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本田宗一郎の生誕100周年に当たり、静岡県の旧天竜市(光明村)での少年時代の足跡をたどるシリーズ。
宗一郎は、よほど歴史が好きだったのだろう。
それは幼い頃、祖父寅市にねだって聞いた戦国時代の合戦話しから始まっている。。
「私の手が語る」の中で、これでもかと思うくらい戦国時代を中心とした歴史の話しが書かれている。
その内容は専門的で奥深い。
P34-35 織田信長の桶狭間から本能寺までの話。
P70-71 武田信玄と徳川家康の三方原の合戦の話。
P107-110 武田信玄の野田城攻めの話。
P179-180 平将門の話。
P185-186 鎌倉幕府の話。
P188-189 北条政子の話。
P191-192 桶狭間の話。
P194-195 高天神城攻めの話。
P197-201 忠臣蔵の話。
P202-206 日本海海戦の話。
宗一郎はこの本の中(P164)で歴史感をこう語っている。
「人間の歴史というものは現在を知り、未来を語るための私の体験として出す話題なのである。」
宗一郎は人生の節々で歴史を教訓にした判断をしていた様に感じてならない。
例えば織田信長
古いしきたりを壊すには強力なリーダーシップとカリスマ性が必要である。
だからだったのだろうか、宗一郎は若い頃、鬼の様な振る舞いでカリスマ性を発揮した。
だが、信長が光秀に討たれた様にカリスマ性だけでは人はついてこない事を歴史は物語っていた。
信長には間違いを正す人物が存在していなかったのである。
豊臣秀吉には弟の知将秀長がいた、武田信玄には弟信繁がいた、山内一豊には弟康豊がいた。
強力なリーダーシップを発揮すれば必ず摩擦が生まれる。
重要な事はその摩擦を和らげる人物が周りにいるかどうかである。
この目立たぬ役回りを演じたのは弟弁二郎であった。
本田技研設立当時の若い宗一郎には、社員を殴ってでも強力なリーダーシップを見せつける必要があったのである。
弁二郎が影でフォローしてくれたからこそ、いかんなくカリスマ性を発揮できたのである。
藤沢武夫が登場し、本田技研が会社としての形を整えた時、弁二郎は自分の役割を終えて宗一郎の元を離れる事になる。
例えば豊臣秀吉
秀吉は抜群のアイデアマンであり、常に新しい事へのチャレンジを忘れなかった。
宗一郎が田舎の貧しい家庭から世界のホンダに成長した経過は現代版の太閤記に似ている感があり、
今でも多くのファンが宗一郎を慕っている由縁である。
しかし、秀吉は後継者の指名に失敗した。
我が子可愛さのあまり、大局を見失って幼く、力不足の秀頼に後を継がせたのである。
結果は豊臣家の滅亡に繋がってしまったのは周知の事実である。
武田勝頼を跡継ぎにした信玄や今川義元もしかりである。
宗一郎が生きた時代も弱者は必ず滅びる戦国時代同様の世界であった。
会社が滅びれば社員やその家族は路頭に迷うのである。
だからこそ自分の子供を本田技研に入社させずに45才の河島を指名し、会社の末永い存続を図ったのである。
本田宗一郎の生き方、とりわけ本田技研を勇退する時の決断は、歴史を教訓としている様に感じるのは私だけだろうか。
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良い記事ですね。参考にさせていただきます!
2010/5/24(月) 午後 7:30
3年以上前の文章なので自分で書いた事すら忘れてます。
改めて読むと、「けっこう良い」です(笑)。
2010/5/25(火) 午前 7:02 [ sera ]