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法華の慢
質問
 
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《曼》màn
(1) 優美な
曼舞優雅に踊る.
(2) 引き伸ばした,長い.
 
知恵袋
Q創価学会はよく「法華の慢は許される」と言いますが、その根拠になっている文証は何でしょうか?
A「現に勝(すぐ)れたるを勝れたりという事は慢ににて大功徳なりけるか」
(撰時抄,『日蓮大聖人御書全集』創価学会,p.289)
 
「法華の慢」はゆるされる!
「自信と増上慢の相違について、教えてください」との質問の声が上がった。
 世間は、悩める人を救い、行き詰まった社会を変革する学会員の偉大な献身を、冷ややかに見下していた。身の程知らずと中傷するものまでいた。
 それゆえ池田会長の声は、無認識な思い込みを打ち破る気迫に満ちていた。
 「『法華の慢』は許されるのです!大聖人が仰せです!」
 参加者の背筋がピンと伸びた。
 「御本尊を根本とした確信は、これはどんなに確信を持って言い切っても、『増上慢』ではないのです!
 したがって、御本尊に任せ、御所に任せて、広宣流布のために戦っていく自信、確信は、絶対に必要なのです!」
 ”自信満々と創価を語れ!”。会長はそう訴えたのだ。
 「増上慢とは、我見や、『未だ得ざるをこれ得たり』と思う慢心をいうのです。
 つまり、あくまでも御本尊を根本にして考えるかによって違ってくるのです」
 続けて、幹部自身が増上慢に陥らないよう釘を刺した。
 「ですから、”少しでも仏法を知る人に教わっていこう””先輩に付いて信心を進めていこう”という謙虚な心があれば、増上慢ではなくなっていきます」
 
 
喜び身に余るが故に堪(た)えくして自讃するなり(334頁)
 
これ、慢に似て慢にあらず。法華の慢と申すなり。
 
 
 
されば現に勝れたるを勝れたりという事は慢ににて大功徳なりけるか、伝教大師云く「天台法華宗の諸宗に勝れたるは所依の経に拠るが故に自讃毀他(じさんきた)ならず」等云云(289頁)
 
されば、「自讃」とは大確信の対話のこと。抑え切れない歓喜が、じっとしていることを許さない。人を納得させるためには理論が重きを為す。そして、人々に共を呼び起こすのは歓喜の波動だ。我等の対話が、社会の改革に直結していることをえば、少々の悪口もまた楽し。
 
 
 
「慢」とは不幸の根本原因である五毒(貪・瞋・癡・慢・疑)の一つ。他人と比較する中でしか、自分の価値を見出せない生命のこと。「自分の方が上だ」という勝他のに突き動かされている境涯である。
 続いて、慢ランキングを(笑)。
 1位 祈ってない。
 2位 動いてない。(個人折伏、家庭指導)
 3位 勉強してない。
 4位 指導を受けない。
 5位 人の見を聞かない、求めない。
 
 我々はともすると、語気の強さや、分不相応な話をにして、「増上慢め」などとじることが多い。しかし、法華経方便品で「上慢」と言われた5000人のメンバーは、会合の途中で帰ってしまった人々のことである。これは、折伏されても学会員の話にを傾けない人や、指導されても頑(かたく)なにを閉ざす人といえよう。
 
 
 

開く トラックバック(3)

回答への下書き(3)

そこでtoo_fast_to_livetoo_young_toさんのご質問にあった三毒を読み返してみたいと思います。
 
>煩悩(ぼんのう)とは仏教の教義の一つで、身心を乱し悩ませ智慧を妨げる心の働きを言います。
おお、良いこと書いてありますね。これは問題解決にヒントになりそうです。
 
心身を悩ませ知恵を妨げるうんぬん・・・・
 
この知恵なんですけど、これはどういう知恵なんでしょう。
たぶんここでは男女関係を上手に作っていく知恵ということでいいだと思いますけど、この上手に作る知恵ってどういうもの、このなかに三毒に陥らないなんらかの知恵を持つ必要がありそうです。
 
仏教説話のなかに冬山に住むハリネズミの夫婦の話がありました。ハリネズミというのは体一面に針をもっているので、寒いからと言って近づきすぎるとお互いの針で刺しあいをして血まみれになり、かといって遠ざかりすぎると寒くて凍えしんでしまう。だからつかづ離れずの関係で上手に距離感を保つのが大事だというようなのがありました。これをすこし使ってみます。
 
依存心を持つ、という場合でもどこまで依存心に甘えて良いのか、その距離感をどんなふうにとるべきか、ということなのかな。甘えるにしても相手を押し倒すくらい甘えてしまうとこれはながつづきしません。相手が自分に甘えてくれるのを心地よいくらいに感じられるくらいの距離感、それがわかると長続きして、いつまでもラブラブでいられますね。
 
じゃその距離感をもっと具体的にどうすればとっていけるのか、なにか良いアイデアはないのか、ですけど、じゃもういちど仏教にそれを求めてみます。
 
とりあえず眠いので寝てつづきはあしたにでも・・・・
 

回答への下書き(2)

基本的に男女関係というのは、それが夫婦であれ恋人同士であれ、親子であれ、長続きさせようとおもえば、自然体でいくしかないと私は思います。不自然に自分を取り繕うと思っても、自分も相手もへとへとに疲れてしまうから。
なにかがあって片方が地獄のような苦しみにあえいでいるとします。そのとき、もう片方は本人の身代わりになって苦しんであげることはできないわけで、そのときは同苦するということが一つの癒しになるのですが、何をどう苦しんでいるのかわからない場合も結構あります。そんなとき、苦しんでいる側からすると、何も言わないでもいいから一緒にいて欲しい、と思うことってあって、ちかくにだまっていてくれるだけで癒されるということがあります。
男女関係と言うのはなにがあってもいつも一緒にいてくれるというところから出発していくものじゃないのかな。そのへこんだときに、すこしやさしくしてもらうとか、できないことを少しだけ手伝ってもらうとか、もっと嬉しいことは、苦しいけれど頑張ってることをほめてもらえること、自分のことをわかってくれてるっておもう瞬間ですね。そうすると、苦しいけれど、もうすこし頑張ってみようかなとかおもったりするものです。
だからやはりどんなときでも自然体でいるというのは大切なことじゃないかなと思うのだけれど。
でも、それが相手にとって負担になる場合があることもあります。too_fast_to_livetoo_young_toさんが心配するように、相手が重荷に感じてきて耐え切れなくなったなら、それで関係が切れてしまうということはあると思います。だから何があっても自分の気持ちを押し隠して平気な顔をして接していては、これは辛いはず。ではどうするのか。どうすればよいのだろうか?
 
 
 
 

回答への下書き(1)

昔、三谷由利恵さんと言う人がいて、其の女性は、郷ひろみさんのお嫁さんでした。
この人が郷ひろみさんから「愛される理由」という本を書いて出版して一時期話題になったことがありました。
愛される理由?なんともまあ、へんなタイトルだなあ、と我ながら思ったのですが、男と女では愛と言う場合、女は愛されることに、男は愛することに、その理由を求めるようにできているのかもしれない、と思ったものです。しかし女性がいつも男性から愛されることばかり望んでいるのではなく、愛しているから愛されたい、つまり愛されたいというのは愛されていなければい愛し続けていけないからというのがその裏側にあるのでしょう。でも、それは男とて同じで、相手から愛されていないと気づいたら、一方的に愛しぬくことなどできない相談です。
 
しかしながら、愛される理由をなぜ求めるのか。なぜ愛する理由ではないのか。
too_fast_to_livetoo_young_toさんの質問を見て、はたと思い当たる節がありました。それは女性の心理が男性よりも依存度が高いために、相手からの愛情を敏感に感じそれに反応してしまいやすいということがあるからなのかもしれない。と思いました。
そういう自分自身への不安定さに気づいているがゆえに、愛されているという理由を求めようとするのかも。また不安定になるとどうなるのか、質問にあるように
>煩悩の根源(人間の諸悪の根源)は貪欲(とんよく[1])・瞋恚(しんに・しんい)・愚痴(ぐち)です。
とあるように、このあたりの意識がむっくりおきてしまう。
sだからこそ、そうなったとしてもそういう意識がおきたとしても自然体であることが人間として幸せなのかとなる。
彼女の男性側は、それでも良いよ、と言ってくれる、でも本人はそうは言ってくれても、そんなのはイヤだ、なんとかならないのか、ということで、この悪い命が出たときに、それから脱出して自由になれるとはどういうことか、心を強く律することとはどういうことか、という疑問が生まれる。
 
現実問題として、なかなかそういうようになることはできない、だとすると、相手の男性におんぶに抱っこで、自分のありのままを受け入れてもらうしかないわけですけど、そういう自分のこころをコントロールできない自分を受け入れてもらうようになると、相手への依存度はより高くなってしまう。
もし、相手に依存し続けて、其の果てに相手から見放されたとしたらどうなるのか。それを考えることはそれ以上の恐怖以外のなにものでもない、失うことへの恐怖を持ちながらも、ありのままの自分を受け入れてくれる人がいるというのは本当に幸福なことといえるのだろうか?
 
なんですね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ぴょん吉さんこんにちは、リクエストありがとうございます。

今回のご質問、何回か考えながら、加筆訂正しながら書いていきますので、よろしくです。書いては消してしながらできる限り納得のいくように回答していきたいと思います。

>『あるがまま』を受け入れる・・・自然体であるということは人間として幸せなのか?
>誰しもが持つ人間の根源的な三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)を心から自由に解き放って生きられることと、これらを強く律することの出来る違いは何か?
は、自分自身にたいしてのことですね。

それと次の、
あるがままの自分を受け入れてくれる人がいることは幸せであると同時に相手への依存につがなり、依存度が大きいほど失う怖さが増すことになる。その結果、相手の何気ない態度にも不安を感じてしまう。なのにあるがままの自分を受け入れてくれる人が要るという事は、幸せなことなのでしょうか?
は相手へ求めたいことですね。

自分と相手がいる場合、わがままな自分をどうするか、そして、相手にそんな自分を受け入れてもらえることからくる不安ですね。



とりあえず質問のポイントを絞り込んで、これでしばらく考えてみますね。しばらくお待ちください。
改めて書きますね。

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