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南雲中将、最期の中将旗

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南雲中将、最期の中将旗   目次


1941年12月8日

太平洋戦争は南雲忠一中将指揮下の、日本海軍航空機動部隊の真珠湾攻撃から始まりました。

南雲中将は、この後「ミッドウェー海戦」「第二次ソロモン海戦」等、主要な海戦を指揮しました。

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真珠湾での大勝利、そしてミッドウェーでの敗北。

天国と地獄を見た南雲長官は、日本海軍機動部隊最後の勝利となった「南太平洋海戦」の後に船を降ります。


1944年(昭和19年)3月、南雲中将は中部太平洋方面艦隊司令長官を拝命します。

そして、死に場所として与えられたのはサイパン島でした。


これまでの戦いに対する南雲長官の評価は様々なものがありました。

しかし、寡黙な南雲長官は一切の弁明をせずに1944年4月、サイパン島に赴任します。

サイパン島では海軍守備隊に加え、陸軍31軍も南雲長官の指揮下に入りました。

南雲長官はサイパン島で提督と呼ばれました。

そして、7月6日、サイパン島守備隊の陸海軍将兵3万人と共に玉砕します。

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南雲提督の最期については諸説あります。

7月6日、南雲長官、斎藤師団長、井桁、矢野参謀長は最後の突撃に先だって自決したとする説。

7月6日夜 南雲長官は残存の海軍将兵を集めると、襟章のない軍装のままタナバクの米軍に向って、

バンザイ突撃を行ったとする説・・・・。


そして66年の年月が経過しました。

2011年9月、私はアメリカから1枚の旗を購入しました。

サイパン島玉砕直後に米軍によって回収された海軍の「中将旗」で、南雲長官由来の旗との説明がありました。

この「南雲中将、最期の中将旗」は、この1枚の旗を紹介するものです。


1. はじめに-------------------http://blogs.yahoo.co.jp/serasan0620/43571666.html

2. 海軍の将旗について---------http://blogs.yahoo.co.jp/serasan0620/43573684.html

3. 陸軍と海軍の違い-----------http://blogs.yahoo.co.jp/serasan0620/43579324.html

4. もう1枚の将旗--------------http://blogs.yahoo.co.jp/serasan0620/43580797.html

5. サイパンでの南雲中将-------http://blogs.yahoo.co.jp/serasan0620/43587987.html

6. 南雲中将の最期-------------http://blogs.yahoo.co.jp/serasan0620/43592891.html

7. おわりに---残された中将旗---http://blogs.yahoo.co.jp/serasan0620/43594560.html





※注意
 サイパン戦における南雲長官の足跡は不明な点が多く、また海軍の将旗に関する資料も限られています。
 従って、このブログに書込みした内容には不確定要素が多い事をご理解下さい。


※このブロク内容は、今後新事実が確認された場合は大幅に書き換えする可能性があります。





・          
南雲中将、最期の中将旗(7)   おわりに ---残された中将旗---



では、この中将旗はどの様な経緯で米軍兵士の手に渡ったのでしょうか。
関係者がほとんど亡くなってしまい、なおかつ戦後66年が経過した現在では推測する事は困難です。

これまでの解析結果から、この中将旗が米軍兵士により発見された経緯をまとめてみたいと思います。
あくまでも、私見による推理です。

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                   ※アメリカで保有されていた当時の中将旗

私は、この中将旗は、最初の司令部である「ガラパン公民学校及びその武徳殿」で米軍兵士に回収された
ものだと思います。
中将旗のロープは新品のままですから、おそらく4月下旬に南雲長官がサイパンに赴任して以来、二カ月間、一度もこの中将旗は掲揚される機会はなかったと思います。

最初に南雲長官が太平洋艦隊司令部を置いたガラパン地区は、守備部隊地区区分で海軍地区とされ、
海軍が守備を担当しており、南雲中将の所在を示す四幅程度の中将旗が掲げられていたと思います。
しかし、6月15日の米軍上陸開始によって合同司令部を「タッポーチョー南側台地の洞窟」へ移動する
にあたり、陸軍との合同司令部である狭い洞窟周辺で軍六幅の大きな旗を掲げる機会は無くなりました。
もちろん陸軍への配慮があったのもしれません。

南雲中将あるところには、中将旗を掲げなくてはいけませんから、移動にあたって軍四幅以下の小さな旗を
持参したのだと思います。
その結果、掲げる事のない軍六幅の巨大な旗は不要と判断されたのでしょう。
ガラパン公民学校の司令部に放置されたのだと思います。
海軍には、旗は消耗品という考え方があるからです。

旗が回収されたのは7月3日前後の事だと思います。
南雲中将が戦死されたのは7月6日夜で、サイパン島北部ではまだ激しい戦闘が続いていましたが、
7月3日時点でガラパン周辺は米軍によって制圧され、米軍兵士によるお土産品を確保する映像も残されて
います。

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私はこの旗の存在と、南雲長官の最期の様子を、どうしても結びつけて考えてしまいます。
いくら消耗品で不要とは言え、軍六幅の大きな中将旗をなぜそのまま放置したのか。

私は南雲長官は、意図的にこの旗を残したのではないかと思います。

南雲長官はこのガラパン公民学校から移動する時に、いよいよ自分の最期の時と悟り、
中将という重い鎧を脱いだ象徴として中将旗を残したのではないでしょうか。

以降、南雲長官は作戦に関しては一言も発せず、終始無言でした。

真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦・・・。
南雲長官は多くの若い兵士の死を見てきました。
最期は中将としてではなく、一兵卒として皆と共に死にたい、そんな思いがあったと思います。
旗を残す事によって中将の立場から決別したのでしょう。

その意味からして、南雲長官の最期は洞窟内での自決では無かった気がします。
階級章を外して、襟章をむしった軍装のまま、戦闘帽も黒線のない兵用をかぶって、
兵士達と共に、一兵卒としてバンザイ突撃をし、最期を迎えたと思えるのです。

皆と共にありたい・・、この旗は南雲長官が私たちに残したメッセージなのかもしれません。



「南雲中将、最期の中将旗」、最後までお読み頂きありがとうございました。


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end




※注意
 上記文章は全くの素人が、限られた知識に基づく検証によってまとめたものです。
 従って、このブログに書込みした内容には不確定要素が多い事をご理解下さい。
 このブロク内容は、今後新事実が確認された場合は大幅に書き換えする可能性があります。










南雲中将、最期の中将旗(6)   南雲中将の最期



南雲中将の昭和19年7月6日夜の最期の様子については説が分かれています。


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【 自決説 】

平櫛孝氏著 「43師団サイパン玉砕記」

第43師団参謀の平櫛中佐の手記「43師団サイパン玉砕記」によれば、
6日の午前10時頃、合同司令部の近くの洞窟で南雲中将・斉藤中将・井桁少将の自決が行われたとしている。
介錯は3人の副官(南雲−荘林海軍中尉、斉藤−牧野陸軍少尉、井桁−柳本陸軍中尉)が拳銃で行ったと
説明している。
この説は信頼性が高いが、これにも弱点がある。
それは決行の瞬間、平櫛中佐は海軍士官と話すために暫時その場を離れていた。
その場を目撃していないという事実を彼は認めている。


【 突撃説 】

豊田 穣 「波まくらいくたびぞ−悲劇の提督・南雲忠一中将」

次に豊田譲著「波まくらいくたびぞ」によると、
「南雲長官は7月6日の夜、地獄谷の陸軍の別の洞窟で斉藤中将と井桁少将が自決したことを知り、
残余の海軍将兵を集め、前日の訓示を行った後、
「では今から突撃する。全員おれに続け」と、襟章をむしった軍装のまま、戦闘帽も黒線のない兵用をかぶって、
拳銃を構え、タナパグの米軍に向ってバンザイ突撃を行った。
南雲中将は乱戦にまぎれてマタンシャからタナパグあたりのいずれかで最後を遂げた。
時刻は7月7日の未明だと推定される。



元海軍兵長 石川倉太郎氏の証言

南雲中将に最後まで付き添った海軍兵石川倉太郎の証言が、昭和54年9月1日の埼玉新聞に残されている
7月6日午後6時石川兵長らの残存兵はマタンシャ海岸の集結地二〇五高地に向った。
そのヤシ林の中に、約3千名が集結していた。
その中に参謀数名と南雲中将がいた。
戦闘服に半ズボン、半袖シャツ、第二種戦闘帽をかぶって、腰に拳銃という身なりであった。
3時半、南雲中将の右手が上がって、突撃が開始された。
4キロほど南下したところで、機銃掃射を受け南雲中将が足に被弾した。
石川兵長は倒れた中将を近くの洞窟に運び、同行者は下田峰夫兵長と参謀二人だった。
南雲中将は終始無言であったが、やがて本土の方を向き、天皇陛下万歳と叫んで拳銃で頭を撃った。
時に4時30分であった。二人の参謀は続いて自決した。
石川兵長は洞窟を飛び出し、それから丸二年後の21年8月に降伏した。

この説は豊田説に近い。信頼できる要素も多い。




果たして、南雲長官の最期はどのようなものだったのでしょうか。
平櫛孝氏の自決説は、三人の陸海軍の司令官が揃って自決する事により、最期まで陸海軍が一体となって
サイパン戦を戦った事を描いています。
そして、南雲司令官はサイパン守備隊の最高司令官としての最期を描いています。

一方、石川倉太郎氏の突撃説は中将の立場ではなく、一兵卒としてバンザイ突撃で兵士達と共に闘って
散って行った姿を描いています。

私は、後者のバンザイ突撃による戦死の方が南雲長官の生きざまに近い様な気がします。





もうひとりの中将

これまでサイパンで回収された中将旗は、南雲中将を前提に進めてきましたが、サイパンで玉砕した
海軍の中将は、もう一人います。
潜水艦艦隊の第六艦隊司令長官 高木武雄中将です。
サイパンでは南雲中将の指揮下にあったとは言え、司令長官ですから司令部には中将旗が掲揚されていた
はずです。
ただ、第六艦隊といっても潜水艦隊は壊滅していましたから、乗る船も無く、限られた少人数の人員が
サイパン島内で戦いました。

イメージ 2


サイパン戦において、高木中将は最も謎に満ちた将官です。

さまざまな文献を見ても、高木中将がサイパンの何処で戦ったのか定かではありません。
平櫛孝著の「サイパン肉弾戦」においても、6月25日に合同司令部に合流した時、海軍の提督は南雲中将
しかいなかった事は間違いないと書かれています。
また、サイパン島の最北端にあるパナデル地区にいた事を示唆する部分があります。

いずれにしても早い段階から合同司令部には参加せず、独自の戦いをしたと思われますから、回収された
中将旗が、第六艦隊司令官である高木中将に由来する旗である可能性は極めて少ないと考えます。








南雲中将、最期の中将旗(5)   サイパンでの南雲中将


では、南雲中将はサイパンでとどの様な戦いをしたのでしょうか。
そして、この中将旗はサイパン島の何処で米軍兵士の手に渡ったのでしょうか。


サイパン戦については数多くの文献が書かれております。

ここでは、それらの文献の中から、サイパンで回収された中将旗の発見場所を検証する為に、
南雲中将に関する部分だけを抜粋しました。
主として参考にした文献は、
平櫛孝著「サイパン肉弾戦」---玉砕戦から生還した参謀の証言---光人社NF文庫です。

サイパンで戦った兵士たちは、玉砕によりほとんどが戦死されましたし、米軍の猛攻の中で通信網が
断絶していた為、サイパン戦全体を把握し出来た人は限られています。
その中で、平櫛孝氏は第43師団参謀、第31軍参謀、南太平洋艦隊参謀を兼務し、司令部にいた方ですので、
その著書「サイパン肉弾戦」は、サイパン戦の全容を、最も知る事が出来る本だと思います。

上記文献に加えて、
サイパンに関するホームページを開設されている、三重県のNさんの協力を頂きました。
たまたまインターネットで、サイパンを検索していた時に見つけたNさんのホームページですが、
サイパン戦での戦没者供養のために、30年間毎年サイパンに行かれている方で、サイパンの地理に詳しく、
また、サイパン戦を詳細に分析されています。

  太平洋戦争の傷痕---次世代への橋渡し-- http://ameblo.jp/tashutayou/theme-10015375851.html

Nさんは「CLITICAL PAST」の映像を購入して協力してくれました。



まず、サイパンにおける戦闘の経過を整理します。

【 サイパン戦経緯 】

1944年(昭和19年)
 1. 2月    陸軍第31軍(司令官小畑中将)編成、サイパン方面に配備
 1. 3月 4日  南雲中将、中部太平洋方面艦隊司令長官を拝命
 2. 4月下旬 南雲中将、サイパンに赴任
 3. 5月    陸軍第43師団(師団長斎藤中将)サイパン増援
 4. 5月28日 陸軍第31軍司令官の小畑中将、作戦指導でサイパンを離れ、参謀長井桁少将が代行する。
 2. 6月11日 米軍機による爆撃開始
 3. 6月13日 米軍による艦砲射撃開始
 4. 6月15日 米軍サイパン島に上陸開始
 5. 6月16-17日 戦車第九連隊による総攻撃失敗
 6. 6月19-20日 マリアナ沖海戦で空母3隻(大鳳、翔鶴、飛鷹)を喪失して完敗
 7. 6月25日 陸軍第43師団司令部、合同司令部に合流
 8.7月 6日  最高軍司令官(南雲中将、斎藤中将、井桁少将)戦死
 9.7月18日  大本営発表(17:00) 


南雲中将は中部太平洋方面艦隊司令長官としてサイパン防衛陸海軍の総責任者となりました。
第四航空艦隊を直轄するほか、基地整備の第後根拠地隊、潜水艦を主体とする第六艦隊も指揮下に入りました。
しかし、すでに満足に戦える船は無く、航空機も6月11日の攻撃で破壊されてしまいました。
また最後の望みのだった小沢機動部隊はマリアナ沖海戦で完敗し、サイパンを救う事ができませんでした。

陸軍第三一軍も南雲の指揮下に入りました。
陸軍の大部隊を海軍の指揮下に入れたことは、例を見ないことであり画期的なことでした。
しかし、陸上戦においては陸軍が指揮しました。

サイパンでは南雲は「提督」と呼ばれていました。
すべて別格で、作戦に関しては一言も発せず、陸海軍で意見が対立するときでも南雲中将は終始無言でした。



次に、中将旗が何処で回収されたかを知る為に、南雲中将が居た合同司令部の場所を整理します。
南雲提督は陸海軍の総責任者として、常に合同司令部にいたからです。

【 最高軍司令部の位置 】

「陸軍第31軍司令部、海軍中部太平洋方面艦隊」合同司令部の設置場所

 1. 米軍上陸以前(〜6/15)  ガラパン公民学校及びその武徳殿「A」
 2. 米軍上陸以降      タッポーチョー南側台地の洞窟「B」
 3. 6月27日         電信山の懐の山中「C」 
 4. 6月28日         最高軍司令部、地獄谷へ移動開始
 5. 6月30日         地獄谷到着「D」
 6. 7月 6日夜        南雲中将戦死

イメージ 5
                            
中将旗は、上記場所のどこで放棄されたのでしょうか。
この最高軍司令部の位置に、アメリカ軍が撮影した中将旗の映像の位置を照合します。


協力頂いている三重県のNさんがが映像を購入して場所の特定に協力してくれました。
中将旗の映像全体の長さは125秒ありますが冒頭の11秒間に中将旗を掲げる兵士たちが写っています。
その次に、破壊された日本軍の戦車が写っています。

1.  0秒〜11秒 回収した中将旗を掲げる米軍兵士
2. 12秒〜45秒 破壊された日本軍戦車群
3. 45秒    フィルムチェンジ

イメージ 1

  1. 映像を良く見ますと、画面右手方向になだらかに傾斜する小高い場所の様に思えます。
  2. 断定はできませんが、画面左の遠方は海の様に思えます。
  3. 当時はカラー映像の初期であり、カメラマンは逆光を避けたと考えれば、海は西側となります。
  4. 画面左手後方に破壊された数軒の家が見えます、また塔の様な建物が見えます。

この映像から、最初の12秒の映像の撮影場所は、ガラパンの町の郊外ではないかと推測します。
サイパンの地理に詳しい三重県のNさんは、この少し高台の丘は最期まで戦い続けた大場栄大尉が、
昭和20年12月1日投降した場所と考えられるとの事でした。


イメージ 2イメージ 6                                                  

つぎに破壊された戦車群の映像に着目します。
フィルム交換なしで中将旗の映像に続いて破壊された日本の戦車(95式、97式)が写っています。
97式戦車の車体に「みたて」と書かれています。
陸軍戦車第9連隊所属の戦車で、6月16日タッポーチョ山の西斜面にある南興神社の近くに集結し、
ヒナシスの丘を越え、オレアイ飛行場方向の米軍陣地に突入しました。
米軍の反撃により30両中、29両が動けなくなりました、その戦車の一部が写されています。
この戦車「みたて」は30年後に、日本に戻され、現在は靖国神社で展示されています。

この映像の流れから、撮影したカメラマンは「ガラパン」から「オレアイ」方向に移動したと考えられます。


この映像とは別に、CLITACAL PASTには、7月3日撮影の映像があります。

http://www.criticalpast.com/video/65675059638_United-States-Marines_Japanese-money_torii_damaged-buildings
                          
イメージ 3イメージ 4                                                        

 1. 映像には神社の鳥居がうつっています、ガラパンの町にあるサイパン神社を撮影したものと思います。
 2. 後方に見える横長の大きな建物は、砂糖工場ではないかと考えられます。
 3. 兵士が大量の札束をどこかで見つけて、袋詰めしています。
   おそらく、お土産として持ち帰るか、同僚の兵士にお土産用として販売するのでしょう。
   これほどの大金が放置されていた場所は砂糖工場の金庫、もしくは海軍司令部の可能性があります。
 4. 工場の建物は原形を留めており、ガラパンの町は完全には破壊されていないようです。
 5. このサイパン神社の近くに海軍が司令部として使用したガラバン公民学校がありました。
 6. その公民学校に無傷の中将旗があり、米兵によって回収されたとしても不自然ではない事が分かります。



以上の内容から、中将旗が米軍兵士の手に渡ったのは、陸海軍合同司令部が、
タッポーチョー南側台地の洞窟へ移動する以前、すなわちガラバンの町付近であると推測します。







南雲中将、最期の中将旗(4)   もう一枚の将旗


私が軍六幅の「縫い合わせ旗」が別格な存在であると考える根拠となっている、もう一枚の「将旗」について
触れておきたいと思います。

私はこの旗を購入しましたが、残念ながら事情があってこの旗を一度も手にとって見た事がありません。
手元に何枚かの写真がありますので、それを基に紹介したいと思います。
(注)旗は2012年2月、無事到着しました。


その旗は、海軍の沖縄方面根拠地隊司令官大田實少将の「少将旗」です。
戦史に詳しい方であれば、その様な旗の存在は確認されていないと思われるかもしれません。
この旗の存在は、地元沖縄県を含め日本では全く知られていません。


昭和20年4月1日、連合軍は沖縄本島への上陸作戦を開始しました。
沖縄の守備にあたっていたのは、陸軍32軍の牛島司令官(中将)と、海軍大田實司令官(少将)でした。

イメージ 2
                            ※大田實海軍少将

圧倒的な戦力の差により、次第に追い詰められ海軍部隊は、小禄(現在の那覇空港近く)にあった海軍
司令部壕で最期の戦いをしました。
そして、昭和20年6月13日力尽きた大田司令官は、沖縄海軍司令部壕内の司令官室で幕僚5名と共に
自決されました。
沖縄戦では20万人の方々が亡くなり、海軍司令部壕では4000人が亡くなりました。

大田司令官は自決に先立ち、海軍次官に宛に「沖縄県民斯ク戦ヘリ」との有名な電文を送りました。
伝文の最後には「県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と結んでいます。

海軍司令部壕付近での組織的戦闘が終わった6月15日、アメリカ第六海兵団トーマス・ウイリアム中佐
以下6名の将兵が、投降した日本兵の案内で壕の中に入りました。
この時、大田司令官以下6名の遺体を確認しましたが、壕内の残存日本兵の手榴弾攻撃を受け、
2名が死亡しました。
次にアメリカ軍が壕内に入ったのは8月28日、バーシー中佐他15名でした。
終戦後でしたが、この時も壕内で日本兵から手投弾攻撃を受けました。

このどちらの日かは確認できていませんが、大田實司令官の遺体から5フィート(1.5メートル)の位置に折り畳んだ状態で置かれていた少将旗を発見回収したのです。
この旗は、アメリカに個人の戦利品として持ち帰られ、以後65年間人知れず保管されていました。
そして昨年、その兵士が高齢により亡くなり、家族が売りに出しました。

旗には、回収された時の様子が書かれた文書が添付されていました。
その文書には、発見回収者の所属部隊、氏名、発見者しか知らない壕内の様子が書かれています。

また、旗は折りたたんで壕内に置かれていた為、縦方向に連なった火炎による焦げ穴があります。
壕内は爆風によって水漏れがあり、旗は水に濡れたまま一定期間放置された為に、赤色が白地部分に
転写されています。

イメージ 4
      ※海軍壕内から65年前に回収された少将旗(六幅 400cm X 266cm 縫い合わせ旗)

イメージ 1
          ※添付されていた文章(現時点では文章の公開は控えさせていただきます)

現時点では断定までは至っていませんが、私は旗の状況と添付書類から、ほぼ間違いなく大田司令官の
「少将旗」だと確信しています。


この旧海軍司令部壕は戦後、沖縄県民の手で修復され、戦争の事実を今に伝える貴重な資料として整備、
保存されています。

     ※旧海軍司令部壕ホームページ http://kaigungou.ocvb.or.jp/top.html

イメージ 3
                  ※大田司令官他が自決した海軍司令部壕指令室

司令官室正面の壁には、大田司令官自身が書いた、

     「大君の 御旗のもとに死してこそ 人と生まれし 甲斐ぞありれり」

という大田司令官の愛唱歌が鮮やかに残されており、「少将旗」はこの御旗に繋がる旗と言えます。

海軍の旗に対する考え方は、司令官によって異なっていたかもしれませんが、少なくとも大田司令官は
「少将旗」、を天皇陛下から拝領した旗との認識があったのだと思います。
旗を司令官室の上座の位置に置いての自決だった事でしょう。

さて、この海軍壕内で発見回収された少将旗は「軍六幅の縫い合わせ旗」です。

この旗の存在が、「軍六幅の縫い合わせ旗」は別格な旗だとの、私の考え方の根拠です。


冒頭で、残念ながら事情があってこの旗を一度も手にとって見た事がありませんと書きました。
実は、私はこの旗を購入しましたが、アメリカの郵便局員のミスでスベインに行ってしまいました。
JAPAN→ SAPAN→ SPAINと読み誤ったものと思います。
追跡番号の記録から、2011年9月20日スベイン着の記録を最後に行方不明となっています。

現時点では、旗が私の手元に届く可能性は厳しい状況にあります。
しかし、いつかこの「少将旗」が私の手元に届いたならば、このブログで紹介したいと考えています。
この旗は本来保管されるべき沖縄の公的な資料館に託し、常設展示してもらいたいとも考えています。





2012.2.4追記

約5ケ月間、スペインへの旅を終え、2012年2月4日、少将旗は66年振りに祖国日本に帰ってきました。
現在、旗は私の自宅で大切に保管しております。
この旗については真偽を検証後、このブログでまとめたいと考えています。


2012.6.23追記
書庫「大田少将、大君の御旗」としてまとめました。
http://blogs.yahoo.co.jp/serasan0620/folder/1049532.html





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