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昨日(月曜)子ネコが死んだ。 といってもうちで飼っているネコではない。 飼おうと思っていたネコである。 土曜日に子どもたちともども桑原さんの家に行ったおり、 桑原さんに保護されているネコと出会った。 なんでも庭先で鳴いていたそうで、ひどく痩せて両目が目やにでつぶれている。 誰がどう飼うかはともかく、病院に連れて行こうということになった。 即入院。風邪を引き衰弱し、数日間何も食べてないらしいという。 退院までに誰が飼うか決めるとして、長女がどうしても飼いたいというので その心づもりでいたのである。 夕方、桑原さんから急変して死亡の連絡があり、学童に長女を迎えに行って病院に駆けつけた。 その小さな痩せた亡骸はあまりにも哀しい。みんなで庭に埋めてやった。 生命は連続性あるもの。土に帰り、その土がまた新たな生命をはぐくむ。 子どもたちには大きな試練となったが、その小さな命のメッセージは受けとめてくれただろう。 せめてそう思うしか方法がない。 明けて日曜日は埼玉保問協の総会。 年度総括や新年度方針案の審議などは、まあ、通り一遍のものだろう。 しかし加盟団体からいろいろな報告がなされ、問題提起がなされた。 ISA(赤ちゃんの急死を考える会)からは全国各地の保育事故の報告。 上尾の公立保育園保護者会連合会からは2年前の園児死亡事故についての発言。 そして、総会終了後の懇親会ではふじみ野のプール事故についても話題になった。 それらの事故に共通していえることは、 当事者(ひろい意味での加害者側)が真剣に事故に向き合っているとは思えない点。 まずは徹底して責任逃れ。上尾の事故にしても、市の調査報告は一応なされたが、 当の保育士達の中での真摯な総括はなされていない。 それがまた保護者たちの不信や反感を買い、保育士達との溝は深まるばかりである。 その侑人君のお母さんがかつて「侑人は教訓にされるために死んだんじゃない」と 発言されたと記憶している。 その通り。保育中の死亡事故など絶対に起こってはならない。 けれども、その起こってはならないことが起こってしまった今、 その事実に真摯に向かい合わずしてどうするのだろう。 保育士達も意気消沈し、精神的に追い込まれもしただろう。 それはわかる。でも、しなければならないことはしなければならない。 今それをしなければ、永遠にこの問題を克服できないだろうと思う。 ふじみ野のプール事故では二人の市職員が有罪判決を受けた。 それに対して、組合を中心に減刑嘆願署名が出されたという。 言語道断である。仲間を思いやる気持ちはわかる。 でも、その前にすることはないか。 市の責任者として、なすべきことをなしていれば事故は防げたのである。 これは間接的にはどうあれ、民間委託した市のせいでも、予算を削った市のせいでもない。 「誰が事故を防げたか」。そこが最大の、そして中心的な論点である。 市民の幸福に奉仕すべき自治体労働者として、まずはそれを受けとめるべきである。 その徹底的な反省があった後にはじめて、仲間への思いやりもリアリティを帯びる。 こんな大人の常識も通用しない公務員達に市政の運営を任せて大丈夫なのか。 「大人が子どもを守らなければ誰が守るのか。」 僕は去年、長女が小学校に上がって以来、 6月にプールがはじまるのに合わせてお便り帳に書いている。 「プールの排水溝の確認をお願いします。」 それはわが子かわいさでやっていることではない。 大人として、子どもたちにしてやれることをしているのである。 それは些細なことかもしれないが、そうやって見守っていくしかないではないか。 今年の担任はとても真剣に答えを書いてくれた。 多分、僕がそんなことを書かなくてもきちんと点検してくれているには違いないが、 (あるいは僕がそんなことを書いてもきちんと点検してくれないかもしれないが、) 僕はあえてこれを書くことにしたのである。これからも。 ネコの命と子どもの命と、一緒くたに論じているようで不愉快に感じられた方もあるかもしれない。 だとしたらお詫びしよう。 ただ、僕が言いたいのはそういうことではない。 命に向き合う姿勢というのは、多くの場合昆虫や動物と接する中からはぐくまれるものではないか。 そして小さな死に涙する感受性を育てたいと思う。 それは最低限のベースラインであって、大人の常識を獲得するにはまだまだ学ぶべきがたくさんある。 だとしても、この最低限のベースラインを欠いたとしたら、 その上に何を積み上げてもあまりにも不安定である。 川越保育をよくする会←ホームページはこちら にほんブログ村←こちらもどうぞ
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