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【8】軍艦旗、 沖縄の日没。

私には、気になっていた事がありました。
それは、大田實少将が少将旗を大切に壕内で保管していたならば、軍艦旗も、一緒に保管していたのではないかという事です。

軍艦旗は海軍を象徴する旗です。
司令部壕内に、軍艦旗があって少将旗が無い事は考えられますが、少将旗があって軍艦旗が無いと言う事は、考えにくいものがありました。
常識的には、司令部壕内で少将旗を保管するのであれば、すぐ近くに軍艦旗もセットで置かれていたのではと考えていました。

67年前に、少将旗が司令部壕から持ち出されたのは、旗のコンディションの悪さから8月28日と考えられます。
ではこの時、壕内に軍艦旗は無かったのでしょうか。
この疑問はある写真の存在で解けました、この時すでに軍艦旗は司令官室から持ち出されていたのです。

その写真は、沖縄県在住の宮里一夫著、ニライ社の「沖縄 旧海軍司令部壕の奇跡」に掲載されていました。
著者の宮里一夫氏と出版元のニライ社に問い合わせた所、出典は「沖縄戦記録写真集第2集『続 日本最後の戦い』」(月刊沖縄社1978)である事がわかりました。

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写真の説明書きには

「大田司令官自決前日の遺墨」
大軍艦旗に「沖縄の日没」と痛恨の文字を遺して小禄守備の海軍首脳は6月13日、海軍司令部壕内で自決を遂げた。中央は第6海兵師団長シェファード少将(6月)。

と書かれています。
この写真は間違いなく昭和20年(1945)年6月15日に撮影されたものです。

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前述しましたが、米軍が最初に壕内に入ったのは、大田司令官の自決から2日後に第六海兵師団長シェファード少将の命令による6月15日であり、次に壕内に入ったのが米国第十軍司令官スティルウイル陸軍中将の命令による8月28日です。



●昭和20年6月15日  シェファード少将命令   

   第6海兵師団G2 ウィリアムズ中佐
   日本語将校    タド・バンブラント中尉
   カメラマン     コナリー軍曹
   米軍兵士     2名と、若い海兵隊員1名
   案内役       山崎少佐と将校1名          計8名
   
司令官室内で大田司令官他の遺体を確認し写真撮影するも、潜んでいた日本軍兵士の手投げ弾攻撃を受け、米軍兵士2名が死亡しました。



この写真にはシェファード少将が写っていますから、この写真の兵士は6月15日の関係者という事になります。
しかも、壕内に入り生きて隊に戻ったのはウィリアム中佐以下4名ですから、人数も合致します。
つまり、この写真に写っているのは中央にシェファード少将が、その右にウィリアム中佐、左にバンブライト中尉、一番左端にコナリー軍曹、一番右端に若い海兵隊員が写っていると考えられます。
右端の若い海兵隊員は、その体型から少将旗の回収者C・バゾイアンではない事が分かります。


おそらくこの写真は、その日に記念として撮影されたものでしょう。

ここで注目すべき点は、

1.この旗が軍艦旗であり、大きさも軍六巾の大きな旗で、同じく回収された少将旗と同じ大きさです。

2.旗の外観が極めて綺麗な事です、シミや破れがある少将旗とは明らかにコンディションが違います。
 
3.旗には墨書きで「沖縄の日没」と「昭和二十年六月十二日」と書かれています。
大田實少将は司令官室に愛唱歌を書き遺しており、身近に筆を置いていたでしょうし、
  この軍艦旗に書き込みする事の出来る人物は、最高司令官である大田司令官しかないと思います。

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つまり、この二つの言葉は説明書どおり、大田司令官直筆と考えるのが妥当です。
だとすれば、6月12日の日没を見て軍艦旗に書込みをしたと考えられますから、この軍艦旗こそが大田司令官が自決の時に最も身近にあった旗と言う事になります。
そして、その時間は沖縄の日没の6月12日18時頃から、自決をする13日の午前1時の間となります。
旗の写真をよく見ても墨汁の写り込みはありませんから、広げた状態で書込みしたものと思います。
この様な大きな旗を広げて書きこめる場所は、司令官室の机の上しかありません、しかも壕内は湿気が極めて高く、簡単には乾きません。

当然、広げた状態で机の上に置かれていたと考えられます。
つまり、机の上に広げて置かれた「軍艦旗」と、棚の上に畳んで置かれた「少将旗」、この僅か数メートルの位置の違いが、この2枚の旗のその後の異る運命を決めたのです。

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6月15日に司令官他の遺体を確認した海兵隊員は、置いてあった「軍艦旗」を持ち出しましたが、棚の上に置かれていた「少将旗」は暗闇の中で気づかなかったものと考えます。
8月28日にCharles Bazoian一等兵が壕内に入った時には少将旗しか壕内に残っていなかった事になります。

6月15日に司令部壕から持ち出された綺麗なままの軍艦旗、そして別な場所にあって見逃され2ケ月間壕内で湿気にさらされた少将旗。
2枚の旗のコンディションが大きく異なるのは、この様な理由によるものだと思います。

では、大田司令官が最後に軍艦旗に書きこんだ「沖縄の日没」とはどのような意味があるのでしょうか。
この書込みをした時は、正に最期の時を迎え様としていた時です。

北壁には「醜米覆滅」と書かれ、南壁には「神州不滅」と書かれています。

北壁
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南壁
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そして西壁には有名な「大君の御旗」の歌が書かれています。
南北の壁には戦闘を鼓舞する書込みですが、西壁の愛称歌は死の途に就く爽やかな心境の唄が書かれています。

この書き込みと、軍艦旗に書かれていた書込みとはどの様な関係があるのでしょうか。

大田少将が自決されたのは、6月13日の午前1時とされていますが、大田司令官の中では12日が最期の日との認識があった事でしょう。
その意味から左側には「昭和二十年六月十二日」と日付を書きこんだものと思います。

そして、右側に書かれている「沖縄の日没」は、連合国に占領され戦後沖縄の「茨の道」が始まる運命の時、との意味が含まれていると思います。

では何故、日付と時間を書きこんだのでしょうか。

私はこれに続く言葉が、「この時間を以って、海軍沖縄根拠地隊の戦闘を終止する」との意味だったと思います。
この軍艦旗への書込みは、海軍沖縄根拠地隊の任務を完了する、司令官としての最後の仕事だったと思います。



大田實が自決した2日後の6月15日、遺体確認の為に壕内に入った米兵は暗闇の中で、卓上に広げられていた軍艦旗に気付き回収します。

そして2ケ月半が経過します。

8月27日、翌日に米軍兵士を案内する為の下見として司令官室に入った宮城、堀川、森田の3氏はふと壁に懐中電灯の光を当てると、達筆な筆文字で「大君の御旗」の和歌に気付き、それをみた途端、万感胸に迫り3人とも男泣きをする事になります。

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翌8月28日、壕内に遺体確認に入った、Charles Bazoian一等兵は司令官室東壁の棚の上に置かれた少将旗を見つけます。
旗は漏水に濡れ、黒カビが生え、火炎により一部が焦げていました。

Charles Bazoian はこの旗を戦利品としてアメリカに持ち帰ります。
そしてこの旗が再び日本に戻るまで67年もの歳月を経る事になります。

あの日、司令部壕内には2枚の旗が存在していました。
この2枚の旗こそが、大田實司令官が心の支えとして戦った「大君の御旗」だったと考えます。

軍艦旗は、現在もアメリカのどこかに存在すると確信しています。
しかし、その行方は全く掴めていません。


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【 P−51D マスタング戦闘機 計器板 】

P−51は、アメリカのノースアメリカンにより製造されたレシプロ単発単座戦闘機です。
愛称はマスタング (Mustang)、あるいはムスタングです。

第二次世界大戦の半ばにイギリスのロールス・ロイス マーリンエンジンを搭載した後は、大きな航続力、高高度性能、運動性を与えられ、多くの戦功を残し、最高のレシプロ戦闘機とみなされています。

日本の零戦、ドイツ空軍のメッサーシュミットBf109、イギリス空軍のスピットファイアなどとともに、第二次世界大戦期の代表的な戦闘機として知られています。

生産数は、16,766機、運用開始は1943年12月。

Wikipediaより。

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完成したP−51D 複製計器板です。
計器類は当時のオリジナルですが、一部代用計器が含まれています。

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本物のP−51Dの計器板です。
この写真のオリジナル度はかなり高いと思われます。
照準器がかなり手前にオフセットされている事が分かります。
照準器前面に書かれている「NO HAND HOLD」の意味する所は、「操縦席への乗り降り時に手を掛けるな」との意味でしょうか。
照準器が操縦者側に突出して強度不足の為、手を掛けないようにとの注意だと思うのですが。
私の計器板の照準器も、ちょっと力を加えるとポロリと脱落しそうな強度です。

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射爆照準器 K−14A(光像式)射爆照準器です。
米軍戦闘機に使用されていた照準器については、こちらでご覧下さい。
http://gunsight.jp/b/1/sight-aa.htm

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零戦五二型の計器板と、P−51Dの計器板を並べて撮影した見ました。
やっぱり零戦は美しいですね。
P−51Dの計器板は、生産性やサービス性を考慮して作られている事がわかります。
水平儀と定針儀(ジャイロ)をサブパネルに予め取り付けてから、本体計器板に取り付けています。
全ての計器は前面からセットして取り付けられており、交換等のサービス性の良さが感じられます。

零戦は、全ての計器がパネルの背面からセットし前面からビスで締め付けてあります。
この取り付け方法により、全ての計器が計器板ベースに対して「ツライチ」になっています。
でも、計器板を機体に取り付けた後、故障した計器はどのようにして交換したのでしょうか。
零戦の整備員は、随分苦労された事と思います。

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P−51Dは現在でも飛行可能な機体があり、ショーで美しい姿が見られます。
空冷エンジン機では「零戦」が一番美しいと思いますが、液冷エンジン機では残念ならが「飛燕」より、P−51Dのデザインの完成度の方が高いと思います。

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【7】 司令官室の棚

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【7】 司令官室の棚

昭和20年8月28日。
大田實司令官の遺体確認の為に、壕内に入り旗を持ち出した米兵C・バゾイアン(Charles Bazoian)一等兵の証言によれば、旗は司令官室内の大田司令官の遺体から5フィート(1.5m)離れた位置にあったとあります。

では、少将旗は司令官室のどの位置にあったのでしょうか。
関係者の全てが亡くなっており、その正確な検証は不可能ですが、確認できる事実を繋ぎ合わせて推測してみたいと思います。

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まずは司令官室の写真からです。
司令官室の大きさは295cm×705cmx高さ223cmの大きさです。

西壁に大田司令官の愛唱歌「大君の 御はたのもとで死してこそ 人と生まれし甲斐ぞありけり」が書かれている事もあり、司令官室を撮影する場合、ほとんどの方がこの方向にカメラを向けて撮影します。

壕内に掲げられているイラストも大田司令官がこの愛唱歌を背にして作戦会議を開いている様子が描かれ、どう見てもこの壁の方向が正面上座と感じられる扱いをされています。

部屋には必ず上座下座が存在します。
愛称歌が書かれている西壁側が上座になるのでしょうか。
礼節を重んじる大田司令官が、上座の壁に書込みをすると言う事は不自然に感じます。

では、反対側の東側の壁はどの様な外観になっているのでしょうか。
東壁は写真ではほとんど紹介されていません、西壁の愛称歌があまりにも有名で注目されていないからです。


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東側の壁の写真です。
左側にある出入口が正式な入り口(表口)で、中央通路に繋がっています。
通路の途中に、入室を管理する従兵控室(衛兵控室)があります。
通路の方角は北東、つまりその延長線上に日本本土があります。

もし、少将旗をこの司令官室で保管するのであれば、上座に位置する側の壁付近に置かれていたと考えるのが妥当だと思います。
また、自分の目線より高い位置に置くのが礼だと思います。


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この写真は司令官室の西側の壁です。
愛唱歌が書かれている西壁は当時のまま残されているとの事です。
この愛唱歌が書かれた壁が、正面上座の方向なのでしょうか。



壕内案内図を見ると、司令官室には方角的な特徴がある事が分かります。
この部屋の4面の壁は、他の部屋とは異なり、正確に東西南北を示しているのです。

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この壕は、昭和19年8月沖縄へ進出した山根部隊(設営隊)により建設が開始され、昭和20年1月20日大田司令官が沖縄に赴任した以降も突貫作業で続けられていました。
この司令部壕だけは直轄の陸戦隊員だけでおこない、住民がうっかり近づくと銃剣を構えた衛兵に追い返されました。
司令部がこの壕に移動したのは昭和20年2月中と言われています。

壕内の部屋は通路に沿った形状をしていますが、司令官室は明らかに東西南北の方向を意識して作られています。
壕内は暗くて迷路の様であり、当然自分がどの方角を向いているかが分かりません。
この為、司令官室だけは正確に東西南北が分かる様に造られていると考えられます。
これは、壕内にいても常に作戦方向や、天皇陛下がいる東京(本土)の方角が簡単に分かる配置で作られているからだと思います。


私は、中央通路に繋がる正式な入り口があり、東京に繋がる東壁(東京は正確には東北の方角)が、この部屋の正面上座だと考えます。
愛唱歌が書かれているのは西壁ですから、大田司令官は下座の壁に愛称歌を書いた事になります。
西壁に書かれた「御旗」文字から、この方向を上座と考えてしまいますが、上座に書き込むのは礼を失する行為だと思うのです。

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大田司令官の遺体確認は6月15日と8月27日、28日に行われていますが、この内8月27日に壕内に宮城、堀川、森田の3人の見た壕内の様子は田村洋三著の「沖縄県民斯ク戦ヘリ」で次の様に紹介されています。

「大田司令官を最左翼に、幕僚達6人が部屋の東から西へ整然と一列に並んで自決しておられた、北まくらではなく、頭は南の方を向いていました。」

当時の司令部壕の「正式な出入口」は、現在の「南出口」になります。
つまり彼ら3人は当時の正式な出入口である南口から入り、真っすぐ北上し、通路を左折して司令官室に入った為、最左翼に大田司令官の遺体を確認したと表現したのだと思います。
逆の西側通路の入口(裏口)から司令官室に入れば、大田司令官の遺体は最右翼の位置となります。

即ち、この司令官室の正面上座は東壁であり、その方角は東京方面にもつながる方向ですから大田司令官の遺体が東壁に最も近い位置との整合性が取れると思います。

従って、少将旗が置いてあったとすれば、東壁の近くと考えられます。


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もういちど司令官室の東側を見てみたいと思います。
詳しく見ると東壁には4個所、棚用の杭孔と思われる痕跡があります。
この孔はなんの為の穴だったのでしょうか。

沖縄の旧海軍司令部壕に問い合わせた所、
    「この孔は棚を取り付けていた孔です。」との回答を得ました。

大田司令官は東側の壁を上座とし、そこに棚を作成し、おそらく天皇陛下の御真影と大切にしていた旗を置いていたものと考えます。

少将旗がこの東壁にあった棚に折り畳んで置かれていたとすれば、東壁に最も近い位置に大田司令官の遺体がありましたから、5フィート(1.5m)の位置にあったと言う発見者のC・バゾイアンの証言と一致する事になります。




さらに調べていく過程で、私は司令官室にもう1枚の旗が存在していた事を知る事になります。



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【12】 おわりに

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【12】おわりに

大田實少将は、沖縄に赴任する時点で死を覚悟していた事でしょう。

沖縄戦開始2ケ月前、昭和20(1945)年1月、沖縄方面根拠地隊司令の辞令が下った数日後、大田實は家族を呼びよせ、全員そろっての大田家最後の写真を撮りました。

写っているのは大田實と妻かつ、そして10人の子供達、末子の大田豊はまだ母親のお腹の中にいました。

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                        大田英雄著「父は沖縄で死んだ」


海軍司令部壕の司令官室に置かれていた「軍艦旗」と「少将旗」は、大田少将の愛唱歌にも歌われている「大君の御旗」に重ね合わせて大切に保管していたものと思います。
私はこれらの事から、このブログタイトルを「大田實少将、大君の御旗」としました。



太平洋戦争が終わって67年。

沖縄はいまもなお、戦争によって決まった枠組みに苦しめられています。
沖縄の土地の多くは、まだ米軍基地として使用され戻されていません。

私達は、あの日の大田司令官の思いに応えているのでしょうか。



私は、今回のこの取組の前、大田司令官の名前すら知りませんでした。
日頃、太平洋戦争に十分興味を持っていたつもりでしたからショックを受けました。

毎年、夏になると沖縄から市民が巻き込まれた、悲惨な戦いのニュースが発信されます。
ひめゆり部隊の名称は何百回もニュースや新聞で取り上げられています。

しかし、その中に沖縄戦で無念の死を遂げた軍人軍属に関する情報があまりに少ない事に気づかされました。
沖縄で戦った陸海軍の兵士達は、好き好んで沖縄に赴いたのではありません。
兵士達も、召集令状によって無理やり戦場に送り込まれるまでは普通の市民でした。
故郷に愛する家族を残し、その家族を守る為に戦い死んでいったのです。

私は、今まで大田少将の名前を知らなかった事を恥ずかしく思います。



戦争に「加害者」も「被害者」もありません。
全てが「被害者」なのです。


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最後に大田司令官と、沖縄県民との知られざるエピソードをひとつ紹介したいと思います。

前述の検証(9.自決場所の謎)の中で、6月15日の遺体の頭の位置が「北」に対し、8月28日の遺体の頭の位置が「南」になっていた事を記しました。
その事について触れておきたいと思います。

8月28日の遺体の様子は、大田司令官を上座に安置し一列に整然と並べられ、帽子や肩章が枕元に置かれていました。
これは明らかに敬意をもって弔っている事が分かります。

では何故この時、頭の位置が「北枕」になっていなかったのでしょうか。
礼を以って遺体を弔うのであれば、北枕に遺体を安置するはずです。


これは本土と沖縄の、死後の方角に関する風習の違いが関係していると思います。




昔から 北に頭を向けて寝ることを「北枕」といい 縁起が悪いとされてきました。
もともと釈迦が入滅したとき 頭を北にしていたことから 死者を安置するとき 頭を北にするという
習慣が生まれました。
それと 同じことを生者がするのは縁起が悪いと考えられたのです。

ところが 沖縄に行くと「西枕」が縁起が悪いとされています。
「北枕」でなく「西枕」が タブーになったのは 沖縄方言で「北」を「ニシ」と言ったことが原因のようです。
「北枕」と「西枕」が混同され いつしか「西枕」が不吉とされていたのです。

しかも 沖縄では東を太陽が昇ることから『アガリ』、西を太陽が沈むことから『イリ』と言います。
西は太陽が沈む方角というイメージが強く 死をも連想させます。
それもあって 死者が頭を向ける方角として「西枕」がすんなり受け入れられたようです。


【引用】ブログ「1日10分で100個の雑学」より。




つまり、当時の沖縄県では死者の頭を「北枕」にする風習が無かったと言う事です。

これを司令官室の方角に当てはめてみますと、部屋の配置上、頭は「南」か「北」に安置するしかありませんでした。
遺体を司令官室に移動した人物が、本土出身者なら、迷わず頭を「北」にしたと思います。
遺体の頭が「南」になっていたと言う事は、遺体を移動して弔った人、または人達が沖縄県民の可能性があるのです。

沖縄の後世を心配した大田司令官に対する、沖縄の人達の気持ちが伝わるエピソードだと思います。



最後に、私の所有している少将旗の今後についてですが、
今回、もう一枚の少将旗が発見され、旧海軍司令部での展示が決まるまでは、私も私の所有している少将旗は個人で保管すべきものではなく、旧海軍司令部壕で展示して頂き、多くの方に見てもらいたいと考えていました。

しかし、いくら少将旗が複数存在する事がありえる事とは言え、同じ資料館に大田少将旗が二枚存在すると言う事は、見学者の混乱を招きます。

昭和20年6月15日、全滅した司令部壕の丘の上に翻っていたのであれば、公式返還された少将旗が旧海軍司令部壕の資料館で展示するにふさわしい旗だと思います。

さてさて、私の旗をどうするか・・・、もうしばらく考えてみたいと思います。




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         遠方右手で木一本無く、丸裸となった丘が海軍司令部壕のある高地(昭和20年6月) 


末筆ながら、このブログを書き込むに当り、協力頂きました皆さまにこの場を借りてお礼申し上げます。

その中でも、大平一郎氏は、旗がスペインで行方不明となった時から親身になって一緒に探して頂き、その後の検証に当っても様々なサポートを頂きました。
ここに深い感謝の気持ちを表したいと思います。


「歴史を正しく次の世代に語り継ぐ事は、私達の義務です。」


最後までお読み頂きありがとうございました。



【追記】

正直言わせて頂きますと、現在、沖縄の「海軍軍司令部壕」で展示されている少将旗は、発見当時の由来の説明がされておりませんので、私がかつて掴んでいた園田少将旗が、太田少将旗に置き換わってしまったのではないかとの疑問はぬぐいきれません。

資料館や博物館で、所縁の品として展示する以上、その根拠となる「由来」を調査して掲示すべきと思いますが、その調査が全くなされないまま展示されている事になります。

しかし、折角日米合同の返還式がなされた以上、これに疑問を呈するという事は太田實少将の望む所ではないと考えています。

私は、私の入手した少将旗こそが、太田實少将の最期を共にした「大君の御旗」と考えていますが、個人で保管するには限界があり、せめて劣化を防ぐ為にしかるべき博物館に寄贈しようと考えました。

そして、太田實少将の思いを語り継いで頂く地として、広島県江田島にある旧海軍兵学校「教育参考館」こそが最も相応しい地と考え、旗とこの文章を江田島に持参して託してきました。

しかし後日、旗は宅急便で返送されてきました。
オークションで購入した旗は、由来が怪しいと判断されたのだと思います。

私にとって、これほど悲しい出来事はありませんでした。
全て私の力不足による結果であり、太田實少将に申し訳ないとの思いで、暫く立ち直れませんでした。
しかし、江田島の第一術科学校の司令官判断によるものであり、諦めざるを得ませんでした。

少将旗は、行き場が無くなってしまいましたが、事情を理解して頂いた海上海上衛隊OBの方のお口添えで、広島県呉市の「大和ミュージアム」寄贈させて頂く事が出来ました。

現在はミュージアムの倉庫の奥で、静かに保管されている事と思います。

この地で適切に管理され、沖縄に対する太田實少将の思いを、次の世代に永く伝えられる事を祈念します。





平成24年(2012)6月24日 沖縄全戦没者追悼式における野田佳彦首相の言葉

野田首相式典挨拶(要旨)

人間が犯してきた罪深い戦争の中でも、ひときわ苛烈で凄惨(せいさん)な戦闘だったと言われる沖縄戦から67年目となる初夏を迎えた。

沖縄の苦難の歴史に思いをはせるとき、私は、大田実中将の最期の言葉を思い起こさずにはいられない。
「沖縄県民斯(か)く戦えり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを」と結ばれた電信文に込められた、
祈りにも似た悲痛な願いだ。
私たちは、常に問い返さなければならない。
沖縄の皆さんの抱く思いを全ての日本人で分かち合おうとする格別の努力を尽くしてきているだろうか、と。

戦争の惨禍を二度と繰り返さないために、国の安全保障に万全を期すことは、国政をあずかる者の務めだ。
わずかなりともおろそかにすることはできない。

他方、現在も沖縄に米軍基地が集中し、県民に長年多大な負担をかけている事実は慚愧(ざんき)に堪えない。
基地負担の早期軽減に全力を尽くし、目に見える形で進展させることをあらためて誓う。
今日のわが国の平和と繁栄は戦没者の犠牲の上に築かれている。
祖国の未来を次の世代に託さざるを得なかった戦没者の悲痛な思いを受け継ぎ、わが国は不戦の誓いを堅持する。






end



追記
「少将旗」は個人での保管では劣化の恐れが大きいため、呉市の「大和ミュージアム」に寄贈しました。
大田實少将が「沖縄の日没」と書き込んだ「軍艦旗」は、米国のどこかで保管されていると考えられますが、現在、その所在は不明です。





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【6】C・バゾイアンと、D・ダベンポート


果たして、沖縄米軍海兵隊にCharles Bazoian(C・バゾイアン)一等兵は実在したのでしょうか。


私にはもう一つ解明しなければならない事がありました。
それは、「旗がどの様な経緯でアメリカに渡り、今回オークションに出されたのか」です。

前述の様に、旗に添えられていた説明文は、博物館等での展示説明に慣れた方が、書かれた印象を受けましたが、この文書を作成した元の持ち主は、どの様な人物だったのでしょうか。


この元の持ち主に関する疑問は簡単に解けました。
旗が無事到着した事を出品者にメールで伝えたやり取りの中に、この様な文章が入っていたのです。

「As you know, My father was curator for the Battle of Okinawa Museum on Okinawa for many years located on Camp Kinser.」

「あなたが知っているように、私の父は長年「沖縄キャンプ・キンザー」にある沖縄戦資料館の館長でした。」

これは全くの初耳でした。

イメージ 4
              ※沖縄県浦添市キャンプ・キンザー Battle of Okinawa Museum
イメージ 3


直ちにインターネットで「出品者のファミリーネーム」と「沖縄」(Davenport OKINAWA)で検索した所、数多くヒットし、彼の足跡を知る事が出来ました。
彼はアメリカ人による沖縄戦研究に関しては第一人者だったのです。

イメージ 1

出品者の父 Dave Davenportは1944生まれで、1965年21歳の時に沖縄に赴任しました。
60年代の後半、彼は精力的に沖縄の戦跡を調査して収集した数千点の遺品を寄贈し、沖縄県浦添市のキャンプ・キンザー内に「沖縄戦争資料館 Battle of Okinawa Museum 」を設立しました。

Dave Davenportは、生涯沖縄戦の研究に関わり2006年、癌で亡くなります。
享年62歳でした。



これですべての「点」が繋がった事になります。

整理しますと、大田少将旗は沖縄戦の遺品を集めていたDavenport氏が、海兵隊ルートを通じて元海兵隊員のCharles Bazoian 一等兵(司令部壕からの回収者)から購入、もしくは寄贈されたものと考えられます。

Davenport氏は、収集品の中でも超一級品の資料と言える大田少将の遺体近くから回収されたこの旗だけは、設立した「沖縄戦争資料館」に寄付する事はせず、個人で秘蔵していたのでしょう。

旗に添付されていた説明資料は、間違いなくDave Davenport氏が作成したものです。
おそらく元海兵隊員で、壕から旗を回収したCharles Bazoian 氏から直接当時の話を聞いて作成したものと思います。
そして、ドイツ語が書かれたツナの缶詰があった事や、旗が遺体から5フィート離れていた場所にあった事を、添付されていた説明資料に盛り込んだのだと思います。
その時期は、説明資料の変色状況からしておそらく20〜30年以上前の事だったと推測します。

また、説明資料が汚れ防止のカバーを被せられている事からして、一時期 Dave Davenportが館長をしていた沖縄の戦争資料館に展示されていた可能性もあります。

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そして2006年にDavenport氏は癌で亡くなり、その旗を引き継いだ息子さんが5年後に遺品を整理し、オークションに出品したものと考えられます。




さらに確証を得る為には、司令部壕壕から旗を回収した海兵隊員 Charles Bazoian が当時沖縄に配属されていたかを確認する事が重要です。

しかし、素人の私が出来る検証はこれまでが限界であり、これ以上は困難でした。

この調査は、サポート頂いていた報道機関の方が協力してくれました。


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                         Charles Bazoian (1925-2009)

66年前に旗を司令部壕から持ち出した米軍海兵隊一等兵「 Charles Bazoian」は、
1943〜1946年まで軍に在籍し、1945年当時沖縄に配属されていた事が確認出来ました。
同時にC・バゾイアンが、2009年10月25日に亡くなっていた事も判明しました。


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                           1945当時  C・バゾイアン 

C・バゾイアンは沖縄戦当時20歳の若者でした。
昭和20年6月15日に司令部壕内に入った人物の内、唯一名前が判明していない若い兵士とは、後に体型の違いから別人である事が分かります。
従って、C・バゾイアンが司令部壕内に入ったとすれば、8月28日に壕内に入った16名の米兵の内の一人である可能性があります。

C・バゾイアンは晩年(2003.11 78歳の時)インタビーに応えて、沖縄配属当時の思い出を語っています。
残念ながら少将旗を発見回収した時の回想は残されていませんでしたが、当時の海兵隊では日本の旗が米国への土産として、とても人気があった事を語っています。

回想中の「Big white flag with a red ball in the middle」は少将旗の可能性もあります。

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Now during the war, in battle, all soldiers like to find certain souvenirs, maybe an enemy flag or whatever. But I remember the first time I came across a Japanese flag. Big white flag with a red ball in the middle,

戦闘中にすべての兵士たちは、信頼できるお土産を欲しがります、敵の旗やそのほか何でもです。
私は日本の旗に初めて出会った事を覚えています。中央に赤いボール(日の丸)がある大きな白い旗でした。

Flag of Japanese forces has a lot more value. Sure enough, we sold two three like it.

日本軍の旗はとても価値があります、私達は確かに2〜3枚売却しました。



C・バゾイアンは実在していました。
これで、少将旗に添付されていた説明資料の、全ての項目を確認する事が出来ました。
証言の中の、「中央に赤いボール(日の丸)がある大きな白い旗」が少将旗を指すのか、それとも日章旗を指すのか定かではありません。
沖縄で数多くの旗を見た中で、特に記憶が残っている事からして、相当大きな旗だったであろうことは推測出来ます。
C・バゾイアンがダベンポートに少将旗の所有権を引き継いだことを考慮すれば、この大きな旗が少将旗であった可能性が高いと考えます。


しかし、67年という年月はあまりにも長く、C・バゾイアンと、D・ダベンポート共に亡くなっており、家族からの証言を含め、このルートからこれ以上の情報を得る事は出来ませんでした。







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