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【5】 マグロの缶詰

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【5】マグロの缶詰

2枚の添付文書に書かれていた4項目の検証をする事にしました。

  1.大田實司令官は喉を切って(切られて)いたか。
  2.遺体の近くに、軍刀やその他の品々が揃えて置かれていたか。
  3.缶詰が沢山あり、その中にドイツ語が書かれたツナ缶はあったか。
  4.当時の沖縄米軍海兵隊にCharles Bazoian(C・バゾイアン)一等兵はいたか。
  



【 1.大田實司令官は喉を切って(切られて)いたか 】

前述の上原正稔著「沖縄戦トップシークレット」に詳細に書かれています。
遺体が喉を切られていた事は、米軍が6月15日に壕内に入って撮影した写真や証言からして間違いない事実です。
しかし、昭和27年に収集された遺骨には頭蓋骨に拳銃による穴があった為、直接の死因は短銃による自決であり、そのあとで第三者が介錯的に喉を切ったと考えるのが妥当だと思います。
米国陸軍省編 「沖縄 日米最後の戦闘」には6月15日の米軍による遺体発見の様子を次の様に書いています。

「6月15日、海兵隊が小禄で最後の日本軍を求めて掃討にあたったとき、地上司令部の通路で、一段と高くなった所に座布団を敷いて自決した大田少将と五人の参謀の死体を発見した。
部屋のようすから見て、副官が介添えし、大田少将らの死をみとどけてのち死体を整理したことが明らかであった。」

※この文書及び、この日に撮影された写真から、大田司令官の自決した場所が、現在伝えられている所の
 司令官室ではない事は明らかです。
 この事については後述します。

当然弾丸による出血量は少なく、喉(けい動脈)を切った方が出血量が多いので、壕内に入った米兵は「THROAT CUT」と報告し、米軍のG2文書では「首が切られていた」となっています。
しかし、日本側からすれば切腹又は短銃による自決ならともかく、喉を切る死に方は「ぶざま」との認識があり、目撃者証言や戦史書では短銃による自決となっています。



従って、旗に添付されていた文書にある「THROAT CUT」は壕内に入った米兵が見た事実と合致する事なにります。


【2.遺体の近くに、軍刀やその他の品々が揃えて置かれていたか】

田村洋三著「沖縄県民斯ク戦ヘリ」に関連文書があります。
自決直前の6月12日の夜、狩俣マサさんの証言に
「司令官室の前に出たので覗いたら、幕僚の方々が日本刀を側に置いて横たわっていた」とあります。
また、8月27日に壕内に入った宮城上曹の証言によれば、
「皆、帽子や肩章を枕元に置いていた」とあります。

従って、この部分も当時米兵が見た事実と合致します。


【3.缶詰が沢山あり、その中にドイツ語が書かれたツナ缶はあったか】

上記ふたつの項目は、事実と合致してますが、戦後発行されたであろう文献に紹介されていた可能性もある為、必ずしも新発見の事実とは言えず、決定的とは言えません。
しかし、このドイツ語の缶詰に関しては関係者しかしらない新事実だと思います。
この事実が説明出来れば、決定的な証拠になるのではないでしょうか。

旗に添付されていたこの部分の全文は、
 「マグロ(ツナ)を含む600箱の缶詰があった、箱にドイツのマーキングがあったので
     おそらくドイツの潜水艦(Uボート)が運び込んだのではないか。」
と言うものです。

この表現には明からな勘違いがあります。
Uボートが搬入したと言う話は、太平洋戦争の概略を知っている人にとっては、にわかには信じられない内容です。
逆に言えば、この内容の不自然な謎を解けば確信に近づけるような気がしました。

当時、ドイツでマグロ漁が盛んだったとは思えませんし、その缶詰をドイツの潜水艦が食料支援として大量に日本に運び込む事はありえないのです。
限られたスペースしかない潜水艦で、遠路缶詰を輸送する事はありえません。
つまりこの文書は、その辺の事実関係を知らない人物によって書かれたものです。
ドイツから日本への潜水艦による輸送は、ロケット戦闘機やジェット戦闘機等の機密図面を運んだものの、帰路米軍によって撃沈されています。

では、このドイツ語が表記された缶詰の存在証言は間違いだったのでしょうか。
これを調べる為に2か所に問い合わせさせて頂きました。


1.問い合わせ先
   「沖縄県豊見城市 旧海軍司令部壕事業部」宛

  問い合わせ内容
   「沖縄戦当時の海軍司令部壕内でマクロのツナ缶を見た方はいないか」

回答

1.壕内には生米や缶詰が沢山あった。
2.缶詰の種類としては  赤飯・大和煮(牛肉)・馬缶・イワシ・シジミ・カツオ
  などが豊富にあったが、マグロ(ツナ)缶は見ていない。

当時の目撃者の方に問い合わせて頂きましたが、残念ならが当時ツナ缶を目撃した証言は得られませんでした。
当時の缶詰ラベルは現在の様に缶に印刷されたものではなく、紙製のラベルを缶に巻き付ける方式であり、湿気の多い壕内では短期間で劣化する為、終戦後早い段階で壕内に入った人物でないとラベルは確認できなかったと思います。
壕内にあった缶詰の内、どの位の量がツナ缶だったかは分かりませんが、壕内に入った米兵がドイツ語をを理解できた為に(ヨーロッパ系アメリカ人?)、特に印象に残ったものだと思います。
今回沖縄での調査に証言頂いた方が、壕内の軍事施設のどの地域まで入り込む事が出来たかが不明ですので、この回答を以ってツナ缶の存在を否定するものではありません。


2.問い合わせ先
   「日本缶詰協会」宛

  問い合わせ内容
   「太平洋戦争当時のマグロツナ缶の輸出実績」

前述の様にドイツでマグロ漁が盛んだったとは考えにくく、逆に日本からドイツへの輸出用ツナ缶が存在していれば謎が解けます。
ドイツ語のラベルが貼ってあったので、米兵はドイツ製と勘違いしたのではないかと考えました。

回答

1.マグロの缶詰は戦前の有力な輸出品でした。
  太平洋戦争開戦前にはアメリカ・カナダ向けが80%を占め、40万箱程が輸出されていました。

2.太平洋戦争開戦の直前にはアメリカとの関係悪化に伴い、アメリカ向けは大幅に減少します。
  昭和15年の下期には当時の前半で昭和15年9月27日の三国同盟締結により、ドイツ向けに変更され、
  この年だけでも21万箱がドイツ向けとして輸出されました。

イメージ 2
※ドイツ語で書かれた当時の輸出用ツナ缶のラベル
イメージ 1


ツナ缶詰の輸出実績から、太平洋戦争開戦前の昭和15年には、大量のドイツ向け缶詰が生産されています。
記録にはありませんが昭和16年前半にもドイツ向け缶詰が生産されていたであろうと思われます。
この昭和15年〜16年に生産されたドイツ向け缶詰が、開戦により実際に輸出されたか分かりません。
これらの缶詰は、おそらく陸海軍に徴用された可能性が強いと思います。

この資料により、沖縄の海軍司令部壕にはドイツ語のラベルを貼ったツナ缶詰が運び込まれた可能性が高まり、旗を回収した米兵が見た可能性が十分あり得ます。



以上、3項目に関して検証を進めた結果、旗に添付されていた資料の内容は、いずれも少将旗が海軍司令部壕から持ち出された可能性がある事を示しており、否定的な要素はありません。
この少将旗が、終戦直後に海軍司令部壕から持ち出されたものと判断して良いと考えます。


残された検証項目は、当時の沖縄米軍海兵隊にCharles Bazoian一等兵が実在したかです。




【4】 検証の開始

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【4】 検証の開始。

2011年9月12日にアメリカを発った少将旗は、USPSの手違いにより、スペイン送られ、
私の手元に届いたのは2012年2月4日でした。

海軍旗や将官旗に直接その由来が書かれている事はまずありえません。
従って、海軍の旗は多くの枚数が製作されていますから、いくら軍六巾の稀少な旗とは言え、「所縁の旗」として、特定の個人の名前を付与して呼称する場合には、十分な裏付け検証が必要です。
たとえ、当時旗を回収した本人が「本物です」と言っても、勘違いや思い込みの可能性がありますから、それを裏付ける客観的な事実の確認が必要なのです。

旗が到着し、私は直ちに少将旗が沖縄戦終了直後に、海軍司令部壕から持ち出された旗なのかの検証作業を進めました。


【 少将旗の検証 】

まずは旗そのものの検証です。
あまりに大きくて自宅では広げる事が出来ない為に、友人の工房に持ち込んで確認しました。


確認の結果

  1.旗の大きさは間違いなく軍六巾である。
      一幅は2尺2寸(66.6cm)で横幅399.6cm、縦横比3:2で縦幅266.4cm。広さ畳6.45枚分。
  2.壕内で折り畳んで保管する為なのか、かさばる掲揚ロープが外されている。
  3.縦に連なる、火炎によると思われる穴があいている。
  4.一部に湿気による「カビの跡」と思われる黒い染みがある。
  5.旗は洗濯されており、焦げた部分の炭化した布は欠落している。
  6.添付文書は大小2枚があり、ワープロではなく、英文タイプライターで作成されたものである。
  7.大きい文書は黄ばみがあり、かなりの年月が経過していると思われる。
  8.小さい文書は紙の色が白いままであり、後年になって追加されたものである。
  9.添付文書は汚れ防止のフィルムで覆われ、展示する事を意識した形状となっている。
 10.旗の一部には、血痕と思われる黒っぽいシミが認められる。

イメージ 1


旗は全てを語っていました。
私は、この旗が間違いなく海軍司令部壕から持ち出されたものと確信しました。


しかし、裏付けの検証は必要です、検証するポイントは、

  1.添付された説明文書に回収者しか知りえない新事実があるか。
  2.旗がどの様な経緯でアメリカに渡り、今回オークションに出されたのか   です。

イメージ 2
※添付されていた文書
大きい文書は年月が経過し、黄ばみが見られる。英文タイプで作成されている事からワープロが普及する以前に作成された文書で、少なくとも20〜30年以上経過していると考えられる。
小さい文書は小文字が含まれている事からワープロによる文書と思われ、白い紙の色が残っている事からせいぜい10年〜20年程度前の作成と思われる。
2枚の紙は黒い台紙の上にホチキスで固定され、全体を古いセロファン紙の様なもので覆われている。


私は英語が苦手なので細部のニュアンスは分かりませんが、大きい方の用紙には概ね次の内容が書かれています。

  1.沖縄戦の概要
  2.大田司令官の沖縄赴任から戦死に至る戦いの概要
  3.6月11日の夜、牛島司令官宛の決別電報の電文

       敵戦車群ハ我司令部洞窟ヲ攻撃中ナリ
       根拠地隊ハ今11日2330玉砕ス 
       従前ノ厚誼ヲ謝シ貴軍ノ健闘ヲ祈ル  (原文)

  4.旗を発見し回収した時の様子

説明文は、時系列的に沖縄戦の全容を紹介し、次に大田司令官を紹介し、決別電報を紹介し、そして旗が発見回収された時の様子を紹介しています。
限られた文字数で旗の持つ意味を、極めて的を得た表現で書き表わしたものでした。
博物館等での展示説明に、慣れた方が書かれた印象を受けました。
この文書を作成した元の持ち主は、どの様な人だったのでしょうか。

この文書の中の、発見者でしか知りえない部分を列記しますと。

   1.ON 15 JUNE 1945 ADOMIRAL OTA WAS FOUND BY U.S.
        TROOPS IN HIS HEADQUARTERS CAVE WITH HIS THROAT CUT.

     1945年6月15日、大田司令官は米軍によって発見された。
     司令部壕の中で、彼の喉が切られていた。

   2.AN ASSORTMENT OF SWORDS AND OTHER ITEMS  

      軍刀やその他の品々が揃えてあった。

   3.INCLUDING 600 BOXES OF TUNA FISH
        BROUGHT IN (IT IS ASSUMED) BY GERMAN U-BOUT
          AS ALL THE BOXES HAD GERMAN MARKING.

     マグロ(ツナ)を含む600箱の缶詰めがあった、箱にドイツのマーキングがあったので
     おそらくドイツの潜水艦(Uボート)が運び込んだのではないか。

また、小さい方の用紙は

   1.旗を壕から持ち出したのは海兵隊一等兵 Charles Bazoian である。
          ※PFC (private first class)は一等兵。

   2.旗は大田司令官の遺体から5フィート(1.5m)離れた所で見つけた。・・・と書かれています。   


【新事実の検証】

2枚の添付文書に書かれていた項目の中で、検証可能な項目をリストアップすると次の内容になります。

1.大田實司令官は喉を切って(切られて)いたか。
2.遺体の近くに、軍刀やその他の品々が揃えて置かれていたか。
3.缶詰が沢山あり、その中にドイツ語が書かれたツナ缶はあったか。
4.当時の沖縄米軍海兵隊にCharles Bazoian一等兵はいたか。



この4項目となります。



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ここで大田實司令官が昭和20年6月6日、海軍次官宛に発信した電報の全文を紹介しておきたいと思います。
引用は「旧海軍司令部壕ホームページ」です。


イメージ 2
 

【現代文】    


発 沖縄根拠地隊司令官(太田實 少将)

宛 海軍次官(多田武雄 中将)


沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。
県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。

沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。
にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛のための召集に進んで応募した。
残された老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に
避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。

しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。

どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女性は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。

看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。

さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。

つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。

食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後世、特別のご配慮をしていただくことを願う。



【原文】

イメージ 1
  

   

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【 行方不明となった少将旗 】

2011年9月12日
出品者から、フロリダ州のUSPS(United States Postal Service)から発送したとの連絡がありました。
遅くともあと2週間程で手元に届く予定です。

ところが3週間経過しても、4週間が経過しても旗は届きませんでした。

出品者は過去のオークション実績から信頼できる人物です。
1ケ月が経過した時点で出品者に問い合わせをすると共に、送り状の控えをメールしてもらう事にしました。
インターネット追跡システムで調べれば、現在旗がどこにあるか調べられるのです。

イメージ 1

旗は確かに9月12日にフロリダのUSPSで受け付けられていました。
送られてきた送り状の追跡番号を基に検索した所、驚きの結果が表示されました。

Detailed Results:
Origin Post is Preparing Shipment
Processed Through Sort Facility, September 20, 2011, 5:43 pm, SPAIN
Processed Through Sort Facility, September 16, 2011, 4:04 pm, ISC MIAMI FL (USPS)
Arrived at Sort Facility, September 16, 2011, 4:03 pm, ISC MIAMI FL (USPS)
Processed through USPS Sort Facility, September 12, 2011, 7:53 pm, PENSACOLA, FL 32522
Acceptance, September 12, 2011, 4:08 pm, HURLBURT FIELD, FL 32544

9月12日 フロリダ州の「HURLBURT FIELD」で受け付けされています。
9月16日 マイアミを発しています。
9月20日 なんとスペインに到着していました、以降約1ケ月間スペインに留まったままでした。

その原因は送られてきた「送り状」の中にありました。

イメージ 2


発送者が手書きで書いた「J」が癖がある字で傾いて書いてある為、米国の郵便局の担当者が「S」と読んだのです。
「JAPAN」が「SAPAN」に、「SAPAN」が「SPAIN」に変わってしまったのです。

英語が苦手な私が言うのもなんですが、アメリカ人には、もっと英語を勉強して欲しかったです。
直ちにアメリカの出品者に連絡し、USPSに対しクレームを付けてもらうように依頼しました。
私はただ待つしかありませんでした、そしてまた1ケ月が経過しました。

私の中に漠然とですが、3ケ月経過するとスペインで配送先不明郵便物として処分されてしまうのではないかとの危機感がありました。
この頃になると出品者も手の打ちようがないせいか、私の督促に対する返信が無くなってきました。

危険を感じた私は、直接行動を起こしました。
まず、日本の郵便局の窓口で「調査請求」を提出しましたが、スペインに対しては発送国しか問い合わせ出来ないとの事でした。

次に、「拝啓スペイン大使館様」との手紙を出し、この旗が日本の歴史に関わる重要な旗であるから調査に協力して欲しいとお願いしてみましたが、エージェント(代理人)を立ててスペインの窓口で交渉する事を進められました。

2012年12月。
ついに3ケ月が経過してしまいました。
私が購入さえしなかったら、旗は世界のどこかで存在し続けていたのに、私が落札した事により永久に失われてしまったのではと、私は自責の念に駆られました。

私は、最後の手段として報道機関の力をお借りする事にしました。
現地窓口での交渉を考慮して、ヨーロッパに支局があるテレビ局の報道番組に援助を依頼する手紙を出しました。

手紙が届くと同時に、あるテレビ局から直ちに電話連絡がありました。

「一緒に旗を捜しましょう」と言ってくれました。

この時ほど嬉しかった事はありません。
私は完全に追跡の手立てを失い、たった一人の戦いに疲れ、絶望しかけていた時の事でした。

しかし、旗は簡単には見つかりませんでした。

それ以降も、インターネット追跡システムをチェックしては、ため息をつく毎日が1ケ月続きました。

2012年1月28日、追跡システムの画面に変化がありました。
アメリカニュージャージー州 KEARNY の集配所に、少将旗が再び姿を現したのです。
イメージ 3
2月3日、あっけなく日本に到着しました。
イメージ 4


2012年2月4日。
少将旗はアメリカフロリダ州を発してから146日目に到着しました。
終戦直後、沖縄の海軍司令部壕を出てから66年と6ケ月。
少将旗は祖国日本に戻ったのです。

イメージ 5

イメージ 6


旗には「説明資料」が添付されていました。

イメージ 7


少将旗は、5ケ月間の旅を終えて無事に私の手元に届きました。



.

【3】 66回忌の年、祖国日本へ。

私は還暦を迎えた世代であり、太平洋戦争関しては興味があった為、知識はあるほうだと思っています。
そんな私が沖縄戦に関して知っている言葉を列記しますと、

  「ひめゆり学徒隊」
  「白梅隊」
  「地上戦」
  「集団自決」
  「戦艦大和最期の出撃」
  「特攻攻撃」
  「平和の碑」・・・等です。

沖縄戦に関わった日本軍人で、名前を知っているのは牛島中将、宇垣中将ぐらいでした。
ですから、大田實少将の旗と言われてもピンと来ませんでした。


イメージ 2


私達戦争を知らない世代は、戦争に関する知識をメディア、その中でもテレビや新聞に頼っています。
これまでの沖縄本島での戦いに関する報道は、「ひめゆり」に代表される悲劇を伝えるものや、戦争に巻き込まれた市民を報道するものが多く、沖縄戦で戦った軍に関してはあまり多くはないと思います。

オークションに出品された破れた少将旗が果たして本当に沖縄戦に関わる品なのか、「オークション説明文」が事実なのかの検証をしないと購入する事はできません。
当時の海軍司令部壕内に旗が存在していた事は、地元沖縄を含め日本では誰も知らない新発見であるからです。

当時は後に南雲中将の旗の可能性がある「軍六巾の中将旗」を購入した直後であり、将旗に関する知識がありましたので、同じ大きさの軍六巾の巨大な少将旗が、特別な由来を持つであろう事は想像出来ました。

しかし、この旗が本当に沖縄の海軍司令部壕から持ち出されたものかは「説明文」の真偽確認が必要です。
その為には、「大田實少将」と「海軍軍司令部壕」に関する勉強が必要でした。

イメージ 1



【米兵による壕内調査】

オークションに出品された少将旗が説明文の通り、米兵によって海軍司令部壕から回収されたとすれば、それは何時(いつ)の事だったのでしょうか。

イメージ 4


その時の様子は、沖縄のドキュメンタリーライター上原正稔氏が「沖縄戦トップシークレット」に詳しく記されています、田村洋三著の「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史」と合わせて紹介させて頂きます。

米軍が最初に壕内に入ったのは、自決から2日後の6月15日です。


●昭和20年6月15日

   第6海兵師団G2 ウィリアムズ中佐
   日本語将校    タド・バンブラント中尉
   カメラマン     コナリー軍曹
   米軍兵士     2名と、若い海兵隊員1名
   案内役       山崎少佐と将校1名          計8名
   
大田司令官他の遺体を確認し写真撮影するも、潜んでいた日本軍兵士の手投げ弾攻撃を受け、米軍兵士2名が死亡しました。


●昭和20年8月28日

   米第10軍情報参謀バーシー中佐  
   米軍兵士  15名                    計16名

この時は司令部壕付近での戦闘が終了して2ケ月が経過していた事と、6月の反省の下に15名の兵士と共に壕内に入ったので、壕内の制圧が可能であり、ある程度落ち着いて壕内を調査出来たと思います。
しかし、この時も日本軍兵士の手投げ弾攻撃を受けました。


この後は、7年後の昭和27年3月4日、日本人3名によって、大田司令官他の遺骨が収集されるまで待つ事となります。


【説明文の中身】

説明文によれば旗のサイズは1フィートが30.48cmからして、おおよそ396cmx243cmとなります。
この寸法に該当すね旗は、測定誤差や縮み等を考慮して将旗としては最大の軍六巾(399cmX266cm)に該当します。
また、添付写真からも「縫い合わせ」旗である事がわかります。

イメージ 3


「軍六巾の縫い合わせ旗」に関しては、書庫「南雲中将、最期の中将旗」で解説してありますので参照下さい。
いずれにせよ、将旗としては最大の旗であり、作成枚数も少ない「特別な位置づけの旗」である事が分かります。

旗には縦に連なった穴が開いていましたが、これは折り畳んだ状態で爆発等による火炎を受けた時に、起こりえる形状をしていました。

イメージ 5


海軍司令部壕内は米軍の攻撃により水漏れが激しく、後年に行われた遺骨発掘調査の時は水で満たされていたそうです。
折り畳んだ状態で濡れたままの旗の赤色の部分が、白色に転写されているのも、起こりえる事です。

旗が海軍司令部壕から米兵によって持ち去られた日は、6月15日か8月28日のどちらかと考えられます。
6月15日に壕内に入った米兵は2名が死亡しており、また回収したとされる「第六海兵隊の一等兵 Charles Bazoian」の名前がありません。
この事から、旗が米兵によって回収された日は、どちらかと言えば昭和20年8月28日の可能性が大きいのではと考えます。

この回収したとする人物「Charles Bazoian」の裏付けは私の力では取れませんでしたが、私が調べた範囲では「オークション説明文」に否定する要素はありませんでした。

旗に添付されている「説明文書」を詳しく検証すれば、海軍司令部壕から持ち出された旗である確証が得られる可能性が出てきました。

オークションの終了日が迫ってきました。
大田實少将の旗である可能性が考えられる以上、この旗を何が何でも祖国に里帰りさせるしかありません。


オークションには世界中からの入札があります。
他の日本人が、この旗を落札してくれる保証は全くありません。
この機会を逃したら、少将旗は永遠に祖国に戻る可能性が無くなるかもしれないのです。
「南雲中将旗の可能性がある旗」を購入したばかりの年金生活者である私には、重い経済的な負担でしたが、迷わず最高値で入札し、落札しました。


2011年9月11日。
こうして、少将旗は大田司令官の66回忌の年に、祖国日本に向かって送られる事になりました。





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