旧ただ若き日を惜しめ

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続・少年時代の本田宗一郎考

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すべてはあの日から始まった・・・。

1917年5月28日。
浜松練兵場で開催されたアート・スミス氏によるアクロバット飛行ショー。
尋常小学校5年生の本田宗一郎は単身自転車で25kmもの距離を走り抜けた。
この日の衝撃が後の宗一郎の生き方を変えた。
この日がなかったら現在のHONDAは無かったであろう。

あの日と同じ時間に、同じコースを自転車で走りたい・・・。
そんな思いで開催した「第二回アート・スミス メモリアルツーリング」の記録。
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出発時間の推定。

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宗一郎は90年前、何時頃自宅を出発したのだろうか。


本田宗一郎自らの手記「私の手が語る」ではたった1行、

「その日の朝、二俣から浜松の練兵場まで二十キロあまりの道のりを、私はこっそりとひっぱりだした
父の自転車に三角乗りをして出かけた」

とあるだけで、出発時間を特定する様な表現は一切無い。


宗一郎が浜松までカーチス複葉機の曲芸飛行を見に行ったエピソードがインターネットで紹介されている。

その中では、

第5話

http://www.web-contents-service.com/M20030105_234237/M20001223_235341.html


第6話

http://www.web-contents-service.com/M20030105_234237/M20001225_052504.html


この文章の中で、

「深夜満天の星空の下」に出発し、「何度も転び、転んでは起きて重い自転車を立て直し、すりむいた膝ににじむ血も気にかけず、宗一郎は暗い山道をひたすら走った。遠く浜松の町が見えてきた頃、あたりは夜明けの光に染まろうとしていた。」

どう解釈しても出発した時間は逆算すると午前12時か1時と思わせる表現なのである。

しかも本人は「疲れた」としか書いてないのに「傷だらけ」でたどり着いた事になってしまっている。

これは不自然だ、美し過ぎるエピーソードに脚色されている。


5月頃は朝4時ころから空が白み始める。

当時の人々、とくに天竜川の船頭達もこの4時頃から仕事を始めている。

舗装されていない凸凹道を、11才の少年が未知の目的地に向かって、

前照灯も付いていない当時の自転車で、真っ暗な道を走る事は考えにくい。

しかもコースは山道ではなく、比較的平坦な道である。


浜松まで約20km、平均時速5kmとして所要時間は4時間。

従って、宗一郎が出発した時間は早くても空が白み始める4時頃(5時頃の可能性もある)に家を出て、

4時間から5時間かけて浜松の練兵場へ9時頃着。

この辺が常識的な様な気がする。


この様に、宗一郎のエピソードを必要以上に美しく脚色する文章を私は相容れない。

宗一郎の没後、その言動は美化され過大に脚色されている傾向がある。

これは宗一郎本人が一番嫌がる事であろう。


今回、私が同じコースを走ろう度思い立ったのも、文献を鵜呑みにしないで自ら体で感じ取りたい。

そんな思いからである。

コース探索 (4)

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90年前少年本田宗一郎が自転車での飛行機ショー見学を再現するシリーズ。

宗一郎がどの道を走って浜松練兵場へ行ったかを示す文献は全く無い。

従って当時の地図を参考にコースを推測するしかない。

今回はいよいよ天竜橋を渡る。


宗一郎の住んでいた磐田郡光明村は天竜川の右岸にある。

戦国時代に徳川家康が武田信玄に対じする為に左岸の浜松に城を造り、

遠州地方の中心地が右岸の磐田から浜松に移ってからは、

天竜川に橋を掛け浜松側である左岸に自由に渡る事は、光明村や二俣町の悲願であったであろう。

ここに木造の立派な白い橋「天竜橋」が掛けられたのは明治44年のことであった。

この橋によって浜松から様々な文化が田舎の町にもたらされた。

宗一郎が初めて目にした自動車もこの白い橋を渡ってやって来た。


当時、天竜川を渡ると言う事は異なった文化圏に足を踏み出すことであっただろうと思う。

その意味からすれば少年宗一郎が1917.5.28単身で天竜橋を渡りきって対岸に一歩を記した時こそが、

世界のHONDAに向かって踏み出した第一歩と言うことになるのである。


[写真説明]

1.写真中央の鹿島橋は昭和12年に完成した。
 この橋の完成により、右側に写っている白い天竜橋はその役目を終えて取り壊される事となる。

2.天竜橋が掛けられていた付近の現在の状況。
 この写真の中央部分の対岸に向けて天竜橋は掛けられていた。
 橋脚跡等、当時を偲ぶ痕跡は残っていない。

3.当時の天竜橋付近の写真。

4.天竜橋を渡る親子連れ。

5.昭和12年に完成した現在の鹿島橋、来年の5月にこの歩道部分を渡って浜松練兵場を目指す。

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コース探索 (3)

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90年前少年本田宗一郎が自転車での飛行機ショー見学を再現するシリーズ。

今回は「二俣町〜北鹿島」までのコースを探索する。

宗一郎がどの道を走って浜松練兵場へ行ったかを示す文献は全く無い。

従って当時の地図を参考にコースを推測するしかない。



はじめに今日、8月5日は1991年に亡くなった本田宗一郎の命日にあたる、改めて合掌。



90年前、宗一郎は二俣の町を自転車で走り抜け旧鳥羽山トンネル(当時の名称未確認)を抜け、

北鹿島地区に入った。

このトンネルは幅員が3m程度あり、当時の大八車がすれ違う事が出来る北遠州を結ぶ大動脈であった。

この鹿島地区では毎年8月に徳川時代から続いていると言われる有名な鹿島の花火大会が開かれている。

宗一郎も両親に連れられて見に来ているとの文献もある事から、この辺りの地理には詳しかったであろう。

トンネルを越えて鹿島地区に入るとすぐに道路の右手に田代屋と言う筏問屋の屋敷がある。

車が発達していなかった当時、天竜川は帆掛船や筏が重要な交通手段であり、

夏場は夜が明ける4時頃から筏人足で田代屋周辺は賑わっていた。

宗一郎が何時頃この田代屋の前を通りかかったのかは後日検証してみたいと思う。

田代屋の前を通り過ぎると、いよいよ天竜川に掛かる白い吊り橋「天竜橋」を渡る事になる。


【写真説明】

1.当時の地図に宗一郎が走ったと思われる道を白線で示す。
2.現在の道路地図に宗一郎が走ったと思われるコースを示す。
3.旧鳥羽山トンネルの北鹿島側出口。
4.筏問屋の田代屋、現在でも史跡として当時の面影をそのまま残している。
5.田代屋説明板。
6.当時の北鹿島付近の写真。
 手前の大きな瓦屋根が田代屋。
 宗一郎は写真の左手方向から右手方向に走り、写真上部に写っている木製の白い吊り橋
 「天竜橋」を渡て浜松練兵場に向かった。

鍛錬(1)

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90年前、本田宗一郎が複葉機を見に、浜松へ自転車で出掛けた逸話を再現するシリーズ。


光明村山東から浜松市の練兵場までの距離は、どの文献をみても20km余りと成っている。

私が最も信頼している宗一郎自身の著書「私の手が語る」でも20kmあまりとある。

この「あまり」がくせ者である。

私の山勘では、もう少し距離がある様な気がする。

道路地図で簡易的に距離を計測すると直線で約19kmある。

当時の道は曲がりくねっていただろうから20kmであるはずがない。

この距離は後日、コースの概要が把握出来た段階で、車で試走し計測してみたい。

来年の5月にこのコースを自転車で往復完走するには、50km程度を走りきる体力が必要であろう。

私がこれまで走った最長距離は35km。

そこで鍛錬が必要となる。

昨日は気合いを入れて浜名湖を52km走ってきた。

それで分かった事は、現在のサドルでは40km当たりでお尻が痛くなり限界になる事。

同時に前傾姿勢の為、首が痛くなる事であった。

あと10ケ月、鍛錬を重ねなければ。

コース探索 (2)

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90年前少年本田宗一郎が自転車での飛行機ショー見学を再現するシリーズ。

今回は「山東〜二俣町」までのコースを探索する。

宗一郎がどの道を走って浜松練兵場へ行ったかを示す文献は全く無い。

従って当時の地図を参考にコースを推測するしかない。

地元出身の私は、山東から二俣の辺りは自分の庭みたいな場所なので大体の推測がつく。

当時宗一郎が住んでいた光明村山東と現在との大きな地図上の違いは二俣川の流れである。

宗一郎は写真の白線で示した道を浜松へ向けて走り始めたものと考える。

当時の道はもちろん凸凹道、幅員は当時自動車が走り始めた時代だから3m程度はあったのだろうか。


【写真1】
大正時代の二俣川の流れは大きく蛇行していた。
赤い点が当時宗一郎が住んでいた家、青い点線が後年付け替えられた二俣川の流れ。
写真の左に工兵演習宿舎の表示がある、ここが陸軍の諜報員を養成した中野学校の場所である。
ルバング島から帰還した小野田少尉はここで教育を受けた。

【写真2】
現在の地図。

【写真3】
当時の地図に、宗一郎が走ったと思われるコースを白線で示す。

【写真4】
現在の地図に、宗一郎が走ったと思われるコースを白線で示す。

【写真5〜9】

5.宗一郎が当時住んでいた自宅付近、正面の木が父親が植えた柏の木。
6.すぐ近くの「追分橋」、来年の5月25日にこの橋の上からスタートしたいと考えている。
7.光明村山東の車道付近、宗一郎が初めて自動車を見たのはこの付近であろう。
8.車道の名前を残すバス停。
9.車道を過ぎて「とどろきばし」を渡り真っ直ぐ進むと通っていた二俣高等小学校。
 次の路地を左に曲がると二俣の町の中心部を走る道に繋がっている。

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