ヘリ」 女性軍属 猪俣マサさんの証言
  大勢の人にもみくちゃにされ、押され押され行ったら、司令官室の前に出ました。
  部屋には電気が灯り、扇風機も回っていました。
  のぞくと、幕僚の方々が日本刀を側に置き、胸で手を合掌して横たわっておられました。
  通路からわりと近くに見えたので、西口に通じる側の入り口から見たと思います。

イメージ 2
          ※赤色→司令官室   緑色→従兵控室    ※当時の出入口は南口


宮里氏と田村氏の本に紹介されている軍属の女性は、証言時期が違うものの同一の女性と考えられます。
この中で重要な点は
 1.南にある出入口に向かって、右側に将校の遺体があった事。
 2.通路から覗いただけで様子が分かる近い場所に遺体があった。   と言う事です。


【遺体の並び順に関する記述】

もうひとつ注目すべき記述があります、6月15日と8月28日では遺体の並び順が変化している事です。
つまり遺体はこの間に動かされているのです。

[6月15日の遺体の並び順]
6月15日に撮影された写真から、大田少将の遺体は右から3番目にあった事が確認できます。
この写真に基づき、遺体の並び順を証言しているのはウィリアム中佐です。

[8月28日の遺体の並び順]
一方、8月27日に壕内に入った日本人案内役の宮城嗣吉元上等兵たちが見た状況は、遺体の数、並び方が違うなど、ウィリアム証言とかなり食い違っていました。
田村洋三著 「田村洋三著「沖縄県民斯ク戦ヘリ」によりますと、
「大田司令官を最左翼に、幕僚6人が部屋の東から西へ整然と一列に並んで自決しておられた。北まくらではなく、頭は南の方を向いていました。遺体は計7人でした。」

バーシー中佐達、米兵16名が壕内に入ったのは、8月28日であり、この時に大田少将の遺体から1.5m離れた地点でCharles Bazoian 一等兵が少将旗を発見し回収する事になるのです。

宮城氏は、7年後に遺骨召集に司令官室に入るのですが、この司令官室で7名での遺骨を収集する事なにります。

さて、これらの事実から6月15日の時点で、米軍資料表現における「通路」にあった6名の遺体は、司令官室に移動され、上座である東壁から順に大田司令官の遺体を並べ、最後に遺体を移動した人物が最も下座となる西壁近くで自決したため、人数が7名となった可能性もあります。

では、大田司令官が自決された場所は何処だったのでしょうか。
これまでの条件を整理しますと。
 1.遺体を司令官室に移動できる距離にあり、比較的狭い場所。
 2.南口に向かって右側にあり、通路からの距離が近い場所。
 3.負傷者や遺体で埋め尽くされた壕内で、立ち入りが制限された場所。
等の条件を満たす場所と考えられます。

イメージ 5
中央通路から右側の司令官室正面入り口を見る。
手前の奥まった空間が「従兵控室」、一段高くなっている様子が分かる。
奥の司令官室入口までは距離があり、女性軍属証言にある人波に押されながら必死の避難中に「なにげなく」覗ける距離ではない。
手前の「従兵控室」なら覗けば大体の様子が分かる。

イメージ 4
西側通路から司令官室の裏口を見る。
ここから見られるのは司令官室の一部であり、薄暗い電灯の中で遺体の様子や日本刀が脇に置かれている様子までは確認出来ない。
司令官室までの距離は正面口同様、人波に押されながら「なにげなく」覗ける距離ではない。


従って、この条件を満たす場所は司令官室手前の「従兵控室」ではないかと考えました。
この検証結果を基に旧海軍司令部壕に問い合わせをした所、ご親切に次の回答を頂きました。
 1.従兵控室は、間口 3.8m、奥行き1.5m+通路1.0m、高さ1.8mである。
 2.しかし、従兵控室には写真の様な木組みの壁はない、従って自決の場所がこことは考えにくい。

との回答を得ました。
広さは写真の狭さにほぼ合致します。
通路まで含めた広さは間口3.8m、奥行き2.5mで、6畳程の広さがあります。
また、田村洋三著「沖縄県民斯ク戦ヘリ」によれば、7年後の遺骨収集の時の壕内の様子として、
「室内の坑木は一物もなく取り去られ既に壕内は荒らされていた。」
とありますから、当時とは様子が変わっており、あながち否定できるものではありません、 


以下は、自決された場所が「従兵控室」である事を前提として検証を進めた文書です、これは自決場所が司令官室以外である事を伝えようとするもので、この他に可能性がある場所として、「幕僚室」、「作戦室」、もしくは司令官室に近い通路のどこかの可能性も否定できません、この場合は置き換えるだけで、考え方は同じです。
新たな事実が確認できた場合は、訂正したいと思います。


イメージ 7
昭和20年6月15日時点での推測図
大田田司令官他5名の参謀は「従兵控室」で自決された事を仮定して作成した図です。
この時の司令官室には「沖縄の日没」と書かれた「軍艦旗」が広げた状態でおかれ、上座となる東壁の棚の上には折り畳まれた「少将旗」が置かれています。

何時、潜んでいる日本兵から攻撃されるはわからない緊迫した状況の中で、懐中電灯の明かりを頼りに司令官室に広げてあった軍艦旗に気が付き、持ち出したともの考えられます。



イメージ 3
昭和20年8月28日の推測図
6月15日からの2ケ月の間に、壕内に潜んでいた日本兵が、通路で自決した司令官他を不憫に思い、司令官室に移動したと考えます。
この時、遺体を移動させた人物は、上座である東壁に一番近いの位置に大田司令官を遺体を置き、その事が2ケ月後の米軍による2回目の調査の時、司令官の遺体から1.5m離れた位置での少将旗の発見につながったのだと思います。

何故、大田司令官が自決の場所として司令官室を避けたのかは謎です。
御真影のある部屋を汚したくなかったのかもしれません。
司令官としての任務を終えた以上は、司令官室を使用すべきではないと考えたのかもしれません。


以上は全て状況証拠や証言を基に、それを組み立てて不足している部分を推測で積み上げたものです。
真実がどの様なものであったかは、67年前に関係者全員が亡くなっており、知る事は出来ません。


大田司令官が自決された場所を「従兵控室」とする考え方は、これまでの常識からすれば、かなり大胆な説だと思います。
例えば「一段と高くなった場所」と言う表現については、司令官室の西側通路に繋がる出入口には階段があり、6月15日に壕内に入った米兵が、西側通路からこの階段を上って司令官室に入れば、この「一段と高くなった場所」という表現が成り立ちます。
また「通路」と言う表現も、狭い司令官室を「通路」と勘違いした可能性も否定できません。
  
従って、大田司令官が自決された場所が、「司令官室内」である可能性を全面否定するものではありません。


この章が、司令官室として既成事実とされている大田司令官の自決場所について、もう一度考えて頂くきっかけとなれば幸いです。
  
  





     
  

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