ペパー軍曹のマジカル・ミステリー・ツアー

The Magical Mystery Tour is waiting to take you away!

巨人

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デビューの日

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長嶋茂雄

昭和11年(1936年)2月20日生まれ。
現在、株式会社読売巨人軍専務取締役・読売ジャイアンツ終身名誉監督。


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立教大学で東京六大学記録の8本塁打。
昭和33年(1958年)巨人に入団。


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本塁打、打点の二冠で新人王。
チャンスに強い打撃,ダイナミックな守備で『ミスター・ジャイアンツ』と呼ばれ、
王貞治さん(現 福岡ソフトバンクホークス球団取締役会長)とともに巨人9連覇に貢献。


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昭和49年(1974年)に現役を引退。

首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回。
通算2471安打、3割5厘、444本塁打、1522打点。


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引退後は監督として同球団を5回のリーグ優勝、2回の日本一に導きました。


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昭和63年(1988年)野球殿堂入り。
平成17年(2005年)文化功労者。
平成25年(2013年)国民栄誉賞。


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昭和33年(1958年)4月5日、
読売巨人軍の長嶋茂雄さんが開幕戦に先発出場し、
公式戦デビュー。

国鉄スワローズ(現 東京ヤクルトスワローズ)のエース・金田正一投手を相手に
4打席連続三振を喫しました。




【伝説の名勝負】ルーキー長嶋vs金田【四連続 三振】


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昭和33年(1958年)のこの日に長嶋茂雄さんがデビューしたことから、
その年デビューした新人にエールを送る日として、
『デビューの日』に制定されています。

国民栄誉賞の日

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国民栄誉賞は、日本の内閣総理大臣表彰のひとつ。


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今年2月に元横綱(第48代)大鵬の故納谷幸喜さん(享年72)が授与されました。


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4月16日、プロ野球元巨人監督の長嶋茂雄さん、
巨人や米大リーグのヤンキースで活躍し、
昨年末に引退を表明した松井秀喜さんの両氏に、
政府は国民栄誉賞を授与することを正式に決めました。


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国民栄誉賞の贈呈・表彰式は内閣総理大臣官邸で開催されるのですが、
5月5日に実施された長嶋茂雄さん・松井秀喜さんへの贈呈は、
特例として東京ドームで実施されました。




長嶋茂雄&松井秀喜W国民栄誉賞! 始球式


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国民栄誉賞は昭和52年(1977年)、当時の福田赳夫内閣総理大臣が、
本塁打世界記録を達成した王貞治さんを称えるために創設されました。




王貞治(巨人)756号世界新記録

昭和52年(1977年)9月3日、後楽園球場でのヤクルト戦、
3回裏無走者で迎えた第2打席、フルカウントからの6球目、
ヤクルト先発・鈴木康二朗投手のストレートを完璧にとらえた打球は、
満員の観衆で埋め尽くされたライトスタンドへ!
メジャー記録を持つハンク・アーロン氏の755本塁打を抜きました。


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翌年には前人未到の800号を記録し、
昭和55年(1980年)に通算868本塁打という不滅の記録を打ち立てて現役を引退しました。
現在、福岡ソフトバンクホークス球団取締役会長。


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昭和52年(1977年)9月5日、
本塁打世界最高記録を作った王さんが日本初の国民栄誉賞を受賞しました。
今日は国民栄誉賞の日です。

巨人 日本一!

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プロ野球の2012年度日本シリーズ、
読売巨人軍対北海道日本ハムファイターズは3日、
東京ドームで行われ、
巨人が4−3で日本ハムを破り、
3年ぶり22度目の日本一を決めました\(^^)/


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栗山英樹監督は就任1年目で、
新人監督としては2008年の西武・渡辺久信監督以来17人目のリーグ優勝。
コーチ経験もないままチームを率い、
日本シリーズ進出に導いた栗山新監督の手腕は見事でした。


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11月1日、日本ハム対巨人の日本シリーズ第5戦(札幌ドーム)、
日本一を争う大舞台で、あってはならない大誤審が起きてしまいました。

巨人が5-2で3点リードの4回表、
無死一塁で打者の巨人・加藤健捕手がバントの構えをしていたところ、
日本ハム・多田野数人投手が投げた球はインコース高めの胸元付近に・・・。




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この試合はテレビ朝日系列で全国生中継され、
このシーンのスロー映像が何度も流されましたが、
多田野投手の投球は加藤選手の体どころか、
バットにも当たっておらず、単なるボール・・・。
解説を務めていた元ヤクルト監督・古田敦也氏は『誤審』と明言しました。

危険球に関しては、アグリーメント第39条で、『投手の投球が打者の顔面 、頭部、ヘルメット等に直接当たり、
審判員がその投球を危険球と判断したとき、その投手は試合から除かれる。
頭部に直接当たった場合でも、審判員がその投球を危険球とまではいえないと判断したときは、
警告を発し、その後どの投手であろうと再び頭部に当たる投球を行ったときは退場とする。
危険球とは、打者の選手生命に影響を与える、と審判員が判断したものをいう』
と規定されています。


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日本ハム・栗山監督は猛抗議。
『バントに行っているよね? バントに行けば、(体に当たって)空振りしてもストライク』
を主張したが、判定は覆らず・・・。

現行ルールでは、ビデオ判定を用いるのは本塁打性の打球のみ。
審判の信頼性、権威を守ることも大事であるのですが・・・
懸命にプレーしている選手のためにも
ビデオ判定の範囲を広げることが必要ではないでしょうか。
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沢村栄治

昭和9年、読売新聞社主催による日米野球の全日本チームに参戦。
11月20日、静岡県草薙球場で開催されたアメリカメジャーリーグ選抜軍とのシリーズ9戦目(最終戦)に登板。
当時、日本の野球とアメリカの野球との実力には大きな開きがありましたが、
沢村投手は、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグという名立たる強打者を相手に
4者連続三振にしとめるなど、9奪三振の快投で一躍勇名を響かせました。

最高殊勲選手1回、勝率1位投手1回、最多勝2回、
史上初のノーヒットノーランを含む3度のノーヒットノーランを達成。


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巨人軍のエースとしてプロ野球草創期を支えた沢村投手は、
戦争で3度召集されました。
戦場で重い手榴弾を投げたことなどから肩を痛めましたが、
最初に帰還した時は、コントロールと変化球主体の巧みなピッチングで
ノーヒットノーランを達成しました。
しかし2度目に戦地から戻った後は活躍できず、
最後は代打での出場でした。
昭和18年10月24日、巨人対阪神戦、
沢村栄治選手の野球選手としての最後の記録・・・
延長11回、3塁ファール・フライ。

昭和19年12月2日、台湾沖で戦死。享年27歳。
背番号14は永久欠番となっています。
剛球投手のイメージを確立した功労者であり、その名前は今も『沢村賞』として残っています。


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ペパー軍曹のマジカル・ミステリー・ツアーは・・・ 東京都文京区後楽一丁目の 東京ドームにやってきました。


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愛称はBIG EGG(ビッグエッグ)。
読売ジャイアンツ(巨人)の専用球場(本拠地球場)です。


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20ゲート付近・・・


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階段下に『鎮魂の碑』があります。


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『鎮魂の碑』と刻まれた石碑は、戦争に散華した選手の霊を慰めるために建立されたものです。

プロ野球創設時から、大東京の代表、あるいはリーグの指導者として、その目で選手を送り、
また、戦死の悲報を受け止めた、セントラル・リーグ鈴木龍二会長(当時)の悲願が、
下田コミッショナー(当時)をはじめ、有志各位の協力を得て、
昭和56年4月に旧後楽園球場脇に建立されました。
昭和63年3月に東京ドームの完成にともない現在の場所に移設されました。


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鎮魂の碑

日本野球組織コミッショナー 下田武三


戦没者名簿一覧

太田健一     平林栄治     後藤 正
大原俊夫     福士 勇     沢村栄治
岡田福吉     前川正義     三田政夫
岡田宗芳     八木 進     島本義文
小川年安     吉原正喜     白木一ニ
小野寺 洋    渡辺 静     新富卯三郎
織辺由三     青木 勤     杉山東洋生
景浦 将     伏見五郎     高野百介
加藤信夫     青柴憲一     田部武雄
北原 登     天川清三郎    辻源兵衛
鬼頭数雄     荒木政公     寺内一隆
国久松一     池田久之     前田喜代士
永井武雄     石井 豊     政野岩夫
中尾 長     石丸進一     増田 敏
中河美芳     伊藤健太郎    松下繁ニ
中村三郎     伊東甚吉     宮口善吉
中村政美     戒能 朶一    三輪八郎
納家米吉     上田 正     松本利一
西村幸生     川村徳久     村上重夫
野口 昇     遠藤忠二郎    村瀬一三
林 安夫     倉 信雄     村松長太郎
原 一朗     桑島 甫     村松幸雄
広瀬習一     森田 実     森田五郎


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追憶

 弟進一は名古屋軍の投手。昭和18年20勝し、東西対抗にも選ばれた。
召集は12月1日佐世保海兵団。19年航空少尉。神風特攻隊、鹿屋神雷隊に配属された。
 20年5月11日正午出撃命令を受けた進一は、白球とグラブを手に戦友と投球
  よし ストライク10本 
 そこでボールとグラブと“敢闘”と書いた鉢巻を友の手に託して機上の人となった。
 愛機はそのまま南に敵艦を求めて飛び去った。
  野球がやれたことは幸福であった。
  志と夢を貫いた一歩であった。
  24歳で死んでも悔いはない。
ボールと共に投げられた遺書にはそうあった。
 真っ白いボールでキャッチボールをしている時、進一の的の中には生もなく死もなかった。

遺族代表 石丸藤吉


第2次世界大戦に出陣し、プロ野球の未来に永遠の夢を託しつつ、
戦塵に散華した選手諸君の霊を慰めるためわれら有志あいはかりてこれを建つ

有志代表 鈴木龍二


この碑の建設にあたり協力したる有志の人々( 昭和56年4月)
  池田恒雄
  石丸藤吉
  下田武三
  鈴木龍二
  角屋久次
  保坂 誠


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昭和12年(1937年)7月7日蘆溝橋事件に端を発して、次第に拡大していった日中戦争、
それに続く太平洋戦争に於て、プロ野球は多くの選手を失いました。
苦難の道を歩んだ初期、プロ野球に多くのファンを引きつけた一代の名投手沢村栄治、
熱血を以て知られる吉原正喜、巨人・阪神の州崎の決戦に快腕をふるった景浦将など、
プロ野球の礎を築いた名選手の多くが、戦場におもむいたまま、ついに還らなかったのです。

日本プロ野球の草創期にその青春を燃やし、運命に翻弄された若者たち。
毎年、8月15日の終戦記念日頃になると、碑の前には季節を飾る花々が献花されます。
けっして忘れてはならない日本プロ野球史の物語がこの街の一角にはあるのです。



読売巨人軍草創期の投手や内外野手として活躍、
そして名投手、沢村栄治とプレーした
最高齢OB前川八郎さんが
16日、急性呼吸不全のため亡くなられました。


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2009年7月7日、
東京ドームで行われた『復刻ユニホームシリーズ』では、
現役時代と同じ18番の背番号をつけたユニホーム姿でマウンドに上がり、
始球式の投手を務めました。

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1936年に巨人に入団。
同年、分福球場(通称、茂林寺球場)の
『茂林寺の猛練習』を経験、
12月に『洲崎の決戦』で阪神を制して
初代日本一に貢献しました。

38年まで在籍し、
後に巨人のエースナンバーとなる背番号18を
ヴィクトル・スタルヒンに次ぐ2代目として着け
打者としても5代目の4番打者に座りました。

終戦後の46年に阪急で現役復帰し、
通算成績は21勝23敗、
防御率3.34、
391打数94安打、
打率2割4分。


☆参考☆

ペパー軍曹のマジカル・ミステリー・ツアー

茂林寺の猛練習の舞台
イメージ 4 不屈のG魂誕生の地 分福球場




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