会長うたかた記

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去りゆく者への郷愁

長くてあっという間だった数日間の旅を終え、一言記録を残しておこうとパソコンに向かっている。
いろいろと書きたいことはあるがたくさんあり過ぎてすぐには整理がつかない。
また折に触れ、分解しながら書きすすめていこうと思う。

結局あれから、墓参りなどして山口を後にした。
最後のお見送りをするという目的は達成できたわけだし、日頃いない者が大勢でとどまっても、
かえって気を使わせるだけである。
共に叔父のありし日を偲ぶのはもう少し時間が経ってからでいいように思う。

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子どもたちが山口の街を見る機会もほとんどないので五重塔だけ連れて行き、しばし時を過ごす。
それから山陰回りで帰る。

かつては帰省というと大阪まで急行“銀河”に乗ってみたり、山陰ワイド周遊券で途中下車しながら帰ったり
(もうどちらもなくなってしまったけど)
車で帰るにしても敢えて高速道路を使わずに、方々をめぐりながら旅をしたものであった。
その土地の風土が人を育て、街を育て、文化を育むということを、そんな旅から学びながら、
苦労をすればするほど得るものも大きいような旅をするのが帰省の一つの楽しみであった。

どういうルートをとるにしろ、山口に着くまで、松本、飛騨高山、郡上八幡、琵琶湖、城崎、出雲と名だたる観光地があるわけだし、それよりなにより、果てしなく続く美しい山陰の海岸線や名前も知らない漁師町のたたずまいなど、失いたくない日本の原風景である。
あるいは真っ暗な山の中、一生懸命アクセルを踏み、ブレーキを踏み、ハンドルを切るのでなければなかなかたどりつかない大自然の塊は、いかに文明の利器である車を持っていてもはるかに小さい自分というものを思い知らせてくれるのでもあった。

子どもを持つとなかなかそういう気楽な旅も出来なくなる。
少なくとも宿だけは決めて、ある程度余裕を持って日程を組んでということになると、
そうそう無茶はできないものだ。
この点からすると今回はずいぶんと思いきった選択だったが、
もともと急に降ってわいた話だから余裕などないのだ。
山口を出る時点で帰りのめぼしい地点での宿はことごとく取れなかった。
事実上、夏休み最後の週末であり、各地でイベントなども重なったのだろうと思う。
それに元々、山陰側のキャパシティは山陽側の比ではないのだ。

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なかなか大変な旅ではあったが、子ども達にはよい体験になったようである。
鳥取砂丘では熱い砂に埋もれながら、砂でできた急な丘を登り、その向こうに真っ青な海を見てその丘を駆け降りた。
夜中に着いた境港の水木しげるロード。
通りの両側にモニュメントがあるだけと言えばそれまでだがいかにもおどろおどろしく、
昼間訪れるのとはまた違ったワクワク感を味あわせてくれた。

驚いたのは余部(あまるべ)鉄橋だ。
山間を走る山陰本線がちょっとした海岸べりの谷地を通過するのに相当高度のある橋を渡るのだが、
もう何年も前、強風の日に列車が風にあおられて橋から落下する事故があったのだ。
その件もあってのことだと思うが、橋が真新しい鉄筋コンクリートのものに掛け替えられ、
鉄橋は解体される途上であった。

その悲しい事故はともかく、その鉄橋は人工構造物としては最高の美しさを持っていて、
城崎側から山陰方面に抜けるのに、急な右コーナーを抜けると突然現れる高く長い鉄橋の姿には
しばしば感動を覚えたものであった。
もうあの雄姿には写真でしか会えなくなる。
また一つ、また一つと、懐かしい人や物が自分のもとから消えていく。
人生にはそういう側面がつきものだが、自分もまたいつかは子ども達のもとを去っていく。
そう思うと今という時間がとてつもなく貴重に思えてくる。

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また明日から日常の生活が始まる。
それはありふれた日常ではあるが、同時に長い旅の一日かもしれない。




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三たび山口より

あわただしかった昨日は一通のメールより始まった。
山口の叔父が死去したというものであり、来るべきときが突然訪れたのだった。

急遽対応を検討し、子どもたちには保育園や学童に行ってもらい、シフトのやりくりや雑用を行いつつ
旅支度をする。
こんなことでもなければ夏休みの最後、子どもたちとどこかに行きたいと思っていた矢先だったので、
ちょうどよい機会でもあり、みんなで行くことにする。
費用の問題や荷物の量を考えると選択肢は車以外にない。
近頃では日ごろの整備もまったく足りていないのだが、オイルを規定量の最大値まで継ぎ足してよしとする。

バタバタと準備をし、休むまもなく夜の10時頃出発。
あまり時間がないので関越で練馬まで行き、環八で用賀まで走って東名に乗る。
タイムリミットが翌日正午と決まっているのでほとんど休憩も取れない。
途中、3時間か4時間くらいは家人に代わってもらい、あとはひたすら走り続けた。

それにしても東名はもう限界だな。
大型トレーラーやバスが、連結器がないだけで列車のように繋がっている。
右車線か左車線かでスピードが異なるだけで、どちらに乗るかの選択肢しかない。
ちょっと間が開くとすぐに大型車が割り込んでくる状況の中、テール・ツー・ノーズの場面も多く、
ひとたび事故が起これば玉突きとなるのがよくわかる。
名古屋の前くらいまではバックパネルを拝みながらの緊張した時間が続いた。

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東名、名神、中国、山陽とひた走って何とか到着。
お坊さんの読経が始まっていたがギリギリ滑り込んで最後のお別れをする。

何を言っても仕方がない。自分の寿命は自分が決めるのだ。
今年になってから2度ほど叔父を見舞い、少しは話しをしてきたが、
病気や自分の体とどう向き合い、どのような生き方を選択して行くのか決めるのは自分なのだ。
もちろん、周りのヘルプがどれくらい当てになるかも重要な要素に違いはないが、
結局は自分なのだ。

叔父についても僕自身、残念に思うことはいろいろあるが、まあ仕方がないと思った。
ほとんどの場合、病気そのものというよりも、その周辺のところで命を落とす。
叔父の場合も食べないから衰弱し、肺炎でやられたようだった。
願わくば、だが、時間的にも経済的にもゆとりがあって、このときが来るまでに一緒のときを過ごすことが
できたら、とは一番思うことであるが、それももう、今更言っても仕方のないことである。

幸い、というか、子どものいなかった叔父であるが、ご友人や僕たちを含め縁のあるものが多く集まって
にぎやかに送ることができた。すくなくともそういう生き方を、彼はしてきたということだろう。

続きはまた川越で。




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路地の記憶

山口の街に名残を惜しんでいるさなか電話が鳴った。
「お父さん、今日給食の話し合いだったんですけど・・・」
保育園からだ。おかしいな。何も予定は入ってなかったはずだけど。
手元に手帳がないのであらためて日程を設定することとした。

歩いて車まで戻り手帳を開いてみると・・・
なんと!5月21日のところに記載があるではないか!!!
前回、予定をうち合わせたときに間違って書いたのだ。
多分、単純な記載ミスではなく、気持ちがすでに4月になっていたのだ。
慌ただしいからな、毎日・・・。

ともあれ、先生方には待ちぼうけを食わせて悪いことをしてしまった。

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今日は午前中に商談を済ませ、そのまま昼食を取りに月光荘へ。
月光荘というのは前回帰郷した折に知り合いになったスローフードなお店である。
今日は豆腐ハンバーグにしてみた。
まあ、おかずはともかくとしてご飯が固い。
前回もそう思ったのだが、二度までとなると黙っていられない。

「田中さん、ご飯何で炊いてるんですか?」
図々しく質問だ。実は玄米の炊き方は結構奥が深く、僕でも固めになることはある。
だが、せっかく成功しているレストランで、よりによって玄米がこれではあまりに残念だ。
輝ける広告塔として玄米こそおいしく炊いてほしい。
Tファールの圧力なべで炊いているそうだが、もう古いので圧が抜けてるかも、との事だった。

う〜ん、そう言われればそうなのかもしれないが、デンプンが十分にα化していない。
だからよっぽど噛まないと消化に悪いが、それよりなにより印象が悪い。
あまり玄米になじみのないお客さんに、玄米がこんなものだと思ってほしくない。
尤もこの店は五穀いり白米も選べるので、みんながみんな玄米を食べている訳でもないが。
玄米って、ミネラル分が豊富だからうまく炊けてると甘いのだ。
だからうまく炊かないといけない。

今後、もっと仲良くなって何かの機会があればおいしく炊くためのお手伝いが出来るかもしれないが、
何しろ今日で二度目だから質問すら不躾に過ぎたのである。

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午後からは叔父を見舞ったり仕事の整理をしたりバタバタ過ごし、
余った時間でまた街を歩いた。
国宝の五重塔がある瑠璃光寺と、博物館や美術館、図書館があつまる文教地区だ。
いや、ホントに山口っていいところだな。
その昔、まだ山大生(山口大学の学生)のステイタスが高かったころはさぞかし居心地よかったろうな。
緑いっぱいの街に蔦の絡まる図書館なんかあるんだから。

博物館には蒸気機関車が保存されている。
小学生の頃、この機関車に登ってそこで鬼ごっこをしていて誤って転落し、
頭をしこたま打ったことがある。死にそうに痛かったが親には黙っていた。
それ以来僕は天才になってしまったのだ。
もう子どもが少ないのか、そんな危険な遊びはしないのか、
博物館に小学生の姿はなかった。

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古い街はどこもそうなのかもしれないが、
ものすごく細い路地が無数にある。
あるものは直線で通りと通りを結び、
あるものは蛇行して奥へ奥へと人をいざなう。
高い塀の間だったり片方が水路になっていたり。

そういう路地にこそ生活がある。
人が暮らす息遣いが聞こえる。
もうだいぶん変わってしまったけど路地はまだまだ残っている。
だから僕は歩く。


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今日は自分の人生の中でも特別な一日であっただろうと思う。
朝、ブログを更新してからまず叔父を見舞った。
特に何をするわけでもなく、何を話すわけでもない。
ただ、場所と時間をしばし共有する。
それで十分である。

それから病院を後にし、午後からのビジネス上のアポまでのわずかな時間、
自分の生い立ちをたどる旅に出たのだ。
今回は航空券とホテルとレンタカーがパックになったツアーで来た。
だからレンタカーという強い見方があり、自由に自分で行動ができる。

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相変わらず雨が降り続いていたのだが、まず、自分が通った小学校とか友達の家があった場所とか、
しばし記憶の隅からも消え果ていた場所をドライブした。
そして自分が子どもの頃住んでいた家があった場所や、お世話になった小児科医院のあった場所や、
すごく自分の核に近い場所にアクセスしてみた。
残念ながら雨も降っていたし時間もないし、
「こんなにこの道細かったっけ?」というほど狭い道で車もなかなかとめることができずに
写真すら撮れなかったのだが、確かに過去と現在の交差点に降り立ったのだ。

それから中市という、昔は街の中心街であったであろう場所にある駐車場に車を止め、
道場門前という、僕が山口にいたときまでは間違いなく目抜き通りであったアーケード街をぶらついた。

まあ、見る影もなかった。
用もなく、毎日のように通ったレコード店・楽器店が、
潰れてこそはなかったものの店の半分がH.I.S(旅行代理店)になり、
残りの半分もわずかなCDのほか、みやげ物だか雑貨だかを雑然と置いている訳のわからない店になっていた。
クラブ活動の傍ら通ったスポーツ店も潰れ、おいしかった大判焼の店も跡形もなくなり、
ご他聞にもれないシャッター通りへと様変わりしていた。

そしてまた、ずっと歩いて商店街を抜けた少し先に、当時は本屋があった。
その本屋には当時としてはいい感じのお姉さんがいて(たぶん、店主の娘だったのだ)、
高校生の僕たちはそのお姉さんを見にその本屋に通っていた。
(もちろん、というか、そのほかの本屋にもレコード店にも、行く先々にお姉さんが働いていた。
僕は芸能界のアイドルよりも、そんな身近なお姉さんたちのほうがはるかによかったのだ。
だから今も、あのお姉さんたちはどうしたのだろうと真剣に思うのだが、
当然のことながら、その人たちは自分で自分の人生を選び取り、
僕が心配するまでもなく、どこかでしっかりと生きているに違いないのだ。)
ともかく、その本屋も跡形もなくなっていた。
要するに、町中が訳のわからないものになっていたのだ。

そして、軽く昼食をとろうとうどん屋を探したのだが
(またうどんかよ、と思われるだろうが、山口といえばうどんなのだ。かやくうどんがうまいのだ)、
昔通ったうどん屋も当然のようになくなっていたし、そのほか、うどん屋といううどん屋がなくなっていた。
仕方なく、車に戻りうどん屋か、またはチェーン店ではない食事どころを探し、
ようやくたいしたことないうどん屋で昼食にありついた。

僕は写真って、撮っておくものだなあと思った。
記憶のかなたの輝いている街はもう見る影もない。
ところどころに痕跡をとどめてはいるが、
それは「開発」にすら取り残された残骸であることがほとんどなのだ。
写真がすばらしき日々を再現してくれることはないが、
少なくとも記憶をたどるよすがにはなってくれるのだ。

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午後からはビジネス用途で人に会ったのだが、
それは僕の母に紹介してもらった母の友人であり、
ある意味、僕を小さい頃から見守ってくれていた人たちだ。
だから、いわば“大人どうし”として話をするのは今回が初めてといっても過言ではなかった。

だが、仕事の話はさておき、大変に盛り上がった。
というのも、その人たちも食や自然環境やにすごく興味を持っていて、
その方面にかけては僕も話し出したら止まらないのであるから、
玄米の炊き方に始まって石鹸の話から原発の話から、ありとあらゆる事を話したのだ。
もちろん、この保育をよくする会の活動についても話し、大変共感していただいた。

引き続き、夜は叔母といとことその子どもたちと会食。
叔母ともなかなかゆっくり話しをする機会をもてなかったし、
僕が何を考え、何をしているのかということも、ある意味今日始めてわかったのではないかと思う。
お互い大いに話し、おおいに共感しあったのであった。

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そんなわけで今日はとても長い一日であった。
何十年が一日のうちに起こったような、そんな錯覚を覚える一日だった。
この一日の経験がこの先どのように生きるかは未知数ながら、
とてもよい方向に向かうのではないかと思えるのであった。




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古都 山口にて

昨日からまた山口に来ている。
一度退院した叔父がまた入院しているのだ。
もともとは退院したことを受けて、自宅でのケアをアドバイスしようと計画していた。
しかしそれを待たずに入院してしまったというわけだ。

胃を切っているので食事がほとんど入らず、なおかつ
トイレに行くのもいやなので水分を取らないという生活を続けたので
栄養状態が低下し、脱水状態にもなってしまっていたようだ。

昨日、病院で見た限りではとてもよくなっていて、
入院なんか必要ないように思うのだが、
それは点滴のおかげでうちに帰るとまた栄養状態が悪化するのでは、との事だった。
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しかし、やんちゃな叔父が病院のいいなりである。
検査に来て入院といわれると
素直にしたがって入院してベッドに転がっている。
その点を指摘して「叔父さんらしくない」といってやると、
「まな板の上の鯉いや。それでも治りゃあええけどの。」といって笑っている。

違うよ、叔父さん。病気は治るものじゃなくて治すものだよ。
医者に治してもらうものじゃなくて自分で治すものなんだ。
そう言いたいところをとりあえずこらえた。
この辺も含め、退院したらそういうモードにリードして行きたいと思っているのだが、
四面楚歌の病院のベッドの上ではなかなかコミュニケーションもままならない。

自分が心からよくなりたいと思えば、自分から進んで体のことを勉強するだろうし、
どんな食事をしたらいいか、日常生活をどうすればいいか、
薬を飲む以外にできることはないか、自分で自分を変えて行く必要がある。
もちろん、家族としてもいろいろなサポートはしていかなきゃならないが、
何よりも本人がその気にならなければどうしようもない。
だが、それすら自分で気づくしかないのだ。
周りから口で言ってすぐにわかるのなら苦労しない。
一緒に何かしながら、そういう気づきを待つしかないだろう。

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今日は久々に市内も少しだけぶらついてみようと思っている。
叔父の見舞いだけでこちらにそうそう来るほど裕福ではないので、
無理やりに商用も兼ねて来たのであるが、
それも当分は持ち出し一方であろう。

それにしても雨。
窓の外では松がしっとりと濡れてる。
それはとても麗しいのだが、
このところの天候不順には困惑している。





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