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これはクソである。 ティッシュが添えられているところを見ると、人糞とみてまず間違いはない。 子どもの通園途上の道端に置き去られたものであるが、この質量ではそうそう土に戻るものでもない。 はっきりいって迷惑している。 察するところ、運転中にゆるいものを催し、ゆるいがゆえにコンビニを探しているいとまも なかったのであろう。それには同情する。 しかし、もう少し道路の脇に寄せてするとか、事後に砂に埋めるとか、 そういうデリカシーは持てないものか。 道端のど真ん中に盛り、王冠のごとくティッシュを添わせ、風になびかせているなんぞ、 落とし主の品格なさを赤裸々に示しているではないか。 まあ、こういうものをWEB上にさらすについてもこちらの品格を問題にされかねないのだが、 あえて決意して公開するものである。つまり、一時の心ない行為が相当な長期間にわたり公に さらされる、あたかも金字塔を打ち立てたごとくに、ということを銘記されたいがためである。 よくよく考えると、これは単に放尿や脱糞に限ったことではない。 人のあらゆる言動が、公開されるかどうかは別として存在の痕跡をとどめる。 他人の目があろうが無かろうが、他人の耳があろうが無かろうが、 その言動自体は存在することにより、常に発言者・行為者を規定する。 これは目先の損得の話ではない。 さて今日は、保育園で保護者会の主催行事。 劇団風の子の「風の子バザール」を子どもたちと観劇した。 珍しい楽器、エキゾチックな衣装、出演者3人が目まぐるしく立場を入れ替え、 あるいは着替え、あるいは楽器を持ち替え、めくるめくおとぎの世界に誘ってくれる。 子どもは勿論、完璧に異国の住人となり、 大人たちも知らず知らずに不思議な世界へ引き込まれていた。 実際問題として私たちの身の回りからは生の芸能というものが失われてしまっている。 テレビやインターネットによる配信に取って代わられたがゆえに「リアリティ」が語られる。 むろん、「リアリティ」と「リアル」とでは埋められない溝がある。 情操教育とかなんとか、そういうこざかしいことを抜きにして、 生の体験を通じた生の感覚を身につけることが、今の時代だからこそ求められていると思う。 3人目の子のクラスで、クラス交流会をやろうと盛り上がり始めている。 何人かの保護者との立ち話が功を奏して、ということだが、 「一番先輩なんだから音頭とって」なんて言われている。 いや、それって、先輩とかじゃなく歳ってことでしょ?と言いたいところだが、 これはリアリズムの極地であり、逃れたくても逃れられないのである。 川越保育をよくする会←ホームページはこちら 事務局長の卓上日記←給食セミナー事務局長ブログ 給食セミナー埼玉実行委員会←2月までの限定! にほんブログ村←こちらもどうぞ
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