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夏休み最後の日曜日。皆さんのお宅では宿題はお済みであろうか。 うちでは事実上、今日が最後のチャンスであり、朝からずっと取り組んでいる。 昨日も午後から西図書館に行き、読書感想文のために借りた本をもう一度借り直した。 まだ終わっていないからである。 図書館にはたくさんの人がいて、ゆっくり座って本を読むこともできない。 土曜ということもあるし、あまりにも暑いから家を逃げ出して来た人もいたのだろう。 こんなに市民が勤勉なのだから図書館のような施設はもっと充実させたいものだが…。 宿題を一緒にやってて思ったことがある。 勉強が空欄を埋めるための勉強になってしまっている。 空欄さえ埋めればそれでいいといったスタイルで勉強しているのだ。 こんなものは本当の勉強ではない。 同じペーパーの空欄でもいろんな勉強が出来る。 「持つ」と「特」では“へん”が違うし「漢字字典」「国語辞典」「百科事典」は“じてん”違いで 大人でも間違うかもしれない。これらは先生からのメッセージかもしれない。 そのほか、ちょっとした発想から国語の勉強が世界地図の勉強になり音楽の勉強になる。 勉強って、強制がきっかけかもしれないが、興味関心を伸ばしていくとどんどん世界が広がる面白さがある。 もちろんそんなことは僕だって小学生のころは思いつかなかったが、 一緒に勉強する中で伝えていきたいことではある。 それから難問は読書感想文。 これは必須ではなく、課題の中の一つとなっている。 最近ではこれを選ぶ子が極めて少ないらしく、夏休み前の学級懇談会でも先生から 「ぜひ読書感想文を」と呼びかけられたし、課題一覧のプリントにも「読書感想文に取り組みましょう」とある。 うちの子どもたちは本が好きで「読書マラソンカード」を埋めるのに先を争っているくらいだから、 僕としても読書感想文には取り組んでほしいと思っていた。 本を読んで「面白い」と感じること、それを「伝えたい」という気持ちになること、 伝えたいことを文章で表す表現力、いずれもとても大切な要素だ。 ところがこれが難しい。 「面白い」だって、いろんな「面白い」があるし、程度も様々、他の言葉で言い表すほうが適切なものもある。 本のストーリーを最低限伝えながら自分の気持ちも表していく、これが全くできないのだ。 自分もそうだったのかもしれないが、小学4年ならもう少しマシな状態でいてほしいというのが正直な気持ちだ。 だから木曜から少しずつ、何度にも分けて聴きだしたり書きなおさせたりさせているのだが、なかなかよくならない。 今できなくても将来出来るようになるかもしれないし、今、誘導して書かせても仕方がないとも思うので、 今は今のレベルで仕方がないが、まあ、いい機会だから伝えたいことは伝えたいと思ってやっている。 さて、どこまでできるか。 それにしても、いかに子どもに対しても放任に過ぎたかなという反省もある。 生きていくための基礎力も大切だが、勉強の方法についても少しボトムアップしてやる必要があるのかもしれない。 だけど、仕事も家事も、というなかで勉強まで見てやるのはなかなか大変には違いない。 だからといって塾にまかせっきりもどうかと思うし、お金だってそうそうはかけられない。 格差社会のなかで親の年収と子どもの進学率の相関関係が顕著になってきているらしいが、 僕は貧乏だから学がないというのも癪だから、僕がやれることはやってやりたいと思うのだ。 川越保育をよくする会←ホームページはこちら にほんブログ村←こちらもどうぞ
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子育て全般
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先日は読者の方より宿題をいただいた。 昨今の虐待問題について思うことがあれば聞きたいということだ。 次々と起こる様々な事象に対し、時としてどのように考えればいいのかわからなくなる。 いや、わからなくなるというより自信がなくなるのかもしれない。 他の人はどのように考えているのだろう? 自分の考えとは違うかもしれないが是非聞いてみたい。 そんな感覚なのだろうか、それは僕もわかる気がする。 折に触れいろいろと考えてはいるが、他の人の見解も聞いたうえで自分の立ち位置を再確認したいような気がするのだ。 という訳で虐待の問題だ。 様々なケースがあるだろうが、主として親または近親者からの有形・無形の暴力ないしネグレクトを念頭に置こう。 この問題に関しては3つの観点から考察してはどうかと考えている。 まず第一には、なんといっても虐待の主体の問題だ。 虐待をしたくなる、虐待を止められない、キレる、自分に対し歯止めが利かない、あるいは子どもより他のもの(たとえば異性)に気をひかれ、子どもに愛情が向かないということもあるかもしれない。 このような心のありようは主として「判断力」がうまく働いていないのだと思う。 「判断力」にも様々なレベルがありうるが、根源的には動物的な「感」のようなものといったらいいだろうか。 自分のとるべき行動を瞬時にたくさんの選択肢から選択し、しかもその行動の限度までわきまえ、それを体の隅々にまで伝える脳の働きだ。 理性的な事理善悪の判断や自制心も、元をたどればここに行きつくような、そんな本能が人間には備わっているはずなのだ。 では、なぜその「判断力」がうまく働かないのかというと、これも様々な要素があるものの、大きなファクターとして「食」の問題があるというのが僕の考えだ。 人間が、「動物としての人間」としてとるべき食をとっているうちは人間の本能を活性化していられるが、 そのような食から離れれば離れるほど、人間としての本能の機能が鈍化していく。 これまで何度も書いてきたことだが、食べたものが細胞となり、細胞が肉体を作り意識を作る。 意識が行動を統率し、人のあり方を決定する。 極端な言い方をすれば、行動の根源には食がある。 ただし「動物としての人間」としてとるべき食に関しては、僕と現代栄養学の立場では解釈が異なるかもしれない。 それでも、たとえば給食改革でおなじみの大塚貢先生が「血液をサラサラにし、脳の血管を柔らかくする食事」などといわれて「イワシの甘露煮」を尊ぶ一方、コンビニ弁当や菓子パン、偏った肉食を排撃される時、「ああ、言いたいことは同じだな」と、僕はとてもうれしくなるのだ。 大塚先生の給食改革は、もちろん授業改革や心を育てる花壇作りとも相乗効果になっているのだろうが、 非行の激減、上田市(旧真田町地区)の犯罪の激減という、統計上目で確認できる素晴らしい効果をあげている。 話を元に戻そう。 ある人をその人たらしめている要素というのは様々あると思うが(たとえば暮らしている環境や就いている職業や交友関係や読んでいる本の種類や)、そんな諸要素のなかで「食」は人の「器」を作るという気味で最も大きなファクターであると考えている。 そして、虐待に関しては特にそうだが、補足的な要素としてその人の育ってきた環境や置かれた境遇も かなりの要素を占めているかもしれない。たとえば幼少期に愛情不足だったり思春期に間違った愛情を過度に与えられたり。 いずれにしても「食」を正していくということは、主体のあり方を規定するということで、もっと重視されていいのではないかと思う。 第二の観点として、現時点において主体の置かれた環境はどうかということだ。 一時期、親による幼児虐待の原因として育児ノイローゼが取りざたされたことがあった。 これも一つの例だが、その人が子育てをしていく上で、いいサポートを受けられる環境がどれだけあったか、ということは十分に考慮されないといけない。 いいサポートがどんなサポートかはケースバイケースだと思うのだ。 親仲間とのおしゃべりかもしれないし、実家の母による手伝いやアドバイスかもしれないし、 一時的にでも子どもから解放されてリフレッシュできる時間かもしれない。 そして、そういう環境の外縁に、本当は地域による見守りというのがあるといいのだ。 なにもお節介に生活に介入することまでは必要ないのだが、子どもと親を暖かく見守り、 何かのときはちょっとした力を貸してくれる。 日頃はあいさつを交わす程度だが、小さな子どもが一人で出歩いていたらキャッチしてくれたり、 それとなく遊び場の不審者に気を配ってくれたり。 今回の大阪のケースで断片的な事実でものを言うのは危険かもしれないが、たとえば親が不在らしいのに子どもの泣き声がしているような場合に、近所で声を掛け合って何らかの対応をとるということも、地域のあり方としては「あり」だと思うのだ。 確かに地域のしがらみというのはいい面と悪い面があると思うが、 個人の意思の契機を尊重したうえでの地域共同体の再構築は、僕は必要なのではないかと思っている。 第三に、先の「環境」とも関係するのであるが、受動的な「環境」を超えて能動的な「制度」として、 親や子どもを守り、あるいはサポートする行政的なシステムは十分に機能しているか、ということである。 最近は行政も柔軟になってきているとはいえ、まだまだ「お役所仕事」とそしられるような対応も多いし、 制度も硬直化して現状に対応できないことも多いのではないかと危惧される。 個人の意思やプライバシーなどに配慮して、逆に対応がとりづらくなっていることもあるかもしれない。 いずれにしても、報道される多くの虐待事件において、児童相談所や学校や警察が事実を把握しながら、 悲惨な結果を回避すべく十分な行動をとっていなかったと見ざるを得ないのである。 虐待の犠牲になる子どもが乳幼児であれ高校生であれ、子どもは自分から救いを求める術を、僕たちが思っている以上に持っていない。そんな子ども達のいのちの最後の砦は、多くの場合結局は行政にならざるを得ない。そういうものとして制度を作っていく必要があるし、そういうものとして制度を運営していく必要があると思う。そのためにも第一の観点とも関連するが、たずさわる人の良心や暖かい心や勇気ある行動が必要となってくる。 とまあ、考えていることはあるが、文字にするのは難しいもので、十分ご期待に沿えるものになったかはわからない。 ともあれ、これを契機にたくさんの人が考えてくれ、あるいは議論してくれ、悲惨な事件を少しでも減らすのに寄与したいというのが僕の願いである。 川越保育をよくする会←ホームページはこちら にほんブログ村←こちらもどうぞ
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今日も夕方から何かと忙しい一日だった。 相も変わらずの保育園での給食の話し合い。 これはどのメニューでなにを除去し、あるいはこちらで作って持参するか、 調理員と担任、(副)園長の同席ですり合わせをするものだ。 毎月のことであるから、そしてメニューは季節を問わず基本は繰り返しであるから、 大体答えは出ているようなものだ。まれに目新しいメニューの時になにを材料としたどんなものか聞いて、 どう対処するか話し合うくらいのもになっている(何しろ長いから)。 今回は手作りおやつに「ケークサレ」という新メニューが登場した。 塩味の(砂糖の入っていない)パウンドケーキのようなものらしい。 これはセーフだ。 その他、今回は除去で対処してもらって何とかなるものが多く助かる。 それでも持参メニューが5回、豆乳ヨーグルトが10回で、これに学校もあるからなんだかんだ、 ほとんど毎日、何かは作っているようだ。 そうそう、学校はもう給食は終わりだな。 学童でお弁当となると毎日だし。 話し合いが終わるとそのまま子どもたちを回収。学童に向かう。 学童の玄関にはいろんな形の容器が並んでいてザリガニがうごめいている。 今日はうちの二女もザリガニ釣りだった。 何の授業なんだろうな、クラスで近くの小川に行ってザリガニを釣るらしい。 それで昨夜は夜中にちょっとした工作を余儀なくされたのだ。 1.5リットルのペットボトルを半分に切断してひもを通してザリガニ入れにする。 朝顔の支柱くらいの棒を竿にしてひもをつけ、その先にはスルメをつけるのだ。 そういう指示書を学校から貰って来たからその通りに作った。 「○○ちゃんはザリガニとか生きものとか触れるんですか?」 お迎えに来ていたお母さんに尋ねられる。 「ええ、大丈夫ですよ。」 「いいですね。うちの子は全然だめで…。」 みると確かに容器の中は空っぽだ。 聞いてみると幼稚園出身だそうで、小さいころに体験がないのだろう。 もちろん、保育園出身だからって苦手な子は苦手なのだが、 幸い、保育園の周りも自然が残ってるものだから結構、カエルを獲ったり虫を捕ったりだ。 こういうのは経験が大きいのだ。そんなこともあって学校でも授業に取り入れているのだろう。 生きものとの触れ合いは命との出会いでもある。 うちの子は6匹捕まえて4匹は誰かにあげたそうだ。 6匹とは大漁である。 それから帰宅してちょっとした作業。 昨日、倉庫から取り出しておいた“よしず”を家の周りに設置して簡単に固定する。 これだけでも西日対策としては相当の効果だ。 夏は日が長いからいろいろと出来て得した気分になる。 僕は夏が好きである。 そうこうしているうちに家人も帰宅してくる。 今日は会議で遅くなることになっていたので僕が子どもたちを回収することにしていたのでもある。 それから夕食を作る。 今日は暑かったので“冷汁”に決めておいた。 このメニューは全国津々浦々で食べられているようだが、僕は知らなかった。 川越に来て、セイロ職人の麻彦さんだったか、陶器屋のおやじさんだったかに教わって作り始めたのだ。 簡単な割にのど越しもよく塩分も補給でき、夏にはぴったりなメニューだと思う。 大葉の香りが食欲を刺激するのも心地よい。 特に変わりのない夏の夕暮れ。 その毎日の積み重ねが貴重である。 川越保育をよくする会←ホームページはこちら にほんブログ村←こちらもどうぞ
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三度目の正直という言葉があるが、今日は総会前三度目の印刷を行った。 前回、若干の準備不足で一部を今日に延期していたのだ。 部数にしたら大したことないのだが、川下さん、寺本さんも来てくれることになっていた。 ところが、待てど暮らせど寺本さんが来ない。 昼寝でもしているのかと思って印刷が終わるころに一応電話してみた。 なんと、明日と勘違いしていたらしく、自転車を飛ばしてやってきた。 せっかくなので公民館の玄関のベンチに座り、三人しばし無駄話をした。 面白かったのは僕についての寺本さんの印象だ。 ニュース『こそこその森』で「食に関する雑感」を読んでた寺本さんは、著者である僕のことを よほどの年配者と思っていたそうだ。文体といい、お味噌、梅干しなどの内容といい、 最近の若い人が書くようなものではないという訳だ。 そしてある年の総会で実物を見て・・・。 まあね、この文章を見たらそうは思わなかっただろうが。 それから父親の子育てへのかかわりについても話題になった。 川下さんのご主人も寺本さんのご主人も、お子さんとのかかわりはそれほど密ではないそうだ。 一緒に遊んでも30分が限界。子どもを連れて学習会に、なんて考えられないという。 しかしこれは経験の積み重ねも大きいと思う。 僕の場合は子どもが生まれるまでは全く子どもなど好きではなかったのだが、 子どもを産む以上、女だけが子育てを分担するのは不平等であると、頭から入った。 だから自らに課すように子育てに参加したのでいつの間にか子どもといることが普通になった。 子どもにとっても僕といることが自然であるともいえる。 それから父親を取り巻く日本の現状だ。 間違っても父親が家事や育児に参加することを奨励するような風潮はない。 もちろん、お役所の中の一部の部門はスローガンとしてはうたいはするが、 肝心の企業社会はそういう風にはなっていないのだ。 丸一日会社で働いて、子どもが寝たころに帰宅して、ネットサーフィンするのがせいぜいという 日本の父親たちが、子育てに関してどの程度の意識を持ちうるかというのは推して知るべしであろう。 育児休暇を取るどころか、「子どもが熱を出したから早退する」なんて言ったら「奥さんはどうしたんだ?」 といわれるのが関の山だろう。 僕の場合は自由な生き方を選んだからある程度のかかわりが出来るにすぎない。 その代り、世間的な意味で失ったものもたくさんあるのだ。 僕としては、僕のような子育てへのかかわりを会社人間であるお父さん方に奨励するつもりは毛頭ない。 ただ、子育てを楽しいと感じてほしいし、子育てに参加したいと思ったときに参加しやすい社会であってほしいし、子育ての中から学ぶべきことを見いだしてほしいと思う。 子どもの成長って、ある意味人が人になる過程であるから、 そういう過程にある人とがっぷり四つに組んで付き合えるというのは自分の子どもだからなのだ。 また、「女の子の場合は何をして(一緒に)遊ぶのか」とも聞かれた。 何をしても遊ばない。ただ、居るだけだ。 たとえば作業や雑用をしているそばで子どもたちが遊んでいる。 「パパ、プリンが出来たよ。食べる?」 土でプリンが出来上がっているから食べる真似をして 「ああおいしい。上手にできたね」と言う。それだけだ。 何も陳腐なホームドラマのように、子どもとキャッチボールをする必要はないと思っている。 そんなこんなを話しているうちに、どんどん風が冷たくなってきて、 お開きにして家路に着くこととした。 川越保育をよくする会←ホームページはこちら にほんブログ村←こちらもどうぞ
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今日は先日すっぽかした給食の話し合いに行って来た。 それでも約束の時間を過ぎてしまい、またまたお待たせしてしまった訳だが、 いやな顔一つせず迎えてくださって感謝である。 忙しく働かないとなかなか厳しいものだから・・・。 今月は“もろ肉”というメニューが減って持参しなければならないのは5回くらいである。 ヨーグルトを持参する回数も数えるくらいしかない。 尤もこちらは“ヨーグルトあえ”の時はヨーグルトであえずに果物だけにしてもらってるからで、 別にヨーグルト自体が減った訳ではない。 どちらにしても持参メニューが少なくて済むのは助かる。 小学校と合わせてゼーゼーいいながら作ってるんだから。 夕食の後のお手伝いの時、子どもたちが焼物を一つ割った。 ここのところよく割るのだ。 割れ物だから割れるのは仕方がないが、問題はどういう取扱いをして割れたかだ。 今日は二人で小競り合いをしながら仕舞っている途中で割れたようだ。 お手伝いのさなかのことだから、普段はあまり咎めないようにしている。 また、しかるにしても言ってきかせる程度で許していたのだが、 どうも今日は反省の色がない。 事の重大性について認識していないようだ。 どうして割れたのか、どう思うか聞いてもまともに答えようとしない。 一応、焼き物が割れるというのはどういうことか話した上で、 二人を別々のところに30分ばかり立たせておいた。もちろん戸外である。 これは懲罰ではない。自分と向き合う時間を取ってほしかったのだ。 家に入れると長女は泣き出して自分から話をした。 自分にも非があったこと、お皿が割れてかわいそうだったことを話した。 つられて二女も泣き出し、同じように謝った。 大人が喜ぶようなことを言って逃れるようでは困るが、 まだそこまでの悪知恵はない。真摯に反省しているようであったので、 それ以上は追及しなかった。 お皿をなぜ大切に扱わなければならないか、 実は伝え方が難しい。物は何でも大切に扱わなければならないし、 大切に扱うということの中には物の性質に応じた取り扱い方をするといういことも含まれていよう。 だからその皿が高いものであれ安いものであれ、大切に扱わなければならないことに変わりはない。 が、それだけではなんとなく釈然としない。 少なくとも今日割れたお皿は、元は土だったのだ。 それを職人さんが掬いあげて形にする。 窯に入れて薪をくべて、その過程で割れるものもある。 薪だって元は赤松だ。命ある木を切って使わせてもらっているのだ。 そのようにして生まれてきたのがこのお皿なのだ。 できれば長く使ってほしいと、お皿は思ってたはずだよ・・・。 そんな言い方が正しいかは今のところわからないが、 物を大切にするということを突き詰めていけば大体はそういうことになるだろう。 大量生産品だって根本原理は変わらないだろう。ただ、ありがたみの程度が異なるだけで。 ともかく「割れたものは仕方がないね」ではすませない、 親の覚悟が問われたひとときだった。 川越保育をよくする会←ホームページはこちら にほんブログ村←こちらもどうぞ
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