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. 【8】軍艦旗、 沖縄の日没。 私には、気になっていた事がありました。 それは、大田實少将が少将旗を大切に壕内で保管していたならば、軍艦旗も、一緒に保管していたのではないかという事です。 軍艦旗は海軍を象徴する旗です。 司令部壕内に、軍艦旗があって少将旗が無い事は考えられますが、少将旗があって軍艦旗が無いと言う事は、考えにくいものがありました。 常識的には、司令部壕内で少将旗を保管するのであれば、すぐ近くに軍艦旗もセットで置かれていたのではと考えていました。 67年前に、少将旗が司令部壕から持ち出されたのは、旗のコンディションの悪さから8月28日と考えられます。 ではこの時、壕内に軍艦旗は無かったのでしょうか。 この疑問はある写真の存在で解けました、この時すでに軍艦旗は司令官室から持ち出されていたのです。 その写真は、沖縄県在住の宮里一夫著、ニライ社の「沖縄 旧海軍司令部壕の奇跡」に掲載されていました。 著者の宮里一夫氏と出版元のニライ社に問い合わせた所、出典は「沖縄戦記録写真集第2集『続 日本最後の戦い』」(月刊沖縄社1978)である事がわかりました。 写真の説明書きには 「大田司令官自決前日の遺墨」 大軍艦旗に「沖縄の日没」と痛恨の文字を遺して小禄守備の海軍首脳は6月13日、海軍司令部壕内で自決を遂げた。中央は第6海兵師団長シェファード少将(6月)。 と書かれています。 この写真は間違いなく昭和20年(1945)年6月15日に撮影されたものです。 前述しましたが、米軍が最初に壕内に入ったのは、大田司令官の自決から2日後に第六海兵師団長シェファード少将の命令による6月15日であり、次に壕内に入ったのが米国第十軍司令官スティルウイル陸軍中将の命令による8月28日です。 ●昭和20年6月15日 シェファード少将命令 第6海兵師団G2 ウィリアムズ中佐 日本語将校 タド・バンブラント中尉 カメラマン コナリー軍曹 米軍兵士 2名と、若い海兵隊員1名 案内役 山崎少佐と将校1名 計8名 司令官室内で大田司令官他の遺体を確認し写真撮影するも、潜んでいた日本軍兵士の手投げ弾攻撃を受け、米軍兵士2名が死亡しました。 この写真にはシェファード少将が写っていますから、この写真の兵士は6月15日の関係者という事になります。 しかも、壕内に入り生きて隊に戻ったのはウィリアム中佐以下4名ですから、人数も合致します。 つまり、この写真に写っているのは中央にシェファード少将が、その右にウィリアム中佐、左にバンブライト中尉、一番左端にコナリー軍曹、一番右端に若い海兵隊員が写っていると考えられます。 右端の若い海兵隊員は、その体型から少将旗の回収者C・バゾイアンではない事が分かります。 おそらくこの写真は、その日に記念として撮影されたものでしょう。 ここで注目すべき点は、 1.この旗が軍艦旗であり、大きさも軍六巾の大きな旗で、同じく回収された少将旗と同じ大きさです。 2.旗の外観が極めて綺麗な事です、シミや破れがある少将旗とは明らかにコンディションが違います。 3.旗には墨書きで「沖縄の日没」と「昭和二十年六月十二日」と書かれています。
大田實少将は司令官室に愛唱歌を書き遺しており、身近に筆を置いていたでしょうし、
この軍艦旗に書き込みする事の出来る人物は、最高司令官である大田司令官しかないと思います。つまり、この二つの言葉は説明書どおり、大田司令官直筆と考えるのが妥当です。 だとすれば、6月12日の日没を見て軍艦旗に書込みをしたと考えられますから、この軍艦旗こそが大田司令官が自決の時に最も身近にあった旗と言う事になります。 そして、その時間は沖縄の日没の6月12日18時頃から、自決をする13日の午前1時の間となります。 旗の写真をよく見ても墨汁の写り込みはありませんから、広げた状態で書込みしたものと思います。 この様な大きな旗を広げて書きこめる場所は、司令官室の机の上しかありません、しかも壕内は湿気が極めて高く、簡単には乾きません。 当然、広げた状態で机の上に置かれていたと考えられます。 つまり、机の上に広げて置かれた「軍艦旗」と、棚の上に畳んで置かれた「少将旗」、この僅か数メートルの位置の違いが、この2枚の旗のその後の異る運命を決めたのです。 6月15日に司令官他の遺体を確認した海兵隊員は、置いてあった「軍艦旗」を持ち出しましたが、棚の上に置かれていた「少将旗」は暗闇の中で気づかなかったものと考えます。 8月28日にCharles Bazoian一等兵が壕内に入った時には少将旗しか壕内に残っていなかった事になります。 6月15日に司令部壕から持ち出された綺麗なままの軍艦旗、そして別な場所にあって見逃され2ケ月間壕内で湿気にさらされた少将旗。 2枚の旗のコンディションが大きく異なるのは、この様な理由によるものだと思います。 では、大田司令官が最後に軍艦旗に書きこんだ「沖縄の日没」とはどのような意味があるのでしょうか。 この書込みをした時は、正に最期の時を迎え様としていた時です。 北壁には「醜米覆滅」と書かれ、南壁には「神州不滅」と書かれています。 北壁 南壁 そして西壁には有名な「大君の御旗」の歌が書かれています。 南北の壁には戦闘を鼓舞する書込みですが、西壁の愛称歌は死の途に就く爽やかな心境の唄が書かれています。 この書き込みと、軍艦旗に書かれていた書込みとはどの様な関係があるのでしょうか。 大田少将が自決されたのは、6月13日の午前1時とされていますが、大田司令官の中では12日が最期の日との認識があった事でしょう。 その意味から左側には「昭和二十年六月十二日」と日付を書きこんだものと思います。 そして、右側に書かれている「沖縄の日没」は、連合国に占領され戦後沖縄の「茨の道」が始まる運命の時、との意味が含まれていると思います。 では何故、日付と時間を書きこんだのでしょうか。 私はこれに続く言葉が、「この時間を以って、海軍沖縄根拠地隊の戦闘を終止する」との意味だったと思います。 この軍艦旗への書込みは、海軍沖縄根拠地隊の任務を完了する、司令官としての最後の仕事だったと思います。 大田實が自決した2日後の6月15日、遺体確認の為に壕内に入った米兵は暗闇の中で、卓上に広げられていた軍艦旗に気付き回収します。 そして2ケ月半が経過します。 8月27日、翌日に米軍兵士を案内する為の下見として司令官室に入った宮城、堀川、森田の3氏はふと壁に懐中電灯の光を当てると、達筆な筆文字で「大君の御旗」の和歌に気付き、それをみた途端、万感胸に迫り3人とも男泣きをする事になります。 翌8月28日、壕内に遺体確認に入った、Charles Bazoian一等兵は司令官室東壁の棚の上に置かれた少将旗を見つけます。 旗は漏水に濡れ、黒カビが生え、火炎により一部が焦げていました。 Charles Bazoian はこの旗を戦利品としてアメリカに持ち帰ります。 そしてこの旗が再び日本に戻るまで67年もの歳月を経る事になります。 あの日、司令部壕内には2枚の旗が存在していました。 この2枚の旗こそが、大田實司令官が心の支えとして戦った「大君の御旗」だったと考えます。 軍艦旗は、現在もアメリカのどこかに存在すると確信しています。 しかし、その行方は全く掴めていません。 .
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