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南雲中将、最期の中将旗(5) サイパンでの南雲中将
では、南雲中将はサイパンでとどの様な戦いをしたのでしょうか。
そして、この中将旗はサイパン島の何処で米軍兵士の手に渡ったのでしょうか。
サイパン戦については数多くの文献が書かれております。
ここでは、それらの文献の中から、サイパンで回収された中将旗の発見場所を検証する為に、
南雲中将に関する部分だけを抜粋しました。
主として参考にした文献は、
平櫛孝著「サイパン肉弾戦」---玉砕戦から生還した参謀の証言---光人社NF文庫です。
サイパンで戦った兵士たちは、玉砕によりほとんどが戦死されましたし、米軍の猛攻の中で通信網が
断絶していた為、サイパン戦全体を把握し出来た人は限られています。
その中で、平櫛孝氏は第43師団参謀、第31軍参謀、南太平洋艦隊参謀を兼務し、司令部にいた方ですので、
その著書「サイパン肉弾戦」は、サイパン戦の全容を、最も知る事が出来る本だと思います。
上記文献に加えて、
サイパンに関するホームページを開設されている、三重県のNさんの協力を頂きました。
たまたまインターネットで、サイパンを検索していた時に見つけたNさんのホームページですが、
サイパン戦での戦没者供養のために、30年間毎年サイパンに行かれている方で、サイパンの地理に詳しく、
また、サイパン戦を詳細に分析されています。
Nさんは「CLITICAL PAST」の映像を購入して協力してくれました。
まず、サイパンにおける戦闘の経過を整理します。
【 サイパン戦経緯 】
1944年(昭和19年)
1. 2月 陸軍第31軍(司令官小畑中将)編成、サイパン方面に配備
1. 3月 4日 南雲中将、中部太平洋方面艦隊司令長官を拝命
2. 4月下旬 南雲中将、サイパンに赴任
3. 5月 陸軍第43師団(師団長斎藤中将)サイパン増援
4. 5月28日 陸軍第31軍司令官の小畑中将、作戦指導でサイパンを離れ、参謀長井桁少将が代行する。
2. 6月11日 米軍機による爆撃開始
3. 6月13日 米軍による艦砲射撃開始
4. 6月15日 米軍サイパン島に上陸開始
5. 6月16-17日 戦車第九連隊による総攻撃失敗
6. 6月19-20日 マリアナ沖海戦で空母3隻(大鳳、翔鶴、飛鷹)を喪失して完敗
7. 6月25日 陸軍第43師団司令部、合同司令部に合流
8.7月 6日 最高軍司令官(南雲中将、斎藤中将、井桁少将)戦死
9.7月18日 大本営発表(17:00)
南雲中将は中部太平洋方面艦隊司令長官としてサイパン防衛陸海軍の総責任者となりました。
第四航空艦隊を直轄するほか、基地整備の第後根拠地隊、潜水艦を主体とする第六艦隊も指揮下に入りました。
しかし、すでに満足に戦える船は無く、航空機も6月11日の攻撃で破壊されてしまいました。
また最後の望みのだった小沢機動部隊はマリアナ沖海戦で完敗し、サイパンを救う事ができませんでした。
陸軍第三一軍も南雲の指揮下に入りました。
陸軍の大部隊を海軍の指揮下に入れたことは、例を見ないことであり画期的なことでした。
しかし、陸上戦においては陸軍が指揮しました。
サイパンでは南雲は「提督」と呼ばれていました。
すべて別格で、作戦に関しては一言も発せず、陸海軍で意見が対立するときでも南雲中将は終始無言でした。
次に、中将旗が何処で回収されたかを知る為に、南雲中将が居た合同司令部の場所を整理します。
南雲提督は陸海軍の総責任者として、常に合同司令部にいたからです。
【 最高軍司令部の位置 】
「陸軍第31軍司令部、海軍中部太平洋方面艦隊」合同司令部の設置場所
1. 米軍上陸以前(〜6/15) ガラパン公民学校及びその武徳殿「A」
2. 米軍上陸以降 タッポーチョー南側台地の洞窟「B」
3. 6月27日 電信山の懐の山中「C」
4. 6月28日 最高軍司令部、地獄谷へ移動開始
5. 6月30日 地獄谷到着「D」
6. 7月 6日夜 南雲中将戦死
中将旗は、上記場所のどこで放棄されたのでしょうか。
この最高軍司令部の位置に、アメリカ軍が撮影した中将旗の映像の位置を照合します。
協力頂いている三重県のNさんがが映像を購入して場所の特定に協力してくれました。
中将旗の映像全体の長さは125秒ありますが冒頭の11秒間に中将旗を掲げる兵士たちが写っています。
その次に、破壊された日本軍の戦車が写っています。
1. 0秒〜11秒 回収した中将旗を掲げる米軍兵士
2. 12秒〜45秒 破壊された日本軍戦車群
3. 45秒 フィルムチェンジ
- 映像を良く見ますと、画面右手方向になだらかに傾斜する小高い場所の様に思えます。
- 断定はできませんが、画面左の遠方は海の様に思えます。
- 当時はカラー映像の初期であり、カメラマンは逆光を避けたと考えれば、海は西側となります。
- 画面左手後方に破壊された数軒の家が見えます、また塔の様な建物が見えます。
この映像から、最初の12秒の映像の撮影場所は、ガラパンの町の郊外ではないかと推測します。
サイパンの地理に詳しい三重県のNさんは、この少し高台の丘は最期まで戦い続けた大場栄大尉が、
昭和20年12月1日投降した場所と考えられるとの事でした。
つぎに破壊された戦車群の映像に着目します。
フィルム交換なしで中将旗の映像に続いて破壊された日本の戦車(95式、97式)が写っています。
97式戦車の車体に「みたて」と書かれています。
陸軍戦車第9連隊所属の戦車で、6月16日タッポーチョ山の西斜面にある南興神社の近くに集結し、
ヒナシスの丘を越え、オレアイ飛行場方向の米軍陣地に突入しました。
米軍の反撃により30両中、29両が動けなくなりました、その戦車の一部が写されています。
この戦車「みたて」は30年後に、日本に戻され、現在は靖国神社で展示されています。
この映像の流れから、撮影したカメラマンは「ガラパン」から「オレアイ」方向に移動したと考えられます。
この映像とは別に、CLITACAL PASTには、7月3日撮影の映像があります。
1. 映像には神社の鳥居がうつっています、ガラパンの町にあるサイパン神社を撮影したものと思います。
2. 後方に見える横長の大きな建物は、砂糖工場ではないかと考えられます。
3. 兵士が大量の札束をどこかで見つけて、袋詰めしています。
おそらく、お土産として持ち帰るか、同僚の兵士にお土産用として販売するのでしょう。
これほどの大金が放置されていた場所は砂糖工場の金庫、もしくは海軍司令部の可能性があります。
4. 工場の建物は原形を留めており、ガラパンの町は完全には破壊されていないようです。
5. このサイパン神社の近くに海軍が司令部として使用したガラバン公民学校がありました。
6. その公民学校に無傷の中将旗があり、米兵によって回収されたとしても不自然ではない事が分かります。
以上の内容から、中将旗が米軍兵士の手に渡ったのは、陸海軍合同司令部が、
タッポーチョー南側台地の洞窟へ移動する以前、すなわちガラバンの町付近であると推測します。
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