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少年時代の本田宗一郎考

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日本人として初めてアメリカの自動車の殿堂入りした本田宗一郎・・・。
彼の生誕地を旧光明村の山東だと勘違いしている人が多い。
宗一郎と同じ村出身の私が、彼の著書「私の手が語る」を紐解き、彼の少年時代に迫るシリーズ。
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本田宗一郎の生誕100周年に当たり、静岡県の旧天竜市(光明村)での少年時代の足跡をたどるシリーズ。

11月17日の生誕100年まであと2日となり、この書き込みも終わりが近づいた。
今日はこれまでの書き込みを点検し、書き忘れていた項目としよう。

「私の手が語る」では少年時代の楽しかった思い出が多く語られている。
本田宗一郎に関する本は多数出版されているがの少年時代の貧しさを紹介した部分はほとんどない。
唯一、中部 博著の「本田宗一郎伝」に少年時代の貧しかった時期が記載され、とても参考になる。

宗一郎少年が生きた大正時代はどの家庭も貧しく、生きていくのが精一杯だった時代である。
本田家も例外ではなかった。
本田家の生活が安定したのは尋常小学校の高学年の頃に、儀平が鍛冶屋から自転車店に転業してからでの事である。
宗一郎が尋常小学校の低学年の頃は、父儀平が鍛冶屋の仕事を船明から山東に移ったばかりであり、
収入も安定しなかった。
さらに儀平が神経痛により仕事が思うに任せず、子だくさんも加わってとても貧しかった時期であった。


尋常小学校時代に戻ってしまうが、「本田宗一郎伝」に記されているその部分を紹介しておこう。



中部 博著の「本田宗一郎伝」 P34

本田宗一郎は、この貧乏だった少年時代にうけた差別といじめの体験を死ぬまで忘れることはなかった。

着たきり雀の着物、それは鼻水をぬぐう袖が樹脂のようにコチコチに固まっていた。
この着物を着ているがために近所の金持ちの家に飾られていた節句人形を見る事を許されなかったこと。
もうひとつは、うちなおしした母親の帯を締めて登校したときに「女の帯をしめている」と級友からいじめられたことだ。

こうした差別といじめの体験が、後の宗一郎をして「私の信念は自由と平等」と言わしめた。 (中略)
本田宗一郎は生涯、差別をする者や自由と平等を尊重しない者にたいして、非常に敏感であった。
成功者になって社会的地位を得て金持ちになったが、差別する側にはまわらなかった。
この原点を知らずして本田宗一郎の人生を理解することは不可能だろう。



この中部 博著の「本田宗一郎伝」、是非一読をお勧めする。

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話は少しさかのぼる。

尋常小学校字時代の有名なエピソードの場所を紹介しておこう。

尋常小学校時代の同級生で遊び友達に笹竹光次と竹内喜代次がいた。
笹竹光次は現在でも元気で、まもなく100才の誕生日を迎えるとの事で、
宗一郎の尋常小学校時代の思い出話は笹竹の話によるところが大きい。

隣町の二俣町の中心部に清瀧寺と言うお寺がある。
徳川家康が信長の命でやむなく二俣城で切腹させた長男の信康の墓所がある由緒ある寺である。
このお寺は後に通った二俣高等小学校にのすぐ北側にある。
二俣町や光明村の人達はこの寺の鐘の音で正午の時報にしていた。

お腹の空いた宗一郎は、同級生の笹竹光次と竹内喜代次の三人でこのお寺の鐘を30分程早く鳴らして
お昼を早めてしまい、清瀧寺の和尚さんに怒られたと言う逸話である。


この清瀧寺、文献によっては清海寺と表現されているものもある。
この付近に清海寺と言う名前の寺はないから、寺の名前を特定しない配慮だったのであろう。


写真左   清瀧寺入り口    家康が建立した「信康山清瀧寺」

写真中   清瀧寺の鐘楼    後日訪れたらポンポンクラブによる看板が設置されていた。

写真右   徳川信康墓所    家康の長男、生きていれば徳川二代将軍であった。

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本田宗一郎の生誕100周年に当たり、静岡県の旧天竜市(光明村)での少年時代の足跡をたどるシリーズ。

宗一郎は、よほど歴史が好きだったのだろう。
それは幼い頃、祖父寅市にねだって聞いた戦国時代の合戦話しから始まっている。。
「私の手が語る」の中で、これでもかと思うくらい戦国時代を中心とした歴史の話しが書かれている。
その内容は専門的で奥深い。

P34-35 織田信長の桶狭間から本能寺までの話。
P70-71 武田信玄と徳川家康の三方原の合戦の話。
P107-110 武田信玄の野田城攻めの話。
P179-180 平将門の話。
P185-186 鎌倉幕府の話。
P188-189 北条政子の話。
P191-192 桶狭間の話。
P194-195 高天神城攻めの話。
P197-201 忠臣蔵の話。
P202-206 日本海海戦の話。

宗一郎はこの本の中(P164)で歴史感をこう語っている。
「人間の歴史というものは現在を知り、未来を語るための私の体験として出す話題なのである。」


宗一郎は人生の節々で歴史を教訓にした判断をしていた様に感じてならない。


例えば織田信長
古いしきたりを壊すには強力なリーダーシップとカリスマ性が必要である。
だからだったのだろうか、宗一郎は若い頃、鬼の様な振る舞いでカリスマ性を発揮した。
だが、信長が光秀に討たれた様にカリスマ性だけでは人はついてこない事を歴史は物語っていた。
信長には間違いを正す人物が存在していなかったのである。
豊臣秀吉には弟の知将秀長がいた、武田信玄には弟信繁がいた、山内一豊には弟康豊がいた。

強力なリーダーシップを発揮すれば必ず摩擦が生まれる。
重要な事はその摩擦を和らげる人物が周りにいるかどうかである。
この目立たぬ役回りを演じたのは弟弁二郎であった。
本田技研設立当時の若い宗一郎には、社員を殴ってでも強力なリーダーシップを見せつける必要があったのである。
弁二郎が影でフォローしてくれたからこそ、いかんなくカリスマ性を発揮できたのである。
藤沢武夫が登場し、本田技研が会社としての形を整えた時、弁二郎は自分の役割を終えて宗一郎の元を離れる事になる。


例えば豊臣秀吉
秀吉は抜群のアイデアマンであり、常に新しい事へのチャレンジを忘れなかった。
宗一郎が田舎の貧しい家庭から世界のホンダに成長した経過は現代版の太閤記に似ている感があり、
今でも多くのファンが宗一郎を慕っている由縁である。
しかし、秀吉は後継者の指名に失敗した。
我が子可愛さのあまり、大局を見失って幼く、力不足の秀頼に後を継がせたのである。

結果は豊臣家の滅亡に繋がってしまったのは周知の事実である。
武田勝頼を跡継ぎにした信玄や今川義元もしかりである。
宗一郎が生きた時代も弱者は必ず滅びる戦国時代同様の世界であった。
会社が滅びれば社員やその家族は路頭に迷うのである。
だからこそ自分の子供を本田技研に入社させずに45才の河島を指名し、会社の末永い存続を図ったのである。



本田宗一郎の生き方、とりわけ本田技研を勇退する時の決断は、歴史を教訓としている様に感じるのは私だけだろうか。

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本田宗一郎の生誕100周年に当たり、静岡県の旧天竜市(光明村)での少年時代の足跡をたどるシリーズ。


明治時代の終わりに光明村には二人の巨人が誕生している。

ひとりは本田宗一郎であり、もうひとりは秋野不矩である。
秋野不矩はインドの厳しい自然の中で生きる人、動物、風景を描き、平成11年文化勲章を受章した女性画家である。
現在は秋野不矩の母校二俣高等学校(旧二俣高等女学校)の前に立派な秋野不矩美術館が建てられている。

秋野不矩は明治41年二俣町の城山に生まれ、大正10年3月に二俣尋常小学校を卒業している。
宗一郎の2才年下となる。
大正10年3月は本田宗一郎が二俣高等小学校を卒業した年と同年である。

二俣高等小学校は正しくは「二俣尋常高等小学校」と言う名称である。
当時の二俣尋常小学校は二俣高等小学校と同じ敷地内に併設されていたからである。
従って、二人の巨人は2年間同じ敷地にある学校に通い、同じ時間を過ごしたと言う事になる。

考えただけでも胸がわくわくする話しである。

この後、秋野不矩は近くの二俣高等女学校(現在の二俣高校)に進学した。

宗一郎は大正10年3年に高等小学校を卒業したが、直ちに就職をしなかった。
当時の儀平の自転車店には自動車の修理依頼もあったと言うから、家業を手伝いながら自動車に関する予備知識を得ていたのだろう。
そして、1年後の大正11年4月に東京のアート商会へ就職する事になる。



写真左      二俣高等小学校正門 (現二俣小学校)

写真中      本田宗一郎と秋野不矩

写真右      文化勲章受賞時の秋野不矩

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本田宗一郎著の「私の出が語る」に、どうしても紹介したい箇所がある。


それは生涯の友人であった山崎夘一との後年のエピソードである。
卯一とは高等小学校時代に二人で誓い合った「いつか金儲けして、サバの煮つけを食べよう」
と言う約束を果たす為に、60年振りに二俣の町を訪れてサバの煮つけを捜したりもした。

「私の手が語る」の中で宗一郎は夘一とのもう一つのエピソードを紹介している。
あまりに面白い内容なので、かいつまんで紹介しておこう。



本田宗一郎著 「私の手が語る」P233   山崎君との約束

仲のよい友達というものは、おたがいの気持ちが手にとるようにわかるだけに、
時どきやるゴルフでは、ふしぎに対向意識がつよくなる。
ある時、夘一から「豊橋のほうで、ゴロフをやるかが、一緒に行かないか」と声がかかった。
当時、ゴルフ狂であった私は二つ返事で同行を約束した。
当日は朝6時の新幹線で東京を発ち、新横浜から山崎君と車内で落ち合うことになった。

さて、その前夜。私は夕食をすませると、翌日のコンディションをベストにして山崎君を唖然とさせる程
こっぴどくやっつけてやろうと考えて床についた。
ところがなかなか寝付かれない。

眠れぬままに時計をみると、もう11時だ、これはいかんと思って睡眠剤を服用したがなかなか効かない。
ついに12時から3時半頃まで、三度にわたって薬を飲んでしまった。
朝5時に家内にゆり起こされたときは意識がもうろうとして、おもわず床に倒れて正体がない。
「これではゴルフは行けるわけがありませんから、やめてください」、
「いや、これは男の約束だから死んだのなら仕様がないが、これぐらいのことで破るわけにはいかない」

家内は経験上、私の性格を知っているからそれ以上は止めない。
それならと言うので東京駅までついてきてくれた。

早朝の東京駅の階段を、バックをもった家内の肩につかまり、重病人よろしくホームへたどりつく。
さぞ珍妙な光景だったことだろう。

山崎くんには連絡が入っていたとみえて、いろいろ心配してくれた。
豊橋へ着くとすぐ病院につれて行かれ、睡眠剤をさます注射を打ってもらい何とかコースに出たが、ナイスショットは一発も出ず、山崎君にやられてしまったが約束を果たした満足感は残った。
山崎君もうれしかったと見えて、ゴルフは早めに切り上げて、豊橋でうまい夕飯をごちそうしてくれた。



と言った内容である。
宗一郎の性格と、妻さちとの夫婦関係、山崎夘一との友情が濃縮されたエピソードである。

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