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戦争が終わった日は私は小さな村役場の前に流れてくるひび割れた天皇のお言葉にあるいはひざまずき、あるいは茫然と立ちすくむ大人たちを横目に、おいしい水を汲んだ子供には重過ぎる薬缶をぶら下げて仮住まいの部屋に帰ろうとしていた。
終戦から1週間でもう進駐軍のジープは岩手と秋田の県境の鄙びた村の道を走っていた。止まった車から降りた兵士は「ワラ」といった。母と私以外はみんなどこかに隠れていなかった。戦前からアメリカ人の友を持つ母は兵士を恐れていなかったが、「ワラ」が「water 」の意味だとはわからなかったらしい。コップで水を飲む真似に気づいていくつかのコップと薬缶の水、いつものように私がぶら下げて帰った薬缶の水を差しだした。のどを鳴らして水を飲んだ兵士がくれたのは1枚の大きな板チョコ(Hershey)だった。
彼らが去った後どこからともなく出てきた村人たちは毒が入っているから食べるなといった。でも母は一かけ食べて「おいしい」と微笑むともう1かけを私にくれた。私たちが何事もなく食べるのを見て安心したのか母が差しだす一切れずつのチョコレートにみんながその甘さに目を見はりながら食べたのを覚えている。
4月の初め、まだところどころに雪の残るこの村に疎開した私たちは11月には貨物列車の床に横たわって上野駅まで帰りついた。瓦礫と化した町にはところどころに板切れやとたんでできたバラックがもうたくさんできていた様に思う。
毎年私はこの詩を載せている。4月から2年生になろうとしていた私には一番強烈な印象を残している光景だったから。
箱舟
季節風は
吹き暴れてもいつかきっと止む
だが 爆撃は
いつ終わるのかわかりはしなかった
いのちの瀬戸際に立つことに疲れ果て
少しでも安らかな眠りを求めて
人々は箱舟を
上野の駅頭でじっと待ち続けた
芋のはいったボロボロの握り飯を出して
一口かじると
何本もの汚れた小さな手がさし出された
「チョウダイ」「チョウダイ」
からだ中に満ちていた食欲が
針で穴をあけられた風船のようにしぼみ
握り飯をつかんだ掌をさしだした
幾本ものよごれた手がそれをとり合い
その一瞬の喧騒がすぎると
不思議に世界は動かなくなり
人々はまた じっと箱舟を待った
母の膝に縋った幼い日の脳裏に焼きついた
枯野のような灰色の街は
神の審判を受ける恐怖に
サイレンの悲鳴をあげるのをやめた
束の間の静寂だった
こうした浮浪児と呼ばれた戦災孤児は全国で4万人ほどいたといわています。特に上野の駅周辺には台東区が東京大空襲の標的であったことから多く集まっていた様です。
もう一つ岩手に疎開する前に住んだ軍需工場の町という詩の中から 二つだけ載せみます。
「軍需工場の町」から
ひばり
サイレンが町の秩序を構成し
人々は防空壕の暗闇に突進する
空缶の上のろうそくのゆらめき
その中では赤子さえ遠慮がちに泣いた
壕を出ると まばゆい日射しの彼方で
ひばりが鳴いていた
つくしんぼ
爆弾の破片で
犬の内臓が二つに切断されるのを見た日
戦争は確かに子供たちの目の前にあった
つくしんぼの上にとび散った腹わたを見まいと
トロッコの車台の下にうずくまって
飛び去るB29を みんなで数えていた
ひばりとつくしんぼの間には少し時間差があった気がします疎開寸前の生活はもっと切羽詰まっていた様に思います。町が作った大きな洞穴の防空壕に逃げる暇のない空襲がやってきていました。
明日はその頃のお話を書きましょう。
決して楽しくはない思い出です。でも幼い子にとってそんな日常も自分たちの暮らしと思っていたような気がします。
読んでいただいてありがとうございます。
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> 若紫さん
たぶん認証性なので認証しておきます。ありがとうございます。
2016/8/14(日) 午後 5:41
> 清水太郎の部屋さん
私はもう小学校2年生でした。祖母に育てられたので母にそれほどべったりでもなく、一人でじっと何かしているタイプだった様です。
2016/8/14(日) 午後 5:43
こんばんは(*'-')v
戦後生まれで実感は有りませんが
父や叔母に話は聞きました
子供の頃に聞いたのでのでとても怖い記憶が残ってます
これから先も平和な世の中が続くようにと思います
世界から戦争が無くなる事祈りたいですね明日は
2016/8/14(日) 午後 6:39
> ふきたさん
本当の平和ってあるのでしょうか。今もどこかで戦っている人がいる。その中で苦しんでいる人がいる。
2016/8/14(日) 午後 7:09
こんばんは
私は昭和20年生まれですので、戦争の事はほとんどわかれませんが、父の実家がお百姓で食べ物もそんなにこまりませんでしたが、時々停電したのを覚えています。
近所に疎開してきた方が住んでいました。憲法9条は大切にしたいです。
[ ミチコさん ]
2016/8/14(日) 午後 8:54
> ミチコさん
継父が軍需工場の工場長をしていましたので学徒動員に来ている娘さんの実家に世話になっていました。だから待遇はよかったと思いますがなぜか役場近くの清水迄水を汲みに行った思い出ばかりしかありません。
2016/8/14(日) 午後 9:13
戦争の事や色んな事を
もっとお袋に聞いて小説でも書きたかったな・・・
[ sugi⇒トントン ]
2016/8/14(日) 午後 9:24
> sugi⇒トントンさん
小学校2年生で終戦。思い出がそれほどないのは4歳からずっと戦時下に置かれていたからでしょうか。戦争の詩はほとんど書いていません。
2016/8/14(日) 午後 9:29
こんばんは。
貴重な、戦争、戦後のお話しを教えていただき、ありがとうございます。
今も、調度、母と、階下で、戦争の話しをしてきたところです。
私は、戦争を知らない世代ですが、今でも、世界の中には戦っている国がありますね。
いつになったら、世界は平和になるのでしょうか。
その犠牲となるのは、弱い立場の者ですね。
2016/8/14(日) 午後 9:48
> ゆりこさん
少なくとも日本はこの経験を無駄にせず人々の生活を守ってほしいです。
2016/8/14(日) 午後 10:02
こんにちは〜^^
亡き祖父の話も思い浮かべて拝見。
まだ健在の祖母の話も改めて聞いてみようと思います。
2016/8/15(月) 午前 0:36
> 半兵衛さん
記憶している人はどんどん少なくなりますね。しっかり伺っておいて下さい。
2016/8/15(月) 午前 0:40
私が終戦を知ったのは
神戸から学童疎開をしていた岡山県の田舎町でした
小学2年生でした
神戸大空襲を受けた3月17日の後に疎開しましたので
B29による空襲は何度も体験しましたが
幸いにも命は奪われませんでした
その年の11月に神戸に戻りましたがわが家は戦火からも逃れ残っていました
これを書き出すと止まらなくなりましのでこれで終わります。
2016/8/15(月) 午前 7:23
> マックさん
私も2年生でした。まったくの同級生ですね。11月戻った人が多いのは何か理由があったのかな。私は岩手が雪になる前と思っていましたが、世の中の情勢が。このあとしばらくは食べ物のある農家の人が社会的強者でした。
2016/8/15(月) 午前 8:19
こんばんは(^^)
貴重なお話、詩、写真をありがとうございます。
できれば、直接お話を聞かせて頂きたいぐらいです。
[ hih*ka6*5* ]
2016/8/15(月) 午後 9:42
> hih*ka6*5*さん
私が話すと悲壮感がないそうです。でも子供はそんなに悲壮感を持って暮らしていたわけじゃない。こんなものが日常と思っていたフシがあります。
2016/8/15(月) 午後 9:52
そんな思いを二度とさせたくないです。
遠いことになったり、隣国や他国の理不尽な振る舞いに、許せないやり返せという方向にならないために、せめて自分の子たちには伝えないとと思っています。
2016/8/15(月) 午後 10:41
> メイさん
恨みからは何も生まれません。無意味な復讐より並んで未来を見られる世界にしたいですね。
2016/8/15(月) 午後 10:51
ageさん おはようございます〜♪
戦争は、よい事がひとつもありません。
今日も、張りきって行きましょう!!
ナイス!
2016/8/16(火) 午前 9:16
> (じ-.-じ)3さん
特に敗戦国には。平和が一番です。
2016/8/16(火) 午後 0:59