|
今朝は仕事が休みだったので少し付近を歩いてみた。 トンボがたくさん飛んでいる。 もう秋だなと感じさせられる。 台風の影響か強めの風が田んぼを吹きわたり、 まだ直立している稲穂をたわわにしならせているのであった。 午後からは事務局員有志でアフタヌーンミーティング。 正式な事務局会議は再来週に予定しているのであるが、 いろいろと意見交換したいこともあり、また秋の運動を控えいろいろと準備もあるので ゆるやかに集まることとしたのだ。 午後の家族との時間を犠牲にして集まってくれた皆さんには感謝である。 同時にお母さんに連れられて参加して、退屈な時間を過ごしてくれた子どもたちにも感謝だ。 まず話しあったのがホームページに関して。 前任の担当者が卒園して事務局を退き、ずっと課題になっていながらなかなか前進させることが出来なかった。 そんななかで担当者を複数決め、忙しい中で話し合いながらトップページを作ってきてくれた。 まずは固定的な部分を作ってしまい、少しずつ内容を充実させていこうということでいろいろと話し合った。 もう今さらホームページごときで右往左往する時代じゃないだろうと言われそうだが、 うちの会はそうなのだ。忙しい日々の合間を縫って、素人が寄り集まってやっている。 やりたいことはたくさんあるが、技術的にも時間的にもやりたいことには遠く及ばないのが実情なのだ。 僕はホームページには大きく分けて二つの役割があると思っている。 一つは会員への連絡・会内部のコミュニケーション。 もうひとつは広く市民に向けたメッセージの発信だ。 ホームページというのはインターネットを通じ世界とつながっている。 会員だけに配られる閉じられたニュースペーパーなどとは根本的に異なる。 発信という点で大きな可能性を秘めているのだ。 それで、目下の問題は第一の点も満足にクリアできていないということにあるのだが、 だからといって第二の点もおろそかにできないのが昨今の情勢でもある。 保育をめぐっては制度問題から大きな変革期にある。 単純に会員が力を合わせて市に対して物申せば事足りる情勢ではないのである。 市レベルでは市民全体で保育制度や子育て施策をどうしていくか、もっといえば子育てや福祉を含め、 市の予算をどう使ってどのような街を作っていくか議論していかなければならない。 国レベルでもそれは同じことだと思う。 僕はホームページには、ぜひともそういう市民に向けた発信機能を持たせたいのだ。 そういうコンテンツを作り、市民全体での議論の端緒の一翼を担いたいとの思いが強い。 「それは自分のホームページやブログでやれよ」そのように思った人も、 今日の参加者にもいたかもしれない。それは確かに、やっていかなければならない。 が、僕個人というより「川越保育をよくする会」として、保育をよくするための一つの筋道として やっていかなければならないと思うのである。 9月末の街頭署名を一つの結節点として、ホームページを刷新していく。 もうひとつ、その街頭署名に関しても随分と話し合った。 街頭署名とは、市に向けた要請項目を署名とともに提出するにあたり、 秋の一日、繁華街で市民の皆さんにも署名の協力をお願いしようというのである。 僕は実は、署名の数などはあまりこだわっていないし、 署名の数が少なくとも緊急性の高い案件というものがありうると思っている。 だが、長く続いたこの会で、おそらくもう何十年も街頭署名活動が取り組まれてきている。 そういうものをばっさり止めることは難しいし、それ以上にこの機会をよりよいものにしていけばいい。 僕はいかに市民の皆さんにアピールできるか、という日として位置づけ、何年かかけて形を変えてきた。 今年はさらに、パネル展示やのど自慢・腕自慢や子育て相談会や、そんなイベント性も持たせながら、 市民みんなで子育てする意義を考える機会と出来るよう、工夫を凝らしたいと思っている。 こんなことに熱心だから、家人には叱られっぱなしだ。 その熱意をもっと他に向けてくれたら、家族はもっと幸せになれるのではないか、という訳である。 その通り!でもあり、さにあらず、でもある。 人は短い一生の間に出来ることは限られているのではあるが、個人に埋没するだけでは本当の幸せはない、 と僕は思うのである。 それにしても自分の非力さを痛感する毎日である。 過去の関連記事 川越保育をよくする会←ホームページはこちら にほんブログ村←こちらもどうぞ
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2010年08月12日
全1ページ
[1]
|
そろそろお盆休みの会社が多いと見えて道路も空いている。 子どもたちも今日から学童がお休み。 うちも少しばかり夏休みらしくなっている。 小学校の頃、いかに夏休みの40日が長かったか。 毎日毎日が本当に楽しかった。 本来なら子どもたちにもそんな思いを味あわせてあげたいが、 なかなか状況がそれを許さない。 それでも学童ですごす夏休みも長女はとても楽しいらしい。 僕はといえばお盆休みを取りたい人に休みを譲り、 せっかくの子ども達の休みとすれ違いとなってしまう。 さあ、今日はまた暑い夏が帰って来た。 予告通り、アロハの話を少しばかりしてみようかと思う。 興味のない人にとっては単なる派手な柄シャツに過ぎないこの手のシャツにも歴史がある。 最初期のアロハシャツは町のテーラーの作るリゾートウェアであったらしく、 古いものでは1930年代頃のものが残っている。 よく「海を渡った日系人たちが着物をほどいて作ったのがルーツだ」などといわれる。 当らずとも遠からずではあっても的を射てはいないようだ。 確かにそうやって出来上がったらしいシャツも残ってはいるし、物を大切にする昔の人たちだ。 しかし最初期のものが和柄ばかりであるわけではない。 むしろ日本との関係は、早くからのテーラーやメーカーに日系人が多かったということや、 その縁もあってか膨大な量のシャツの生地が京都からハワイに送り込まれている。 レーヨンありシルクあり、和柄あり、トロピカル柄あり…。 アロハシャツの隆盛を支えた一つの立役者が日本の繊維産業(とりわけ京都の染織産業)であったといえる。 もちろん、着物の需要の減少に伴うアロハ地の注文の増加は京都にとっても願ったりであったのかもしれない。 アロハシャツの最盛期は1950年代といわれている。 アメリカ本土との定期航路設置に見られるように、アメリカも戦争の傷から立ちあがって庶民もレジャーに お金を使えるようになってきた。土産物としての需要と、夏のカジュアルウェアとして本土での流行もあり、 質量ともに充実した供給が行われた時期であったようだ。 今、ウィンテージなどといわれコレクターがついているようなシャツのほとんどが、この時期のものである。 僕も出来ることならこの時代の本物をコレクションしたいのだが、すでに良いものは有名コレクターの手に おさまっているだろうし、相場がついている以上、おいそれと手を出すことは難しい状況だ。 しかもコンディションやサイズの問題もあるから、着て楽しむにはあまり適切ではないのだ。 ちょうど、あるメーカーが毎年、手を変え品を変え何十柄もこの時代のアロハシャツを復刻生産している。 それも、似たものを作るレベルではなく、当時のレーヨンの組成や染色技術、色、形、ボタンなどの細部まで、 いわば1950年代当時の新品を現代によみがえらせているのである。 僕は繊維に限らず、焼き物にしろ木工にしろ漆にしろ、かつての日本人が到達した手業が大量消費時代にそぐわなくなり、 技術が忘れられていっていることを残念に思うし、仮に細々と伝統工芸品として作られているにしても、 生活から離れたところでしか成り立ちえない技術・生産という点に疑問を抱きつつも、今となってはどうしようもない現実を受け入れざるを得ないのである。 その点で、このアロハシャツの復刻は、大量生産品ではあってもそれなりの意味があると思っている。 まあ、そんな大義名分は置いたとしても、数ある柄から悩む楽しみは格別なのである。 というわけで、まだ序の口なアロハ談義ながら次回また暇なときに続きを書くこととしよう。 川越保育をよくする会←ホームページはこちら にほんブログ村←こちらもどうぞ
|
全1ページ
[1]





