旧ただ若き日を惜しめ

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【真珠湾攻撃エピソード1】  ブースト計との出会い  


インターネットオークションで物を買う場合は、常に万一に備えた慎重な吟味が必要です。

英語が苦手な私は、特に慎重になる必要があります。

万一トラブルになった場合は、泣き寝入りになってしまうからです。


2010年10月、私が興味を持ったオーシクョンの画面は次の様なものでした。
              
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               ※画面の右下のマークをクリックすると拡大します。

オークションの経験が無い方の為に、簡単に画面の構成を説明しますと、

1.画面の左手に商品の写真が掲示されています、このオークションでは計6枚の写真が添付されていました。
2.画面中央に売りたい価格が表示されます、このオークションでは$20,000がスタート価格となります。
3.画面の右手に出品者の情報、過去の出品評価実績が表示され、この出品者の信頼性が分かります。

買い手は、これらの情報を見極めて入札し、競合者を上回る価格を付ければ落札できます。

出品されていた品は、私が以前から探していた日本海軍の零式艦上戦闘機「ゼロ戦」にも使用されていた、
「吸入圧力計二型」でした。

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この計器は赤い色が華やかな印象を与える事もあり人気の計器ですが、ほとんどが破壊されたり、進駐軍がお土産として米国に持ち帰った為、めったにお目に書かれないマニアならだれでも欲しがる計器です。

それにしても、オークション開始価格が$20,000とは・・・・笑うしかありません。
しかも、写真で見る範囲ではコンディションはかなり悪い状態の様でした。

後で分かった事ですが、この出品価格には出品者の大変な事情が隠されていたのです。


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添付されていた6枚の写真の中の1枚を見た時、不思議な事に気が付きました。
この計器は「吸入圧力計二型」ではなかったのです。
そこには、「ブースト計二型」の銘板が取り付けられていました。

私も、零戦の計器板には憧れているものの、計器にはあまり詳しくないので、この意味が分かりませんでした。

そして次の画面には、商品に関する説明が書かれています。

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私も多少オークションを経験しているつもりですが、個人の出品でこの様な沢山の文章で埋め尽くされている
オークションはあまり経験がありません。
もちろん、私は辞書がないと詳細は分かりませんでしたが、出品者の誠実さがうかがえる印象でした。

この時の私は、このオークションの名称が
「Japanese Zero Gauge - World War II (WWII) Pearl Harbor」であり、
パール・ハーバー(真珠湾)の言葉が含まれている事にあまり注意を払っていませんでした。

米国では、日本の航空機は総称として「zero」と言う言葉が日常的に使用されますし、
パール・ハーバーも同様に「見出し」としての飾り言葉だと思ったからです。


しかしこの後、私は知らない間に真珠湾攻撃の世界に引き込まれていきました。




【真珠湾攻撃エピソード1】  はじめに
  

私の部屋に、ふたつの古い計器が飾ってあります。

映画「連合艦隊司令長官 山本五十六」公開を記念して書込みの最初のエピソードは、

この「真珠湾から引き揚げられた、ふたつの計器」についてです。

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私の趣味は、太平洋戦争当時の日本の戦闘機の計器板を復元する事です。

戦後、日本の戦闘機は進駐軍によって徹底的に破壊されました。

と同時に、計器板に取り付けられていた多くの計器が、進駐軍のお土産として米国に持ち帰られました。

そして戦後60余年が経過し、多くの米兵が年老いて亡くなり、遺族は遺品である計器を手放します。

計器板の復元には、これらの計器がどうしても必要です。

私は常に、海外のオークションに注目していました。

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2010年10月、私はとても興味あるオーシクョンの出品に気が付きました。

それは、70年前の真珠湾攻撃からのタイムカプセルが開かれた瞬間でした。






【1】 はじめに

.

【1】はじめに


太平洋戦争末期の沖縄戦では、日本側、米軍側合わせて20万人以上の方が亡くなりました。
その詳細については、文献やインターネット等で詳しく紹介されております。
ここでは、そのあらましだけを触れておきたいと思います。


1944年7月のサイパン島玉砕、そして1945年3月の硫黄島玉砕・・・。
アメリカ軍を主体とする連合軍は、確実に日本本土に迫っていました。
これに対し日本軍は陸軍牛島満中将の下に、沖縄県方面の兵力増強に努めていました。

そして1945年4月1日、アメリカ軍を主体とする連合国は548,000名の兵力を以って、沖縄本島に上陸を開始します。

これに対し沖縄守備軍の数は、陸軍86,400人、このほかに海軍陸戦隊が約10,000人弱、学徒隊などが20,000人で、総計116,400人が守っていました。

日本海軍の沖縄方面根拠地隊は、大田實少将が指揮を執っていました。

6月4日にアメリカ軍は第6海兵師団を迂回上陸させ、沖縄方面根拠地隊に対して包囲攻撃を開始します。

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沖縄方面根拠地隊は、現那覇市豊見城市の海軍司令部壕に4000名が立て篭もり抗戦を続けます。
そしてついに海軍部隊は壊滅し、6月13日に司令部壕内で、大田實司令官は幹部5名と共に拳銃自決を遂げます。

6月23日、日本陸軍守備隊は連隊旗である軍旗(旭日旗)を奉焼し玉砕、沖縄守備軍最高指揮官の陸軍牛島満中将が摩文仁司令部で自決し、 沖縄戦の組織的抵抗が終結しました。

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海軍沖縄方面根拠地隊の大田實少将は自決に先立つ6月6日、海軍次官宛に有名な電報を打ちます。

   「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

「沖縄戦」による死亡者は、アメリカ軍1万2,520人、沖縄出身者も含む日本軍約9万4,136人、沖縄の住民9万4,000人といわれます。

大田實少将が自決した海軍司令部壕は現在、整備されて内部が公開されています。
自決した司令官室には、大田實司令官が自ら記した愛唱歌が今も鮮やかに残っています。

     「大君の御はたのもとに死してこそ 人と生まれし甲斐ぞありけり」

        ※この歌の作者は幕末に生きた勤皇の志士「田中河内介」です。

大田實司令官はこの歌を司令官室の壁に書き、その部屋近くで自決をする事になります。

大田司令官の遺骨が収集されたのは、自決から7年が経過した昭和27年3月の事です。
それまで海軍司令部壕へ、立ち入って調査される事はありませんでした。
この7年の間に、湿気の多い壕内では、木や布は朽ち果ててしまいました。


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大田實司令官が亡くなって66回忌にあたる2011年8月、アメリカで大田實司令官の遺品が、忽然と現れます。
それは沖縄戦が終了した直後に、自決した海軍司令部壕から米兵によって持ち去られた1枚の旗でした。
大田實司令官が壁に書いた愛唱歌に繋がる大きな旗でした。
大田實司令官の「大君の御旗」は実在したのです。

この書庫「大田實少将、大君の御旗」は、この旗が66年振りに発見され、祖国日本に戻るまでの経緯を記すものです。

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※このブログの記載内容は、私が把握した事実に、私独自の推理を加えて構成したものです。
 戦後67年が経過し、当時者はほぼ全員が亡くなり、当時者の証言で検証する事は不可能です。
 歴史的な秘話を研究する私の手法は、断片的な資料や事実を私の推理でつなぎ合わせ、
 仮説を立てて検証する事です。
 より具体的なイメージを皆さんに提示し、その正誤を皆さんの判断に委ねたいと思います。
 間違いがあったり、新たな事実が発見されれば、その時点で改めれば良いと考えています。 
 従って、文中に思いこみや勘違い部分があるかもしれません、指摘頂ければ直ちに訂正させて頂きます。





 
  

.
※ 4年ぶりに「30. 原点に帰る・・・本田宗一郎生誕の地」を追記しました。2010.11.24



本田宗一郎考【索引目次】


日本人として初めてアメリカの自動車の殿堂入りした本田宗一郎・・・。
彼の生誕地を旧光明村の山東だと勘違いしている人が多い。
宗一郎と同じ村出身の私が、彼の著書「私の手が語る」を紐解き、彼の少年時代に迫るシリーズ。
































30. 原点に帰る http://blogs.yahoo.co.jp/serasan0620/42240081.html 【追記】


以上
イメージ 1


早いもので私がこの書庫「少年時代の本田宗一郎」を書き終わってから4年が経過しました。

生誕100年の時に書込みを完了しましたから、

2010年11月17日で、本田宗一郎は生誕104年となります。

この間、2010年春には待望の「本田宗一郎ものづくり伝承館」が開館し多くの訪館者で賑わっています。

そんな中、2010年9月に私にとって嬉しい出来事がありましたので、追記をする事に致しました。



4年前、このブログを書込みした時に、私は本田宗一郎の「生誕地」についてこだわりました。

「生誕地」、それはそこで生まれた人間のすべての「原点」だからです。


空があり、山があり、川があり、空気があり、風が流れる。

水があり、草木が育ち、鳥が鳴き、人がいて、言葉がある。


「生誕地」、それはそこで生まれたすべての人間の「人生のスタート地点」だからです。



本田宗一郎の原点とも言える「生誕地」とはいったい何処なのでしょう。

残念ながら、その生誕地は現在も曖昧(あいまい)にされています。

インターネット検索で「本田宗一郎」「生誕地」をキーワードに検索すると、

ほとんどが「山東」が生誕地となっています。

また、山東の光明山参道入口にある木製の記念碑「本田宗一郎の生誕地」の前で記念撮影をしている

ブログ写真もあります。

そのブログの表題は「本田宗一郎の生誕地に行ってきました」でした。

イメージ 2


私はこの事をとても憂いています。

これでは50年後には本田宗一郎の生誕の地が、この地になってしまいます。

たとえどのような事情があろうと、歴史は正しく次の世代に伝えなくてはならないと思うからです。



そんな中、2010年9月、私にとって画期的な本が出版されました。

「やってみもせんで、何がわかる 本田宗一郎」伊丹敬之著 ミネルヴァ書房です。

この本の中で、著者の伊丹氏は本田宗一郎の生誕地を「船明」と明確に書いています。

本文の内容から、伊丹氏も「私の手が語る」の文章から「船明」と結論づけたようです。

とても嬉しい本の出版でした。


「やってみもせんで、何がわかる 本田宗一郎」の中から一部を抜粋して紹介しますと、

 宗一郎は当時の磐田郡光明村に生まれた。
 光明村は天竜川が浜松平野へと流れだす、まさにその最後の山すそにある。
 村は天竜川に面し、そして村の中を天竜の支流である二俣川も流れている。
 その山と川に囲まれた静かな村の船明という地区で、宗一郎は村の鍛冶屋の長男として生まれた。

 その地名は妙に明るい。光明村であり船明である。
 そして、山の中ではあるが閉鎖された空間ではない。船明の天も広く、天竜の水も広い。

 この遠州の小さな村で生まれた宗一郎は、そこから世界に羽ばたいた。
 船明の土地が抱かせる「広がる思い」が、宗一郎という竜を天に駆け上がらせた、といえるかもしれない。

 その竜はいま、静岡県の小山の富士霊園で眠っている。
 この霊園から見ると、光明村船明は西南西の方角で、宗一郎の墓も西を向いて置かれている。
 宗一郎は故郷・船明の山河を望みながら、レーシングエンジンの爆音に包まれて眠っているのである。

 宗一郎は父儀平と同じ墓所で、遠く西に光明村船明を望んで、眠っている。
 船明の天地と父の背中から始まり、マン島を経てF1で終わった。
 天衣無縫に夢を追い続けた快男児の人生、それにふさわしい永眠のピットである。

 この本は光明村船明を出発し富士霊園に到達するまでの、一人の天才的技術者・経営者の人生を
 描こうとする本である。

 「あとがき」
 この本のごく初期の段階で、私は宗一郎が生まれた村(光明村船明)と、宗一郎のお墓(富士霊園)を訪れた。
 まず、生誕と永眠の地に自分の体を置いてみたかったのである。
 それも、自己流というべきでろう。
 しかし、そのときに二つの土地で感じたことが、この本全体のモチーフや構成の一つの基礎となっている。
 

イメージ 3


ここでもう一度、4年前に私がこのブログに書いた内容を振り返ってみたいと思います。

本田宗一郎は自身が書いた「私の手が語る」で、自らの故郷を次の様に語っています。


「私の故郷は昔の城跡などもある、少し小高くなった川沿いの村で、
  天竜(川)は大きく蛇行してうねるように集落の下を流れていた。」.....[暴れ川、天竜]


「二俣の山東小学校(正しくは二俣高等小学校)まで、家のある舟明からは四キロばかり離れていた。
  むろん、歩いての通学だ。野あり、山あり、小川ありの通学路で
   思い切り遊びながら帰る子どもたちは、例外なく腹ぺこになったものだ。」.....[60年めの味]


「山崎君(夘一)は日本ウェルディングロッドの社長で、私の小学校の同級生である。
  生家も近かったし文字どおりの竹馬の友だ。」.....[山崎君との約束]  ※山崎夘一の生家は船明。


「天竜川の洪水がひくと、ある部分には肥沃な泥土が柔らかく堆積した。
  舟明という土地もそういうところだったが、そこでできる牛蒡(船明ごぼう)はできがよいので名が通っていた。
   舟明の「ごんぼ」は子供の頃からの私の好物でもあった。」.....[自立心をつみるな]



これらの文書から、本田宗一郎は生家が光明村船明(舟明)である事を自ら記しています。


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[写真説明]
写真中央右側に白っぽく写っているのが船明尋常小学校です。
この写真には、大正15年に竣工し昭和2年に完成した南校舎が写っていてませんので撮影時期は大正の終わり頃と考えられます。
左手の天竜川には三艘の帆掛け舟が川をさかのぼっています。
この頃には宗一郎はすでに光明村を離れ東京のアート商会で修業中でした。
宗一郎の弟の弁二郎は大正14年にこの船明尋常小学校を卒業していますから、その頃の写真だと思います。
本田家はすでに隣村の山東に転居していましたが、写真右端の小高い丘には実家が残っており、この写真が写された時期には、儀平の妹夫婦である大隅夫婦が住んでしました。
大隅夫婦には子供がなく弁二郎は養子として育てられました。
宗一郎は山東の尋常小学校を卒業していますが、二俣の高等小学校に船明から通ったと「私の手が語る」に書かれていますから宗一郎も船明との繋がりは続いていた様です。
写真左に写っている天竜川は堤防によって仕切られていますが、堤防が未完だった明治時代は数年に一度氾濫し、一旦写真の右手方向に流れ、さらに大きく蛇行して写真手前を流れて本流に合流しました。
手前に広がっている平地は天竜川の洪水によって肥沃な泥土が柔らかく堆積し、牛蒡(船明ごぼう)が作られていました。
※この写真は私の秘蔵写真です。


イメージ 6

[写真説明]
同じく大正末期の船明諏訪神社の写真です。
全員が和装で素足に下駄履きです。船明諏訪神社の祭礼は毎年8月17日〜18日と決められていました。
左右に大きなのぼり旗が立てられています、旗には「氏子ノ年ノ男」の文字が読みとれます。
写っている4人の子ども達は、弁二郎とは船明尋常小学校で顔見知りの世代だと思います。
宗一郎が「私の手が語る」での祭りのときに村の若い衆が大きな鍋でつくる煮豆が好物だったとありますが、
この諏訪神社境内の出来事と考えられます。
この神社は現在船明ダムの建設により、運動公園の真下に埋まっています。



「名物は天下古今の名物にして、一人一家一世のものにあらず」

これは私の好きな江戸時代の茶道家である松江藩主松平不昧が茶道の名器について述べた言葉です。

本田宗一郎についても同様の事が言えと思います。


「本田宗一郎は世界の本田にして、一人一家一世のものにあらず」です。

自動車メーカーHONDAは、既に本田家の手を離れて世界に羽ばたいています。

本田宗一郎も、本田家の手を離れて日本が世界に誇るべき人物として、語り継がれる時が来ているのです。

さらには、地元についても本田宗一郎が故郷で過ごした日々を、正しく伝えるべき時期にあると思います。

事情があってそれが無理なら、せめて「光明村に生まれる」とし、断定的な表現を避けるべきとだと考えます。



2010年4月に「本田宗一郎ものづくり伝承館」が開館しました。

館内の年表「本田宗一郎のあゆみ」の表示は、残念ながら「山東に生まれる」となっています。

それまでの「光明村に生まれる」から一歩後退してしまった感があります。

イメージ 4


この年表の下にある写真に注目して下さい。

実は、気が付く方はまずいないと思いますが、さりげなく「船明」を示唆している写真があります。

「宗一郎の生まれ故郷」「旧光明村付近」と書かれた写真です。

イメージ 9


この写真は良く見ると「船明」の景色です、中央には船明尋常小学校が写っています。

その横には船明大池も見られます。

昭和2年に完成した白い南校舎が写っていますから、昭和初期の写真だと思います。

本田宗一郎の生家は、この写真の左方向へ約300mの地点となります。

この書き込みの4枚目の写真はこの写真の逆方向から写したもので、遠方の山の上から写したもです。

写真の説明文も「船明」とは表記できずに、「旧光明村付近」として含みを持たせています。

おそらく「船明」とは書けない事情があり、さりげなく「付近」と示唆しているのだと思います。

なんとも日本的な遠回しの表現ですが、これが現在出来るの精一杯の表現なのかもしれません。

「本田宗一郎ものづくり伝承館」に行ったら是非見て下さい。


イメージ 8


同じアングルで、現在の写真を「旧船明小学校跡地付近」から写してみました。

山の形が同じである事が分かります。

イメージ 7
[写真説明]
船明諏訪神社の横にある弁天島です、左手に船と筏の丸太が見えます。
当時、船明は天竜川を使った船による交通の中継点でした。
宗一郎は父儀平のお使いで、船明へ来た時に帰りはここから船に乗せてもらって、帰った事もありました。


本田宗一郎はその84年の人生の内、15年4カ月しか光明村にいませんでした。

しかし、光明村で過ごした日々は、その後の人生を決定付ける貴重な日々でした。

だからこそ、地元に住む私たちは正しく記録し、次の世代に伝えなければなりません。


このブログは本田宗一郎の生誕地を「船明」としている唯一のブログです。

おそらく10年経っても状況は変わらず、唯一のままかもしれません。

しかし、誰かがどこかで記録しておかないと歴史は間違って伝わってしまいます。


そんな意味で「やってみもせんで、何がわかる 本田宗一郎」伊丹敬之著 はとても感激しました。

「本田宗一郎ものづくり伝承館」の二階の書庫にも、この本が蔵書されています。

是非、お読み下さい。












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