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少年時代の本田宗一郎考

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日本人として初めてアメリカの自動車の殿堂入りした本田宗一郎・・・。
彼の生誕地を旧光明村の山東だと勘違いしている人が多い。
宗一郎と同じ村出身の私が、彼の著書「私の手が語る」を紐解き、彼の少年時代に迫るシリーズ。
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※ 4年ぶりに「30. 原点に帰る・・・本田宗一郎生誕の地」を追記しました。2010.11.24



本田宗一郎考【索引目次】


日本人として初めてアメリカの自動車の殿堂入りした本田宗一郎・・・。
彼の生誕地を旧光明村の山東だと勘違いしている人が多い。
宗一郎と同じ村出身の私が、彼の著書「私の手が語る」を紐解き、彼の少年時代に迫るシリーズ。
































30. 原点に帰る http://blogs.yahoo.co.jp/serasan0620/42240081.html 【追記】


以上
イメージ 1


早いもので私がこの書庫「少年時代の本田宗一郎」を書き終わってから4年が経過しました。

生誕100年の時に書込みを完了しましたから、

2010年11月17日で、本田宗一郎は生誕104年となります。

この間、2010年春には待望の「本田宗一郎ものづくり伝承館」が開館し多くの訪館者で賑わっています。

そんな中、2010年9月に私にとって嬉しい出来事がありましたので、追記をする事に致しました。



4年前、このブログを書込みした時に、私は本田宗一郎の「生誕地」についてこだわりました。

「生誕地」、それはそこで生まれた人間のすべての「原点」だからです。


空があり、山があり、川があり、空気があり、風が流れる。

水があり、草木が育ち、鳥が鳴き、人がいて、言葉がある。


「生誕地」、それはそこで生まれたすべての人間の「人生のスタート地点」だからです。



本田宗一郎の原点とも言える「生誕地」とはいったい何処なのでしょう。

残念ながら、その生誕地は現在も曖昧(あいまい)にされています。

インターネット検索で「本田宗一郎」「生誕地」をキーワードに検索すると、

ほとんどが「山東」が生誕地となっています。

また、山東の光明山参道入口にある木製の記念碑「本田宗一郎の生誕地」の前で記念撮影をしている

ブログ写真もあります。

そのブログの表題は「本田宗一郎の生誕地に行ってきました」でした。

イメージ 2


私はこの事をとても憂いています。

これでは50年後には本田宗一郎の生誕の地が、この地になってしまいます。

たとえどのような事情があろうと、歴史は正しく次の世代に伝えなくてはならないと思うからです。



そんな中、2010年9月、私にとって画期的な本が出版されました。

「やってみもせんで、何がわかる 本田宗一郎」伊丹敬之著 ミネルヴァ書房です。

この本の中で、著者の伊丹氏は本田宗一郎の生誕地を「船明」と明確に書いています。

本文の内容から、伊丹氏も「私の手が語る」の文章から「船明」と結論づけたようです。

とても嬉しい本の出版でした。


「やってみもせんで、何がわかる 本田宗一郎」の中から一部を抜粋して紹介しますと、

 宗一郎は当時の磐田郡光明村に生まれた。
 光明村は天竜川が浜松平野へと流れだす、まさにその最後の山すそにある。
 村は天竜川に面し、そして村の中を天竜の支流である二俣川も流れている。
 その山と川に囲まれた静かな村の船明という地区で、宗一郎は村の鍛冶屋の長男として生まれた。

 その地名は妙に明るい。光明村であり船明である。
 そして、山の中ではあるが閉鎖された空間ではない。船明の天も広く、天竜の水も広い。

 この遠州の小さな村で生まれた宗一郎は、そこから世界に羽ばたいた。
 船明の土地が抱かせる「広がる思い」が、宗一郎という竜を天に駆け上がらせた、といえるかもしれない。

 その竜はいま、静岡県の小山の富士霊園で眠っている。
 この霊園から見ると、光明村船明は西南西の方角で、宗一郎の墓も西を向いて置かれている。
 宗一郎は故郷・船明の山河を望みながら、レーシングエンジンの爆音に包まれて眠っているのである。

 宗一郎は父儀平と同じ墓所で、遠く西に光明村船明を望んで、眠っている。
 船明の天地と父の背中から始まり、マン島を経てF1で終わった。
 天衣無縫に夢を追い続けた快男児の人生、それにふさわしい永眠のピットである。

 この本は光明村船明を出発し富士霊園に到達するまでの、一人の天才的技術者・経営者の人生を
 描こうとする本である。

 「あとがき」
 この本のごく初期の段階で、私は宗一郎が生まれた村(光明村船明)と、宗一郎のお墓(富士霊園)を訪れた。
 まず、生誕と永眠の地に自分の体を置いてみたかったのである。
 それも、自己流というべきでろう。
 しかし、そのときに二つの土地で感じたことが、この本全体のモチーフや構成の一つの基礎となっている。
 

イメージ 3


ここでもう一度、4年前に私がこのブログに書いた内容を振り返ってみたいと思います。

本田宗一郎は自身が書いた「私の手が語る」で、自らの故郷を次の様に語っています。


「私の故郷は昔の城跡などもある、少し小高くなった川沿いの村で、
  天竜(川)は大きく蛇行してうねるように集落の下を流れていた。」.....[暴れ川、天竜]


「二俣の山東小学校(正しくは二俣高等小学校)まで、家のある舟明からは四キロばかり離れていた。
  むろん、歩いての通学だ。野あり、山あり、小川ありの通学路で
   思い切り遊びながら帰る子どもたちは、例外なく腹ぺこになったものだ。」.....[60年めの味]


「山崎君(夘一)は日本ウェルディングロッドの社長で、私の小学校の同級生である。
  生家も近かったし文字どおりの竹馬の友だ。」.....[山崎君との約束]  ※山崎夘一の生家は船明。


「天竜川の洪水がひくと、ある部分には肥沃な泥土が柔らかく堆積した。
  舟明という土地もそういうところだったが、そこでできる牛蒡(船明ごぼう)はできがよいので名が通っていた。
   舟明の「ごんぼ」は子供の頃からの私の好物でもあった。」.....[自立心をつみるな]



これらの文書から、本田宗一郎は生家が光明村船明(舟明)である事を自ら記しています。


イメージ 5
[写真説明]
写真中央右側に白っぽく写っているのが船明尋常小学校です。
この写真には、大正15年に竣工し昭和2年に完成した南校舎が写っていてませんので撮影時期は大正の終わり頃と考えられます。
左手の天竜川には三艘の帆掛け舟が川をさかのぼっています。
この頃には宗一郎はすでに光明村を離れ東京のアート商会で修業中でした。
宗一郎の弟の弁二郎は大正14年にこの船明尋常小学校を卒業していますから、その頃の写真だと思います。
本田家はすでに隣村の山東に転居していましたが、写真右端の小高い丘には実家が残っており、この写真が写された時期には、儀平の妹夫婦である大隅夫婦が住んでしました。
大隅夫婦には子供がなく弁二郎は養子として育てられました。
宗一郎は山東の尋常小学校を卒業していますが、二俣の高等小学校に船明から通ったと「私の手が語る」に書かれていますから宗一郎も船明との繋がりは続いていた様です。
写真左に写っている天竜川は堤防によって仕切られていますが、堤防が未完だった明治時代は数年に一度氾濫し、一旦写真の右手方向に流れ、さらに大きく蛇行して写真手前を流れて本流に合流しました。
手前に広がっている平地は天竜川の洪水によって肥沃な泥土が柔らかく堆積し、牛蒡(船明ごぼう)が作られていました。
※この写真は私の秘蔵写真です。


イメージ 6

[写真説明]
同じく大正末期の船明諏訪神社の写真です。
全員が和装で素足に下駄履きです。船明諏訪神社の祭礼は毎年8月17日〜18日と決められていました。
左右に大きなのぼり旗が立てられています、旗には「氏子ノ年ノ男」の文字が読みとれます。
写っている4人の子ども達は、弁二郎とは船明尋常小学校で顔見知りの世代だと思います。
宗一郎が「私の手が語る」での祭りのときに村の若い衆が大きな鍋でつくる煮豆が好物だったとありますが、
この諏訪神社境内の出来事と考えられます。
この神社は現在船明ダムの建設により、運動公園の真下に埋まっています。



「名物は天下古今の名物にして、一人一家一世のものにあらず」

これは私の好きな江戸時代の茶道家である松江藩主松平不昧が茶道の名器について述べた言葉です。

本田宗一郎についても同様の事が言えと思います。


「本田宗一郎は世界の本田にして、一人一家一世のものにあらず」です。

自動車メーカーHONDAは、既に本田家の手を離れて世界に羽ばたいています。

本田宗一郎も、本田家の手を離れて日本が世界に誇るべき人物として、語り継がれる時が来ているのです。

さらには、地元についても本田宗一郎が故郷で過ごした日々を、正しく伝えるべき時期にあると思います。

事情があってそれが無理なら、せめて「光明村に生まれる」とし、断定的な表現を避けるべきとだと考えます。



2010年4月に「本田宗一郎ものづくり伝承館」が開館しました。

館内の年表「本田宗一郎のあゆみ」の表示は、残念ながら「山東に生まれる」となっています。

それまでの「光明村に生まれる」から一歩後退してしまった感があります。

イメージ 4


この年表の下にある写真に注目して下さい。

実は、気が付く方はまずいないと思いますが、さりげなく「船明」を示唆している写真があります。

「宗一郎の生まれ故郷」「旧光明村付近」と書かれた写真です。

イメージ 9


この写真は良く見ると「船明」の景色です、中央には船明尋常小学校が写っています。

その横には船明大池も見られます。

昭和2年に完成した白い南校舎が写っていますから、昭和初期の写真だと思います。

本田宗一郎の生家は、この写真の左方向へ約300mの地点となります。

この書き込みの4枚目の写真はこの写真の逆方向から写したもので、遠方の山の上から写したもです。

写真の説明文も「船明」とは表記できずに、「旧光明村付近」として含みを持たせています。

おそらく「船明」とは書けない事情があり、さりげなく「付近」と示唆しているのだと思います。

なんとも日本的な遠回しの表現ですが、これが現在出来るの精一杯の表現なのかもしれません。

「本田宗一郎ものづくり伝承館」に行ったら是非見て下さい。


イメージ 8


同じアングルで、現在の写真を「旧船明小学校跡地付近」から写してみました。

山の形が同じである事が分かります。

イメージ 7
[写真説明]
船明諏訪神社の横にある弁天島です、左手に船と筏の丸太が見えます。
当時、船明は天竜川を使った船による交通の中継点でした。
宗一郎は父儀平のお使いで、船明へ来た時に帰りはここから船に乗せてもらって、帰った事もありました。


本田宗一郎はその84年の人生の内、15年4カ月しか光明村にいませんでした。

しかし、光明村で過ごした日々は、その後の人生を決定付ける貴重な日々でした。

だからこそ、地元に住む私たちは正しく記録し、次の世代に伝えなければなりません。


このブログは本田宗一郎の生誕地を「船明」としている唯一のブログです。

おそらく10年経っても状況は変わらず、唯一のままかもしれません。

しかし、誰かがどこかで記録しておかないと歴史は間違って伝わってしまいます。


そんな意味で「やってみもせんで、何がわかる 本田宗一郎」伊丹敬之著 はとても感激しました。

「本田宗一郎ものづくり伝承館」の二階の書庫にも、この本が蔵書されています。

是非、お読み下さい。











イメージ 1

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本田宗一郎の生誕100周年に当たり、静岡県の旧天竜市(光明村)での少年時代の足跡をたどるシリーズ。
29回、約1ケ月間書き込みしてきましたこのシリーズは、今日が最終回です。


100年前の今日、明治39年(1907)11月17日、本田宗一郎は生まれた。
そして100年が経過し、光明村当時の事を知る人はほとんど亡くなってしまった。

本田宗一郎、山崎夘一、一瀬正義、本田弁二郎、・・・。

世界の本田と言われながら、地元では驚くほど宗一郎の足跡は知られていない。
それは宗一郎自身が、自分がヒーロー扱いをされる事を望んでいなかったからであろう。
また地元に迷惑をかけてはいけないと言う、宗一郎の意思を継いだ家族の希望もあっただろう。
地元もその気持ちを尊重し、思い出の地を封印してきたきらいがある。

宗一郎が生まれて100年。
平成3年(1991)8月5日、享年84才で亡くなってから15年。
地元で宗一郎の時代に生きた第一世代の人達はほとんど亡くなり、
その話を直接聞いた第二世代は80才前後になる。
地元で50代の第三世代の人に宗一郎の話を聞いても正しく知っている人はほとんどいない。
宗一郎に関する人々の記憶はどんどん失われているのである。

宗一郎は歴史が大好きであった。
生誕から100年が経過し、宗一郎自身が歴史になろうとしている。
そろそろ宗一郎の光明村での足跡を正しく記録し、後世の人達に正しく伝える時期なのではないだろうか。

地元で本田宗一郎記念館建設の動きがあると聞いている。
生誕100周年を機会に世界のHONDAの原点が15年間の光明村の少年時代から始まっている事を
是非、多くの人に知って貰いたいものである。

夢をありがとう本田宗一郎。


以上で「少年時代の足跡をたどるシリーズ」は完了致します。
内容に間違いや、思いこみや、勘違いがあるかも知れません。
間違いがありましたら、是非指摘のコメント書き込みをお願いします、直ちに訂正します。

ご覧頂き、ありがとうございました。

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本田宗一郎の生誕100周年に当たり、静岡県の旧天竜市(光明村)での少年時代の足跡をたどるシリーズ。


人は年を重ねると生まれ故郷が無性に懐かしく感じる事がある。

宗一郎は後年に東京の自宅の庭に人工の川を造り、鮎を放って友人をもてなした。
それは少年時代に父儀平に連れて行ってもらった天竜川の鮎取りを再現したのだろう。

故郷の船明に何度かヘリコプターで飛んで来たりもした。
望郷の思いがあったのであろう。


いまから100年前、宗一郎はどこで生まれたのだろうか。

私は、「生誕は船明」という説を採っている。

その根拠は、

1.「私の手が語る」の中で宗一郎自身が、船明生まれの山崎夘一の生家と、宗一郎の生家が近かったと書いている事。

2.父の儀平が修業を終えて初めて鍛冶屋を開いたのは船明の山下地区であり、みかと結婚し、新婚生活を始めたのも山下地区である事実。

3.宗一郎は結婚の翌年に誕生しているから、十月十日を考えれば宗一郎の生命が宿ったのは間違いなく船明である事実。

等があげられる。


また宗一郎没後に、さち夫人がわざわざ山下地区の旧大隅嘉一宅跡を訪れている事実もある。

さらに宗一郎が後年に山下地区に街路灯5灯を寄付している点も判断材料のひとつとしている。
船明村で街路灯が灯ったのは家屋の多い上町地区ではなく家屋が少ない山下地区が最初である。


生誕地を本田家は当然把握していると思われるが、公表されていないので、船明か山東なのか現時点では断定出来ない。

せめて、思い出の多い船明の船明小学校跡地に「本田宗一郎の思い出の地」の看板ひとつでも建ててもらいたいものである。



写真左  船明にヘリコプターで降り立った晩年の本田宗一郎、出迎えているのは山崎夘一(左側)。

写真右  山下地区全景

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番外

船明の山下地区に住んでいた大隅嘉一(宗一郎の叔父)の土地は、儀平が両親から受け継いだ本田家の土地であった。
この土地は100坪以上の広さで基礎はしっかりと石組されており、奥には立派な井戸がある。
以前はそれなりの規模の家屋が建っていたものと推測できる。

儀平一家が山東に引っ越した後、大隅嘉一夫婦が土地を借りて住んでいたが、昭和36年の火災で焼失し、その後植えられた杉の木が直径30cm近くまで成長し、火災から40年以上経過した年月を感じさせる。

この場所は、本田宗一郎没後に、さち夫人がわざわざ訪れた事があり、本田家にとって特別な地であるようだ。

この土地は小高い丘の端に位置し、背後に山が迫っている事から山下と言う地名はここから来ているのかもしれない。

この山の中腹に高岡城祉がある。
おそらく戦国時代以前の小さな山城だったのであろう。

城跡がいざ決戦の時に立てこもる砦で、いわゆる本丸だとすれば、
本田家の土地(その後売却)がある小高い丘全体が、高岡城の二の丸だったのかもしれない。

この高岡城趾を目指した。


写真左   大隅嘉一がすんでいた本田家の土地(山下地区)。

写真中   赤→元本田家の土地、 緑→高岡城趾。   

写真右   稜線付近には城趾を思わせる様な遺構はなかった。

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