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夕方、例のごとくカーラジオを聴いていると 悲しいニュースが流れてきた。 最近、進路指導の間違いで自ら命を絶った少年の通っている学校で卒業式があったとか。 ご両親が代わりに出席されたとか、担任の先生は欠席したとか、断片的なことしかわからないが、 もう取り返しがつかないし、こういう事件は本当にあってほしくない。 と同時に、学校のミスばかりが強調されているが、 子を持つ親としてそのほかの事情にも関心のあるところだ。 つまり、学校の誤りがあったとしても、どうしてそのような終局的な手段を選ばねばならなかったのだろうか、 SOSを発信できるような環境がなかったのか、 あるいは進学することの意義が子どもたちにどのように理解されていたのか、 などなど。 それにしても、なぜそのようなミスが、というのも不思議である。 パソコンへの入力漏れなどはどこでもありそうなものだ。 しかし、進路指導の際に生徒の顔をみて対面して話をしていれば、 その生徒が万引きをしたのかどうかなどわかりそうなものだが…。 さて、今日は長女の、つまり自由の森中学校の卒業式に行ってきた。 (良い式だっただけに、余計に少年の件に胸が痛んだのであるが) やっぱり自由の森というところは、姿勢として生徒と正面から向き合うのだなと、あらためて感じた。 僕がこれまで経験してきた卒業式というのは、卒業生はフロアの卒業生席、 呼ばれたら壇上に上がって証書を受け取る、というもの。 しかし、自森の場合は違う。 卒業生はずっと壇上にいてこちらを見ている。 在校生も教員も、こちらから壇上の卒業生に向かって語りかける。 そして卒業証書授与となると、今度は入場してきた花道の途中に卓が置かれ、 生徒は一人一人、花道を歩いて証書を受け取りに来る。 それから、来賓もいなければ祝電披露もない。 校長の話はあるが、それは卒業生に向かって語りかけるものだ。 あとはたくさんの歌。 つまりは、生徒中心なのだ。 といっても、生徒サマサマにまつりあげるということではない。 生徒を一人の人間として扱い、正対するということだ。 授業も真剣勝負なら行事も真剣勝負、直接生徒に対面する。 学校のための卒業式ではなく、生徒一人一人のための卒業式だ。 そういう意味では、保護者に対しても特に挨拶があるわけではない。 自由の森の「自由」とは、「何をやっても自由」という意味ではないと思う。 様々な意味の「自由」を内包していると思うが、 一つ、「既存の価値からの自由」ということもあるのではないか。 例えば決まりきったスタイルの入学式や卒業式にとらわれない。 「卒業式には何が大切か」というところから、一から組み立てる。 この「既存の価値からの自由」というのは、 学問的態度としてもとても大切なことだ。 学問というのは常に既存の価値に疑問を持ち、 それを打ち破っていく革新的な側面を持ち合わせているからだ。 「それでも地球は回る」だ。 うちの子どもたちは幸せだと思う。 こういう学校が近くにあり、運よくめぐりあうことができ、 そこで学園生活を送ることができている。 「お金があるから」という人もいるかもしれないが、決してそうではない。 もちろん、お金持ちの子弟もたくさんいるのだろうが、 うちなどは、それこそ既存の価値にとらわれず、 自分たちの老後のたくわえだの、毎月の貯蓄など一切考えずに子どものために使っているのだ。 だからかなりきわどい生活ではある。 何とかなるだろうと思っているし、 そう思わなければ何もできない。 本当は、自由の森に通わなくても、 どこの学校ででも子どもが一人の人として扱われなければならない。 少なくとも、だ。 |
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