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今日の朝日新聞社説は「市民の自治 口を出して汗もかこう」というタイトルだった。 日頃、何新聞を読もうと、ほとんど社説などに目を通さなくなっている。 読みかけても最後まで行かないうちに飽きてしまう。 小難しく、案外つまらないので最初から敬遠してしまうようになったのであった。 ところが今日の社説は、なぜか目がとまり、読んでいるうちに大いに賛同できるものであった。 記事では大阪府池田市、千葉県市川市、千葉県我孫子市のいう三つの自治体の試みが紹介されている。 池田市では小学校の校区ごとに住民組織を設け、年間約700万円の事業と予算の提案権を認めている。 住民が地域ニーズに合った税の使い方を限定的ながら決定できる仕組みである。 市川市では市民が納める税の1%を、自分が応援したい市民活動団体の資金支援に回せる。 我孫子市では市役所が担う約1100の仕事すべてを対象に民間委託や民営化の提案を公募し、 市役所と民間のどちらがやればより市民の利益になるかという観点から提案を吟味の上、一部の事業で採用されたそうだ。 それぞれの取り組み自体は、面白いなとは思うが、川越市に対して「ぜひやりましょう」と提案したいほどの ものではない。 しかし、自治体の財政難を背景として、自治体側も市民に自治や協働を求めていかざるを得ないし、 他方市民の側も、多様な公共サービスの一部を自分たちも担おうという機運の高まりがあるのではないかというのである。 社説の論調は、市民がもっと税の使い道に口を出し、汗もかき、市民の意思で動く市役所へと変えていくことを奨励するものとなっている。 僕も常々、市民の地域づくりと自治体の役割について、見直す時期が来たのではないかと考えている。 ものすごく乱暴だが、一つの試論をあげてみよう。 かつて地域社会が機能していた頃は、その社会は地縁・血縁で縛られていて、個人に自由がない半面、 社会保障的なセイフティネットの役割も担っていた。 その最小単位が「家」であり、その次に町内やムラがあり、たとえば子ども会やPTAなどもその延長線上に位置する。 しかし、産業構造が変わり、核家族化が進み、個人主義が台頭するなかで、個人は「家」や地域社会から切り離され、社会保障は国や自治体によって実現されるべきものとなる。行政需要は飛躍的に増大し、たとえば福祉に関しては「ゆりかごから墓場まで」の施策が求められる。 よくする会の活動だって、対市交渉などはこのあたりに呼応したものであったといえるだろう。 だが、行政需要が肥大化しても予算は減る一方であり、自治体ができることにも限界がある。 「無駄を省いて福祉に回せ」と主張しても、一定程度はそのようにできるだろうが、何でもかんでもはできないのである。 今はそういう時代、どこまでを自分たちで自治的に担い、どこから先を行政に担ってもらうか、 市民が選択しなければならない時代になっているといえる。 自分たちで担うためには、あらたに地域を作り直さなければならない。個人が切り離されて不完全になっていたり、従来の組織(自治会やPTAや)が動脈硬化を起こして新たな住人や新しい施策を受け止めきれなくなっていたり。 あるいは、市民の政治参加の観点からは、限られた予算を川越市としてどのように使っていくのか、市民の間で議論してコンセンサスを作り、それに基づいて行政執行させていくというモードに切り替えていく必要がある。 これまでは代議制民主主義と官僚制の鎧で見えないことをいいことに、住民の代表が住民のニーズに 基づいて施策を決めていることにして、市民には見えない力関係により予算が配分されていたのだ。 折に触れ「政権交代が起こったのはいいことだ」と言ってきたが、それはこういうことである。 何党が政権をとったかどうかではなく、市民(国民)のニーズに誠実にこたえようとするところが支持を集め、 その結果が次の選挙でテストされる。いいことだけ言ってやらないところは支持を失うだろうし、 国民が賢くなれば賢くなるほど、政権公約も緻密なものが要求されることになる。 税金の使い方は当然、施策と表裏一体のものだ。 ただ、国政よりも地方自治のほうが、より自分たちに身近なだけにかかわりも深いものとなる。 単なる投票の過程にとどまらず、多様な形で地方自治に参与していくことが求められるだろう。 もっとも、こういったシステムがうまく機能するためには、様々なレベルで様々な条件が満たされる必要があるのだろうと思う。残念ながら、僕もその詳しいところまでは思索も勉強も及んでいない。 しかし、絶対に言えることは、国民(住民)がもっと賢くなって、施策や税の使い方に関心を持ち、 国民(住民)相互間で話題にしていくことが必要なのである。 その議論の前提条件として、正確な情報(情報公開)も不可欠だろうし、議論を保障するものとして 表現の自由が妨げられるものであってはならないだろう。 よくする会の活動として、ここ数年、市民への働き掛けを強調しているのもこうした考えがあってのことだ。 単純に市に対して要請してもだめだ。僕たちが考えていることがいかに市民の利益に合致しているか、説得するものでなければならないのである。 川越保育をよくする会←ホームページはこちら にほんブログ村←こちらもどうぞ
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政治や経済、平和の問題
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今日は党首討論とやらがあったらしい。 オリンピックも国会も、日常生活からはあまりにも縁遠く、 ただただ淡々と毎日を暮すだけである。 党首討論はラジオのニュースで聞いただけである。 記者の主観による部分的な切り取りであることを前提ではあるが、 なんとなく様子は伝わってきた。 話題は政治と金の問題に終始して、鳩山首相は防戦一本だったとか。 そのなかで自民党の谷垣総裁が「国民は今、この国に法の支配があるのか、と思っている」 みたいなことを言っていた。 鳩山首相の申告漏れ(脱税?政治資金規正法違反?)に関し、庶民なら畳までめくられて持っていかれるのに、 総理大臣なら払わずに済むのか、というわけである。 言わんとしていることはわかるが、「法の支配」とはまた大げさな・・・。 「法の支配」って、「人による支配から法による支配へ」つまり専制君主制から立憲制へ、 しかもその「法」は単なる法律ではなくて自然法に裏打ちされた高次の法である、みたいなくだりで 使われる言葉じゃなかったかな? むりやりに谷垣氏の言葉に合わせようとすれば、「法の支配のもとでは君主も法に服すんだよ。 総理大臣だって例外じゃないよ」くらいに思えばいいのかな。なんかしっくりこない。 せいぜい「法の下の平等」くらいの問題じゃないのかな。 玉ねぎを切るのに、薪割りの大ナタを振り回してるような、そんなこっけいさを感じてしまうんだな。 農家の庭先で切り株の上に玉ねぎ一個乗せて、谷垣氏が大ナタを振り上げている。 しかもおでこのあたりにバンドエイドが貼られていたりなんかしたら、 これはもう、最高に笑えるではありませんか。 結局、このこっけいさって、言葉尻の問題ではなくて、 同じ穴のむじながお互いの足を引っ張り合っているようなところから発しているように思うんだな。 政治と金にけじめがないのは自民党の十八番であったし、 小沢幹事長なんてその大明神なわけだ。灰色の金いっぱいもらって懐に収めてガハハと笑って。 そんな旧態然たる自民党政治の伝統を、鳩山氏だって谷垣氏だって大なり小なり引き継いでるだろう。 いまさら「国民は」なんて、何をおっしゃる。 まあねえ。法の支配を言うならもっと不合理なことはいくらでもあるよ。 いつだったかな、共産党のチラシを配った僧侶が住居侵入罪で有罪判決。 これって、共産党だからでしょ?って疑いたくなる。 ピンクチラシ配ったりデリヘルの電話番号電柱に貼ったりしつこい勧誘電話かけてきたり、 こんなのが取り締まられたって話は一向に聞かないのにな。 そらから派遣切りとかピンはねとか警官による嫌がらせ的な不審尋問とか、 国民が「この国に法の支配はあるのか」って思う局面は鳩山首相の問題とは違う場面であるような気がするな。 自民党の皆さんにも国民(高額納税者ではない庶民)の暮らしをしっかり勉強していただいて、 国民の声を真に代弁できる野党になっていただきたいと思いますよ。 何しろ皆さん金持ちなんだから。 川越保育をよくする会←ホームページはこちら にほんブログ村←こちらもどうぞ
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今日は珍しく出勤のない日曜日だった。 結構雪の降った地域も多かったみたいなので、どこかそういうところに出かけて行って、 子どもたちと雪遊びでもしたいなと思ったのだが、懐も厳しい折、 レジャー予算というのもそうそう計上できない。 それに忙しくしていたせいで家の中でもやらなきゃならないことが山積してるし、 今日は我慢だ。 我慢、我慢がいつまで続くのか、これから先の見通しも暗いので始末が悪い。 就職の決まらない若者たちもいれば、アルバイトや派遣などの不安定雇用で糧を得て暮らしている人も増えている。 年収200万円時代というのももう現実のものとなっているのだろう。 これでは物を買う意欲も起きないだろうから景気も上向かないだろう。 僕も今後、新しく車を買い替えたりカメラを買い替えたりできるのだろうかと不安を感じている。 子どもたちが成長するにつれ子どもにかかる出費が増えるというし。 子ども手当の行方も怪しくなり、また子ども手当だけで子育てが楽になるわけでもなし。 まあとにかく、希望を失わずに行きぬくしかない。 昨日降った雨が天に昇っていく光景が存外に美しかったのが救いだ。 さて、金曜の朝日新聞からだ。 金曜は盛りだくさんだったので今日まで先延ばしになっている話題。 気になったのは「救急外来 軽症なら・・・特別料金 どう考える」という記事だ。 僕は日ごろ病院にかからないのだが、一度、耳の大病かと思って救急外来を受診し、 その時にこの問題について問題提起したことがある。 当然、僕などが問題提起したところで社会的影響は皆無なのだが、 朝日新聞ほどの大マスコミなら期待もできよう。 救急外来に夜間、軽症患者が大挙して押し寄せ、本来の救急患者に十分な医療措置ができないばかりか、 スタッフや病院側の負担も相当なものになっている。そこで軽症患者には保険点数の時間外・深夜加算以外に、 実費としてチャージを課すことで時間外に来ないようにしようという試みが各地で行われているという。 現状認識としては誠によくわかる。 が、この問題の根深さは、軽症なのか重症なのかの判断が素人には困難であることにある。 入院が必要なければ軽症とも一概には言いきれない。 ただの頭痛にみえて手当ての遅れが死につながる病だってあるだろう。 だから「結果として」軽症だった患者に特別加算を行うしかないだろうが、 そうすると「お金がないから怖くて受診できない」層が必ず生じてしまう。 医療の格差が、この日本でも起ころうとは・・・。 誤解を恐れずに言っておくと、昼間忙しいからとか、昼間は混んでいるからとかの理由で、 敢えて夜間に受診する人たちがたくさんいることも僕はよく知っている。 この特別加算は、だからこの人たちに向けられたものなんだろうけど。 根本的には、国民みんなが健康になることだ。 といってもいろんな病気があるから一般化はできないが、 少なくとも日常生活の改善で何とかなる範囲での疾患というのが、実は相当に多いのだと推測している。 食生活の改善や生活リズムを正すことで受診の回数はかなり減らせるだろう。 それが国民規模になれば、相当に救急外来も楽になるだろうと思う。 さあ、今の政府のメタボ検診などがこのような方向に向かっているか。 あるいは食育基本法で十分か。 有能な官僚の皆さんにも賢明な政治家の皆さんにもよく考えていただきたいが、 アタマがよろしすぎて他のことを目論んでいらっしゃるのかもしれない。 同じく金曜日の記事からもう一つ。 こちらは埼玉西部版、つまり地方版の記事だ。 所沢で不登校の子どもらに居場所を提供してきた「バクの会」が22年の活動に幕を閉じるという。 資金不足とスタッフの高齢化が理由とのことだ。 僕はこの会のことは全く知らなかったが、不登校の子だけでなく、引きこもりや障害を持つ子、 悩みを抱える社会人まで受け入れ、勉強を教えたりスポーツや音楽を楽しみ、人が人として安心していられる 居場所であるようだ。 なくなるとしたらなんとも残念ではないか。 この記事には行政とのかかわりが全く書かれていないが、まったく行政的な援助は得られないのだろうか。 この手の活動は、行政よりも市民の任意の活動に適することが多い。 が、本来、行政が放置していいことではないのだから、柔軟な対応はできないものかと思う。 この間、川越でも後期かわごえ子育てプランの作成に関して行政にいろいろな提案をしてきた。 しかし、行政のすることというのは「制度づくり」や「イベント開催」には熱心だが、 市民に対する柔らかい援助というのが難しいようなのだ。 たとえば、公民館のような公共施設に子どもの居場所を作ってほしいといったら、 「バンド演奏ができるスタジオを作った」とか「児童館機能を持たせるようにしている」とか。 いや、そうではなくて、たむろできる場所があればよいのだ。 それから、子どもたちがなにかしたいと思ったり相談したいと思ったりしたいと思ったときに、 気軽にアクセスできる人や窓口。 児童館にしてもそうだ。 イベントを企画することに熱心で、子どもたちがいつでも遊びに来て自由に遊んでいいようには、 実際にはなっていない。だが、本当に必要なのはまずは居場所。 遊びの内容は子どもたちが自分で考えるだろう。 そして、遊びにさえ来ていれば、プラネタリウムのイベントだろうが工作のイベントだろうが、 興味を持って参加する子は参加するだろう。 この社会の様々な問題をどのようにして解決していくか、 とりわけ市民と行政とでどのように役割分担していくか、 市民はどこまで行政に求め、どこまで自治的に解決していくのか、 今、大きな分岐点にいるように感じている。 長くなってしまったな。また論じることとしよう。 過去の関連記事 川越保育をよくする会←ホームページはこちら にほんブログ村←こちらもどうぞ
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今日の東京新聞「こちら特報部」というコラムに「八ッ場ダム 中止の課題」という記事が載っていた。 八ッ場ダムというと群馬県の吾妻川上流に建設が予定されていたダムだ。 これによって川原湯温泉という温泉街が沈んでしまうというので話題になっていた所だ。 このたび民主党政権になって、建設中止が現実味を帯びてきた。 僕も温泉好き、車好きということで、過去に何度もこの川原湯温泉を訪れており、 昭和の風情たっぷりの共同浴場も、もうなくなってしまうのかと残念に思っていた。 もっとも、訪れるたびに夜中だったり浴場が休みだったりで、この共同浴場には一度も縁がなかったが。 温泉街の入口に無料の露天共同浴場があって、もっぱらこちらのお世話になっていた。 また川沿いを走る国道145号線というのが実にいい感じで、 川の蛇行に沿って適度にツイスティに曲がりくねっている。 民家もあるのであまり無茶はできないが、足を固めた車ならそこそこ気持ちよく流せるので、 ギャランやランサーで走るのを楽しみにしていたものだった。 (もちろん夜中だ。昼間は軽自動車がカタツムリのように走っているのだ。) まあそれはさておき、この八ッ場ダムも建設の是非を巡っては住民の激しい反対運動などあったが、 最終的に1992年に建設が決まって以降は住民もダム建設を前提とした生活設計をしてきたので、 この期に及んでの建設中止には複雑なものがあるようだ。 第一、中止をしたからといってお金がすっかり浮くわけではないし(すでに総予算の7割を使っている)、 何よりも住民の7割方が他所に移転して生活を始めている。家業をあきらめた人もいるだろうし、 残された集落だって、もう生活共同体としての体をなしていないのではないかと思われる。 「いっそのこと完成させてくれ」という声も少なくないようだ。 しかし、なぜダムの建設中止が提案されているかというと、やはり巨額の費用がかかる割にその効果に疑問符が付き、他方で自然破壊や住民分断、生活文化の破壊などの弊害があるからだろう。 えげつなく考えると、巨額の工事費の見返りとして、関連する政治家のもとに多額の政治献金が寄せられ、 その政治資金で選挙を勝ち抜きまた業者に見返りを、という持ちつ持たれつの悪循環がずっと続いてきたのが、 この自民党の長期政権化の常識であった。 冷静に考えても、このダムの建設が計画された当時(今から58年前ということだ)と今とでは、 水道水の需要や防災についての考え方がまるで異なっているといえる。 関東一帯の水がめと計画されたらしいが、現実的にこの58年間、ほとんど水を渇望するような状況は なかったのではないか。人口の増加予想が大幅に外れていることも考えられる。 そして大水害の時の備えとしても、ほとんど効果がないとの識者も少なくないと思う。 今作らなければ困るという状況は、限りなくゼロに等しいというのが現実だろう。 そして予算面から考えても、建設を止めるにこしたことはないと思う。 確かにこれまでの投下資金は無駄になるが、今後の無駄は避けることができる。 何しろ、完成後だってその維持管理のためには多額の費用がかかるのだ。 それ以前に、現在の予算ではとても完成までおぼつかないとの指摘もあるらしい。 このあたりは地盤が弱いので、地すべり対策の工事費用も加算されていくだろうという予測がある。 何十年後かはわからないが、老朽化の暁にはもっと大きなダムに置き換えということにもなるだろう。 地元の実情を知らない僕がとやかく言える立場ではないかもしれないが、 理性的な判断をお願いしたい。 同じ東京新聞の社会面には千葉県庁の不祥事が載っている。 同様な事件はこれまでもいくつかの自治体・警察などであったと記憶しているが、 こういう時に襟を正さなかったものだろう。 お金というのは恐ろしい。一度甘い汁を吸うと、なかなかそれを止めることはできないのだ。 国レベルでも地方レベルでも、合法非合法いろんな形で無駄が蔓延していると、僕は考えている。 だから民主党が本気になって無駄を正すというのなら、マニフェストに掲げた政策を実現するための 財源を捻出することは可能だろうと思っている。 ただ、甘い汁を吸っている人たちがそれを簡単に手放すとは思えないし、逆に抱きこまれないように 十分気を引き締めてもらいたい。 (もちろん、すでにそういう体質である人が重鎮であるという指摘も承知している。) ついでながら、お金がないないと言っている川越市。 僕はこの川越だけが清廉潔白でやってきたとは思っていない。 どこまで襟を正せるか、川合市長はどこまで改革を断行できるか。 すでに、内部改革に先行して生活関連費の切り下げや水道料金の値上げなど、 安易な、表面的な改革が進行しているように思えてならないが。 今日は紙を買って、ぱぱっと印刷を済ませてきた。 明日はよくする会の委員会。今年の対市要請項目をまとめていく。 楽しみではあるが、利害対立を話し合いでまとめていかなければならない側面もあり、 結構ストレスがかかるのだ。 川越保育をよくする会←ホームページはこちら にほんブログ村←こちらもどうぞ
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今日はある保育園のよくする会担当者よりメールをいただいた。 対市交渉に向けた要請項目の取りまとめを、11日の委員会で提出と思い違いをしていたが、 まだ間に合うか、ということであった。 もちろん、それはなんとでもなる。 それよりも嬉しかったのは、園の役員で要請項目について話し合いの機会を持ち、 盛りあがって保育を見つめ直すいい機会になった、というのである。 こういうプロセスこそが大切なのだ。 要請項目としてよいものになったかならないか、役員間でまとまったかまとまらなかったか、 そんなことは二の次で、まずはコミュニケーション。 それぞれ、考え方はいろいろだろうし、物の見方にもいろいろあるなあ、と思わされるだろう。 共感しあえることもたくさんあるだろうし、もしかしたら嫌な気持ちになることもあるかもしれない。 それでも、そのプロセスが確実に人を育て、意見を育てる。 委員会、そのあとに続く街頭署名が、また一つ楽しみになった。 実は今日は大変慌ただしい思いをした。 家人が仕事で明日の夕方まで帰ってこない。 めったにあることではないが、それゆえにそういう境遇に慣れているとも言い難い。 4人をそれぞれ迎えに行き、買い物をし、夕飯を作り、食べさせ、風呂に入れて洗濯をし。 一つ一つのことは大したことではないが、ある時間までにひと固まりの仕事を終わらせるとなると、 それなりに汗もかくことになる。 最悪なのは甘えてやろうと足元にしがみついてくる赤ん坊。 危ないしうっとおしいしだが、一日親元から離れていたのだからやむえない。 ただし、伝家の宝刀である「おっぱい」を持ち合わせないのが辛いところだ。 「そんなことはいつもやってることよ」と、家人は言うだろうし、 大多数のお母さん方も同じ感想だろう。 「だからガミガミも言いたくなるのよ」というのも家人の口癖である。 だいたい、男と女の不公平が語られるのもこんなところからで、 共稼ぎで同じように仕事をしていてさえ、家事や育児が女の役割とされているのである。 その意味では妻が専業主婦である方が、役割分担が古典的ではあっても男女間の公平は保たれているのかもしれない。 今後果たしてどうなっていくのだろうか。 税制の上では配偶者控除がなくなるということは、妻の地位が夫の給与の中では考慮されないということであり(その逆もあるかもしれないが世間一般的に)、妻が「自立」することであるといえなくもないかもしれない。 もっとすすんで、これまでパート労働者の賃金は「夫の扶養の範囲内で」ということで時間と賃金がなんとなく決まっていた面があるともいわれているが、配偶者控除という枠がなくなれば、時給がそこに縛られることはなくなっていくことになるかもしれない。 他方で、正規雇用という形態がどんどん少なくなっていき、非正規雇用(パート、アルバイトなど)、非典型雇用(派遣、請負的契約など)が増えていく中で、男性の賃金が必ずしも一家を養うに十分なものとはいえなくなってきているのも事実である。そこから「将来が不安で結婚できない」という問題も出てくるのだし、仮に結婚したとしても、夫も妻も同じように働き、同じくらいの賃金をもらい、二人合わせて何とか暮らしていける、というようなパターンが割と普通になるのかもしれない。 そうすると、これまでは家庭内の男女平等とか男女共同参画とか、どちらかというと頭で(理論的に)男女平等が語られてきたが、社会のあり方がそのようなものになっていくのだとすると、現実に対応する形で物理的に(体で)男女平等的役割分担が求められることになるかもしれない。 社会が大きく変わっていく。特に雇用の問題は、気付いたら大きく変わっていたというのが一般の感覚だろう。 そして今、政治も大きく変わろうとしているかもしれない。つまり大きく変わるかもしれないし、何も変わらないかもしれない。 ただ僕たちの立つべきスタンスは「社会が変わる、政治が変わる」ではありえないだろう。 常に「社会を変える、政治を変える」というスタンスの中で、「どう変えるか」を語っていきたい。 川越保育をよくする会←ホームページはこちら にほんブログ村←こちらもどうぞ
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