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結局、年末にアレルギーで亡くなった女の子は、 担任の先生が間違って渡したおかわりでショックを起こしたようだ。 かといって、一概に先生を責めるわけにも行かないような気がする。 目を配らなければならないのはその子だけではないのだろうし、 どういうクラスだったのかもわからない。 ただ言えるのは、楽しいはずの給食で、しかも信頼関係があったであろう 先生とのあいだで不幸な出来事が起こってしまったことが残念でならない。 人がすることも機械がすることも必ず間違いは起こる。 それを前提に対策を講じていくほかはない。 保育園でも、やはり同じような危険は起こりうる。 特に、まだ自分で判断のつかない低年齢になればなるほど、である。 何年か前にはよくする会(川越保育をよくする会)で「充実加配」を要請したこともある。 それは様々な事情で手がかかる子が増えている現在、 単に障害の有無・軽重による現在の加配基準に拘泥するのではなく、 柔軟に人の配置(加配)をして欲しいという要求であった。 その中で例えばこういう話があった。 アレルギーで除去食の子どもが増えてきて、 多いクラスだと給食の時間が大変だ。 ことに、まだよくわからない小さい子は“拾い食い”をしたり、 お友達のお皿のものに手を伸ばすこともありうる。 だから、すべて食べ終わってテーブル、床の掃除が終わるまでは全く気が抜けない。 そうだろう。 サラダに入っている卵がポロリと落っこちたとする。 それを、卵アレルギーの子が拾って食べる。 こういうことは大いにありうることだ。 もちろん、症状の重い子の場合はある程度距離を離して食べさせたりもしているだろう。 だが、「保育」である以上、全く隔離して食べさせるということも適切とは言えない。 みんなで楽しく食べたり、おかわりをして達成感を味わったりというのも大切だ。 例えばアレルギーの種類ごとにパーテーションで区切ったような部屋で食べたとして、 楽しいわけも美味しいわけもないだろう。 だとすれば、“人の目”による監視のもと、 ある程度、“みんなで”食べている体裁になるようにする他ないし、 そうすると、アレルギーの子が多いクラスには給食の時間だけでも、 担任以外に人が欲しいということになる。 もちろん、今でもフリーの先生が入ったり調理員さんが入ったり、 いろいろな工夫はされているだろうが。 こういうことについても、例えば懇談会などで話題にすればいいのではないか。 先日の避難経路についても同様だ。 懇談会というと、大体は子ども一人ひとりの成長ぶりが担任から報告され、 そのあと参加した保護者に「子どもの可愛いと思うところ」などを話させて、 そのうち誰かが感極まって涙をこぼしたりして終焉を迎えることが多い。 それはそれで結構だが、もう、毎度これだと、仕事を休んでまで参加しようという気が失せる。 (子どもが四人もいると尚更なのかもしれない) もっと実質的な保育の中身について、話し合ったり共有したりするような懇談会があってもいい。 良くも悪くも、保護者は保育園任せ先生任せで、それでいて注文は厳しかったりする。 園での我が子の様子だけでなく、子どもが育つ「場」について、 もっと知ったほうがいいことも多いと思うのだ。 それがまた、逆に園の側で気づかないことを気づくことにもつながり、 子どもが育つ「場」をよりよくすることにつながる。 もちろん同じことは保育園だけでなく、学校についても言える。 学校はよく“閉鎖的”だと言われるし、担任の先生も子どもや保護者に対して 「相談にのってやる側だ」 という意識が強いのではないか。 職業意識としては大切なことだが、 今の状況は担任の先生一人では担えないことも多いのではないかと思わせる。 |
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