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斎藤摂津守の城郭訪問記
6年目に突入!

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改)尾張 品野城

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訪問日:2014年5月

所在地:愛知県瀬戸市

 松平信定は松平氏宗家の安祥城主・松平長親の3男で、叔父の松平親房の養子となり、はじめ三河桜井城を居城とした。長兄・松平信忠は徳川家康の曾祖父である。

 宗家を継いだ信忠は家臣団の支持が得られず、大永3年(1523)13歳の嫡男・清康に家督を譲り、34歳にして隠居・出家した。信定はこれに不満を持ったとされる。

 清康は大永6年(1526)には岡崎松平家の西郷信貞を屈服させ、本拠を岡崎に移すなど、三河統一に向け織田氏や今川氏を敵に回して勢力を拡大させていく。

 しかし信定は同年尾張守山城に連歌師宗長を招いて新知行祝いの千句連歌会を催しており、これに織田氏の清洲三奉行らも参会しており、この頃織田信秀の妹を室に迎えたという。

 享禄2年(1529)には清康に従って信秀の家臣・酒井秀忠の品野城を攻略し、信定がこれを居城とした。

 享禄3年(1530)東三河の今川氏輝の家臣・熊谷実長の宇利城攻めで次兄・松平親盛が討死するが、清康は来援が遅れた信定を面罵したという。

 天文4年(1535)守山城は信定の娘婿で信秀の弟・織田信光が城主となっていた。守山に出陣した清康は家臣・阿部正豊に殺害される(守山崩れ)。信定はこれに参陣していなかった。

 清康には10歳の清康の嫡男・竹千代がいたが、信定は父・長親の黙認のもと、清康の弟・松平信孝とともに岡崎城を乗っ取り、さらには竹千代の殺害を企てる。

 竹千代は伊勢神戸に逃れて元服し松平広忠と改名する。その後駿河に移り今川義元の支援を得ることに成功、天文6年(1537)三河室城に入る。

 信定はこれを攻めるも失敗、岡崎城を預かっていた信孝も広忠支持に転じて岡崎城に迎え入れ、不利を悟った信定は広忠に降伏した。

 信定は天文7年(1538)に死去、信定の子・松平清定や孫の家次も広忠やその子の徳川家康と戦うが、永禄7年(1564)三河一向一揆の終結以降は宗家に従い、子孫は摂津尼崎藩主として明治維新を迎えている。

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