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先日、ベビーシッター問題に絡んでファミサポ(ファミリーサポートセンター)について話題にしたところだが、 今日は僕がファミサポに電話をする事態となった。 むろん“事態”というほど大げさなことではないが、 この4月から家人の勤務形態に変更があり、夕方の保育園のお迎えが厳しくなる。 そこでほぼ毎日、お迎えをして1〜2時間ばかり預かってくださる方はいらっしゃらないかという相談である。 去年のちょうど今頃だったか、やはり同じような依頼をかけたことがあった。 時々、お迎えに行けない時があるのでその時に、と思ったのだった。 結局、この時は提供会員(預かってくれる人)は見つからなかった。 うちの周りにはそもそも提供会員があまりいないのだ。 加えて車による送迎はできないルールだったから、 ちょっと遠い人だと、もう現実的ではなくなるのである。 それはそうだろう。雨の日も風の日も遠い道のりを保育園まで歩き、 さらに子どもを連れて交通量の多い時間帯をまた家まで歩かなければならないのだ。 こんな責任の重い苦行を誰が引き受けるだろうか。 今春のファミサポの運用改善で、依頼会員(子育てを支援して欲しい人)と提供会員が合意すれば、 車での送迎も可能となった。 だから、去年よりは可能性が広がったのではないかと期待している。 地域協議会(川越市次世代育成支援対策地域協議会)でもずっと議論してきたファミサポを、 保育園生活の最後に存分に使って、 「こんなに良かったよ」 と発信する側になるのもまた一興かなとも考えている。 ちなみに、こういう送迎も、たまにだったら同じクラスの保護者に頼んで、 一緒に連れて帰っておいてもらうというのもありだ。 実際、ここ数年、何度もこれで切り抜けてきた。 しかし、さすがに毎日となると、どこのお宅にも事情というものがあるし、 当日、急にそこのお子さんが熱を出して休んだりすると、 またほかの人を探しまわらなければならなくなる。 長期的に安定的にお願いするには、やはりファミサポを基本として、 どうしてもその方がダメな時に保護者仲間にお願いする、 ということにしたほうがいい。 あとは提供会員さんが見つかるかどうかだ。 センターの方であたってみて、何日か後に電話してもらうことになっている。 もし見つからなければ・・・ いよいよ僕もネットでベビーシッター探しデビューかな。 |
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ネット上のサイトで紹介されたベビーシッターに子どもを預け、 お子さんが亡くなった事件が世間を賑わしている。 まだ詳細が明らかになっていないものの、現時点で思うことを書いてみたいと思う。 実は何年か前の地域協議会(川越市次世代育成支援対策地域協議会)の作業部会で、 ある委員さんからこの手のサイトについて問題提起されたことがあった。 今回は「ベビーシッター紹介サービス」のような事業者がかんでいるようだが、 そうでなくとも、ネット上の掲示板でも、当事者どうして意思が合致すれば同じことが実現できる。 「今のママたちはネットで子ども預かってくれる人、簡単に探しちゃうのよ。」 そんな問題提起であって、形態までは特定していなかったように思う。 その話題が出たのは、公的な保育・託児制度、とりわけ「ファミリーサポート事業」が、 思った程はうまく機能していないということに付随してのことだった。 硬直で使いづらい「ファミサポ」を使わなくても、いくらでもネットで子どものあずけ先を見つけられる。 「いつ、時給いくらで○時間」 そんな感じで双方が納得すれば子どもを預けてしまう。 その危険性や問題性についてはこだわっている様子はない。 そんなことが問題となった。 何が問題かというと、まずは全くの私的契約であって、なんの公的な規制もないということだ。 個人と個人の意思の合致で成立する契約であり、そこに何らの規制もない。 例えばタクシーですら、運転士は二種免許を取得し、会社も法的なハードルをクリアして営業をしている。 だから、タクシーに乗るということ自体は私的契約であったとしても、 背後には利用者(乗客)保護のための様々な規制が存在している。 今回のケースも、仲介業者なりの自主規制はあったのかもしれないが、 法的には全くのフリーハンドのもとでの契約ということになる。 そうであるとすれば第二に、保育の質を確保することが非常に難しいということになる。 例えば認可保育所であれば、最低限、国家資格である保育士資格を持った保育士が、 子どもの人数に応じた基準の人数だけ必要だし、面積の基準や建物の安全性についての基準がある。 その基準をクリアさせることで最低限の保育の質は確保されることになる。 よく、自由競争のもとでは悪いものは自然と選ばれなくなって淘汰され、良いものだけが残る、 というようなことが言われる。供給過多の市場ではある程度あてはまることかもしれないが、 理屈通りにはいかないことは周りに例が多いし、すくなくとも淘汰され尽くすまでは悪いものが存在する。 待機児童の多い保育・託児市場においては、市場の自浄作用など期待すべくもない。 第三に、ネット上の関係とはお互いが見えづらい関係である。 知らないもの同士がつながるという意味では、出会いの入口としては有用性があるとしても、 子どもを預けるとなると、ネットで出会ったあと、リアルな見極めも必要なのではないだろうか。 すくなくともネットショピング感覚というわけには行かないと思う。 そしてその見極めが必要というのは、第四に子どものすべてが完全にベビーシッターに依存する状態になるからである。 基本的には密室で二人きり(今回は兄弟だったので三人だったが)ということになる。 よく、テレビ番組でアメリカのベビーシッターが密室で子どもを虐待する映像が「驚愕の○×」みたいに流れるが、 まさにあのような状態になっても子どもは逃げることはできないし、第三者が助けることもできない。 そこまでではないとしても、例えば体調不良の兆候を見逃して重篤な状態に陥ったり、 アレルギーについての十分な知識がなかったために悪意なく誤食、なんてことにもなりやすい環境だ。 もっとも、ファミサポなら安心、と声を大にして言うつもりはない。 提供会員(子どもを預かる側)に保育士や幼稚園教諭、看護師などの資格が必要ないことは、 ベビーシッターサイトと変わるところはない。 また、原則として提供会員の家で預かるという建前からは、密室性が排除されているとは言えない。 しかし、一応は行政がなかだちになり、提供会員に研修を施したり、その人が安定した生活状況にあって、 子どもを安全・安心に預かることができるかどうか、緩やかながらハードルを設けている。 そして利用会員(預けたい人)が実際に利用するに先立って、提供会員と実際に会ってもらい、 双方で人となりの確認のようなことを行うプロセスが設けられている。 さらに、ファミサポの真骨頂は対価を得て行う託児サービスの提供ではなく、 「地域の子育てネットワークづくり」を志向しているところにあるというべきだろう。 例えば、 「美容院に行ってきたいんだけど・・・誰か子ども見ててくれないかなあ・・・」 「ああいいよ。それくらいの時間なら見ててあげるよ。行っといで。」 という関係が地域で成り立つなら何も問題はないわけだ。 しかし地域社会が半ば崩壊している現状では、なかなかそういうふうにはなり難い。 そこで利用登録と利用料の支払い、提供会員への研修等、多少公的な色彩を付与して、 子育ての面だけでも地域のネットワークを再構築していこうというのがファミサポの目指すところだろう。 何度もあずけているうちにどんどん気心が知れてきて人間関係が出来ていく、 というのが望ましいファミサポのあり方であるように思う。 ちなみに、であるが、ファミサポの提供会員に保育士資格などを要求するのは現実的ではないように思う。 そうするとハードルが一気に高くなってしまうし、そもそも資格を持った人がたくさんいるわけではない。 しかも本来の目的が「子育てを手伝ってくれる地域のおじさん・おばさんづくり」にあるのだから。 保育の問題は簡単ではない。 「子守くらい誰でもできる。昔のお母さんは一人で十人も育てたものだ」式の、 無知蒙昧な保育観が未だにまかり通っていたりする。 あるいは「民でできることは民で」のかけ声のもと、十分な保育の質確保の方策を講じないで 公立保育園を民営化し、保育の体をなさない状態になったりということも現実に起こっている。 だが、そう簡単ではないからこそ僕もうるさく発言している。 これを機に、「保育・子育て新システム」の当否も含め、子育て支援制度のあり方について、 大きな議論が沸き起こるといいと思う。 さて、ここからは愚痴だ。 川越市のファミリーサポート事業に関してはこの春、ちょっとした改革が行われた。 (それについてはまた改めて) それに先立って昨年の秋頃、利用経験者へのアンケート調査なども行われた。 きっかけとなったのは利用者や提供会員からの声(議会にのぼったものも含め)もあったのだろうが、 地域協議会でずっと議題にして改善を要望してきたことも大いに関係していると自負している。 僕はこの地域協議会に「保育園利用保護者代表」として、よくする会(保育をよくする会)の推薦で 委員として9年間関わってきた。 「保育をよくする会は何をしている団体かよくわからない」という批判が時々挙げられるが、 地域協議会においても、保育園利用者のみならず、川越の子どもたちや親たち全体のために仕事をしてる。 そしてその活動については、ニュースやホームページ、このブログなどを通じて報告している。 つまり、知ろうと思えば簡単に知り得る状態には置いている。 (こういう批判をする人に限ってニュースやブログなど読まないのかもしれない) 今一度、よくする会の存在意義について再認識してもらいたいところだ。 |
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昨日は自由の森中学校の学習発表会に行った。 それに関連して少々困ったことが起こった。 自由の森に行くにはうちを7:15頃には出て駅まで歩き、 電車に乗り狭山市へ、そこからスクールバスが出る。 他方、うちの小学生たちは7:25に家を出る。 7:35頃、駅で切符を買っていたら次女から電話がかかってきた。 三女が学校に行かないとダダをこねているという。 ・・・って、とっくに集団登校の時間を過ぎているではないか…。 結果的には近所のお母さんが説得して、通学班のところまで送り届けてくれたらしい。 で、今朝、登校班を見送った近所のお母さんが二人訪ねてきて昨日の話になった。 ご心配していただくのはありがたいし、ご迷惑をおかけしたのは申し訳ないが、 一人の方が「今後このようなことがあると困る」という。 はたしてそうだろうか。 そりゃあ、こんなことはないに越したことはないし、 僕たちとしても全くの想定外だった。 想像するに、僕と家人が四女だけ保育園を休ませて連れて出たのが気に入らなかったのだろう。 僕たちが家にいる間にダダをこねてくれればよかったが、 家を出たあと、いいやすい次女にわがままを言ったものと思われる。 親としては日頃ガマンさせている分、機会があれば一緒に時間を過ごしたり、 日頃と違う経験をさせたりと考え、それなりに平等にやっているつもりではいる。 しかし、子どもにとっては今その時が全てだ。 親にとっては「この前はAちゃんだったから今度はBちゃん」でよくても、 三女にとっては「妹は連れて行ってもらえるのに自分は連れて行ってもらえない」ということだ。 いずれにしてもこのリアクションは想定外だった。 が、こういう形で出かけることなど、そうそうあることではないし、 仮に次にあるとすれば、小学生を送り出したあとに 狭山市まで車で行き、そこでバスに乗り換えるというような方法を取るしかないだろう。 話を戻そう。 僕は「今後こういうことがあっては困る」と目を三角にして問題を俎上に載せるような事柄ではないと思っている。 子どもの成長の一過程として、たまたま昨日はそうだった。 でも気分次第ではケロっとして家を出ることもある。 あるいはもう少し大きくなれば、頼んでも親とは出かけなくなったりもするのだ。 親の手の届かないところを近所の大人がサポートしてくれた。 「きのう、こんなことがあったよ。」 「ああ、それはごめんね。ありがとう。」 それで良いではないか。 いちいち、子どもや親の一挙手一投足をとりあげて問題視する。 これまでも登下校については何かにつけてこういうことがあった。 窮屈で仕方がない。 子どもは大人の思うようにはならないものだ。 イタズラもすれば喧嘩もする。挨拶をするとは限らない。 そういうことを踏まえて、地域の大人がゆるやかに子どもたちを見守る。 足りないところは助け合う。 それでいいのではないか。 子どもを育てやすい地域にするためにも、 育成会や子ども会の形式的な役割分担から脱して、 本当の絆づくりをやっていかなければならない、とは思う。 しかし、人の意識というのはそうそう変わるものではない。 古くから出来上がっている地域においてはなおさらだ。 どうせ子どものことで労を取らなければならないのだとしたら、 もう少し建設的なところで骨を折りたい。 そういう観点からも、次女も三女も四女も、 親の希望としては自由の森に進学してもらいたいというのが偽らざる本音だ。 |
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コミュニティのなかで人は暮らし、 コミュニティの中で人は育つ。 どんなコミュニティに属するかで、 極端な話、人の人生が決まる。 今日は自由の森学園中学校の学習発表会だった。 この企画は一年間の学習を、発信者と受信者とで共有する場として設けられたものらしい。 一年間学んだ成果を何らかの形で発表する、それを受け取る側も、学び考える、 そのために何をすればいいかと、生徒が主体となって実行委員会を作り準備する。 発信者とは中学1年生から3年生までの生徒たち、 受信者も同じく1年から3年までの生徒たち、 それに高校生や保護者も参加できる。 自由の森では年間を通して様々な作品発表、学習発表の場があるが、 この一年、あまり参加できなかったこともあり、最後に参加してきたのだ。 長女の属する中学1年生は午前中に英語劇で『不思議の国のアリス』、 午後に体育の発表としてぶち合わせ太鼓、 それに学習展示として「森の時間」や各教科の学習の成果やレポートなどが展示されていた。 当然のことながら、学年が上がれば上がるほど内容も高度になり、 思索的でチャレンジングな発表がなされる。 僕が面白いなあと思ったのは2年2組の日本語(自由の森では国語のことをこう称する)の授業だ。 『素顔同盟』という短編小説を読み、その小説の「その後」を生徒それぞれが創作する。 今日の発表では、その創作の中から「これは」というものを生徒たちが選び、 それを映画のようにビデオを作り見せるというものだった。 この小説は皆が仮面をかぶって表面上平和に暮らしている社会の中で、 それに疑問を持つ若者が偶然、川のほとりで仮面を脱いで泣いている少女に遭遇する。 そのときは声をかけることができず、「もしかしたら自分と共感できるのでは」と再会を待ち望む。 しかし若者は再会を果たせない中、 川の上流に仮面を脱いで暮らしている「素顔同盟」という集団が存在するとの噂を耳にする。 そしてある日、川に流れ着いた仮面を見て、川の上流に向かって歩き出す、 というところで小説は終わるらしい。 さあ、この先、生徒たちはどんな創作を行ったか。 上映後、授業の時に多かったパターンが4通り紹介された。 しかし、ビデオになったのはその4つとは全く違う、独創的なスジのものだった。 どうしてそれを選んだのか、そんなことも紹介された。 同じく2年2組の技術の授業も面白かった。 グループに分かれて「ペーパーブリッジ」(紙の橋)を作り、 それに重りを乗っけて耐えられる重さで勝敗を競う。 ペーパーブリッジはA4の紙15枚とスティックのりだけでつくる。 隙間なくきっちり15枚を巻いていけばいいのか、 きっちり巻いたロールを15個合わせればいいのか、 それともダンボールのように細かくジャバラに折りたたむのがいいのか、 それぞれ推論し試作し検証し、ということを行ったのだろう。 勝ったチームは28キロまで耐えられたということだった。 そのほか展示を見ると、炭を作る実験あり、豚足(豚の足の関節)を組み立てる授業あり、 林業では木を切って皮を剥ぎ、表面に焼きを入れて敷地内の階段(木道)を作った発表あり、 とにかく、とことん頭を使い、体を使い、自分で考えみんなで話し合い、力を合わせ、 本当に生きるために役に立つ学びがなされていることがよくわかった。 こういう方法には僕は大賛成だ。 実生活を離れて学問はありえない。 毎日、勉強勉強の学生時代であるからこそ、実体験に即した学びを、と思う。 またもう一つ、特に強く感じたのは、生徒たちの自主性もさる事ながら、 教員の生徒たちと向き合う本気度が半端ではないということだ。 考えてみれば、「どうしたら生徒たちが関心を持ってくれるか?」に注力し、 もしそれに成功したら、今度は生徒それぞれが次から次へと興味を持って臨んでくるわけだ。 それに応えながら次へ、次へと導いていくのは並大抵のことではないはずだ。 「教師冥利」という言葉があるとすれば、まさにこれだろうと思う。 このブログを読んでくださっている読者の中には、 自由の森学園に関心を持っていらっしゃる方も少なからずおられると自覚している。 せっかく自分の子を自由の森に通わせているのだから、 いいことも悪いことも含めて、どんどん伝えていければ、とは思っているが、 なにしろ忙しく毎日を過ごしているもので、 なかなか自由の森に足が向かなかったというのが正直なところだ。 まあ、来年度はもう少し突っ込んで関わってみようかな、とも思っている。 お子さんの進学先の選択肢の一つに自由の森を考えていらっしゃる方には「乞うご期待」 ということにしておこう。 |
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今日は大変無理をして確定申告を済ませた。 そもそも、労働というのは対価を得、あるいは幾許かの喜びを得、 それなりにやりがいのあるものである。 しかし、確定申告というのは、そういう価値を生み出さないものゆえ、 それどころか納税への階段を自分で架けるような作業であるため、 なかなか気乗りがしない。 加えて、税務署に申告に行くのも時間的な余裕が多少必要なのである。 そういう意味で「大変無理をして」申告を済ませたのだ。 「税金の計算」の欄に見慣れない文字を見つけた。 「復興特別所得税額」 ああ、あれだな。政府が、公明党までもが一緒になって、 早々に企業の課税は打ち切ったやつだ。 今日は3月11日だが、なかなか、復興のために日頃出来ることがない。 せめてこれくらいはしなきゃ。 ただし、「復興」に名を借りた我田引水の無駄遣いはやめてほしいな。 ところで、今日は式典が行われたようで、 僕はラジオで聴きながら笑ってしまった。 天皇陛下の身にしみるお言葉とは裏腹に、安倍首相の言辞だ。 「被災者が復興を実感できる1年にしたい」 口では何とでも言えるのだ。 実際、この間何をやってきたのか。 血道を上げてきたのは秘密保護法、原発再稼働、教育委員会「改革」、 憲法解釈変更による集団的自衛権の行使…。 例えばだ。東京オリンピック開催が決まって、 資材の高騰、労賃の高騰などで被災地では新規工事の入札さえままならないというではないか。 このままではこれがあと6年くらい続くかも知れないのだ。 開催決定の時も「オリンピックで東北を励ます」みたいなことが言われたが、 励ますどころか、復興の邪魔になっているのではないか。 まず、こういうことこそ、政府は本気で取り組むべきではないか。 国民も、日頃自分の生活に追われて東北のことを忘れてしまっているのは致し方ないと思うが、 首相が何を言い、何をしようとしているか、何をしていないのか、 しっかり認識していこうではないか。 |





