ペパー軍曹のマジカル・ミステリー・ツアー

The Magical Mystery Tour is waiting to take you away!

巨人

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2月1日、プロ野球の12球団が一斉にキャンプインしました。


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昨年、7年振りに日本一に輝いた巨人は、
宮崎県宮崎市でセリーグ4連覇と日本シリーズの連覇に向けて
始動しました。


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ペパー軍曹のマジカル・ミステリー・ツアーは・・・
群馬県館林市の東武鉄道伊勢崎線・館林駅にやってきました。


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昨年の12月6日、
読売巨人軍史に残る1936年の『茂林寺の猛練習』の舞台、
分福球場(通称、茂林寺球場)があった群馬県館林市の東武鉄道・館林駅前で
記念碑が除幕されました。

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碑は高さ180センチメートル、幅80センチメートルの御影石製で
上部にバットとボールがかたどられています。
御影石には、『不屈のG魂誕生の地』。


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群馬県館林市の東武鉄道伊勢崎線・茂林寺駅にやってきました。


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茂林寺前駅近くにある広大なグラウンドが
『分福総合グラウンド』です。


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関東学園が所有する以前は、分福球場として、
プロ野球の巨人軍が練習用グラウンドとして活用していました。


1936年(昭和11年)、プロ野球チームとして初の満州遠征で
2勝4敗と阪神タイガースに敗れるとともに
同年、日本職業野球連盟結成記念大会でも2勝5敗と
新興球団に黒星を重ねました。
これは選手に芽生えた慢心が敗因と言われ、
そんな選手を鍛え直そうと9月5日〜12日までの8日間、
ここ分福球場で死の猛特訓、いわゆる『暁の千本ノック』を行い、
当時の名選手たちは練習に励みました。


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沢村栄治

ジャイアンツ初代エースというだけでなく、
草創期プロ野球を代表するスーパースターでした。
京都商業を中退し、全米オールスターチームを迎え撃つ全日本チームに合流。
昭和9年、静岡・草薙球場でのゲームで0−1で敗れたものの、
9奪三振の快投で一躍勇名を響かせました。
脚を高く蹴り上げる独特のフォームから繰り出す快速球と大きく落ちるカーブを武器に、
最高殊勲選手1回、勝率1位投手1回、最多勝2回、
史上初のノーヒットノーランを含む3度のノーヒットノーランを達成。
昭和19年12月2日、台湾沖で戦死。享年27歳。
背番号14は永久欠番となっています。
剛球投手のイメージを確立した功労者であり、その名前は今も『沢村賞』として残っています。


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中島治康

1936年のリーグ戦開始時から巨人でプレーし、強打・強肩の外野手として活躍。
1938年秋季には打率.361、本塁打10本、打点38で史上初の三冠王となりました。
当時三冠王という概念はなく、戦後になって初めて認定されました。


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ビクトル・スタルヒン

ロシア生まれ。
旭川中学を経て、1934年、全日本軍のメンバーに選ばれ、そのまま巨人に入団。
巨人第1期黄金時代の大エースであると同時に、
当時の日本人選手の中にあっては
『雲突くような』1メートル91センチの長身から投げ下ろす速球を武器に、
投手記録の多くの分野で『第1号』を達成しました。
戦前は巨人で5シーズン連続最多勝、ノーヒットノーランを達成。
特に38年のシーズン42勝は、現在もシーズン最多記録として残っています。
戦後は、パシフィック、太陽、金星、大映、高橋、トンボと球団を渡り歩き、
1949年には27勝で再び最多勝のタイトルを獲得。
100勝、1000奪三振、300勝はいずれもプロ野球初。
旭川市民にとってスタルヒンは伝説的な英雄であり、その功績を称え、
1984年に改修工事が完成した旭川市営球場(現旭川市花咲スポーツ公園硬式野球場)には
愛称『スタルヒン球場』が命名されました。
球場正面にはスタルヒンの銅像が建立しています。


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国土地理院による航空写真(1947年)

当時の建造物は一切残っていませんが、
この地で、徹底的に選手を鍛え直し、
プロ野球での初V(初優勝)の原点にとなった球場として
語りつがれています。



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読売ジャイアンツ
58勝32敗8分 首位(8月12日現在)


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阪神タイガース
40勝52敗4分 4位(8月12日現在)


読売ジャイアンツと阪神タイガースといえば、永遠のライバル。
両チームの対決は『伝統の一戦』と呼ばれ、常にファンを熱く燃え上がらせ、数々の名勝負を繰り広げてきました。


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ペパー軍曹のマジカル・ミステリー・ツアーは・・・
東京都江東区、オルガノ株式会社にやってきました。


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ここには、かつてプロ野球の専用球場、洲崎球場(すざききゅうじょう)があった場所です。


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日本プロ野球草創期、上井草球場と共に東京地区のプロ野球常打ち球場の一つとなっていました。
一応、大東京軍(現在の横浜ベイスターズ)の本拠地球場として建設されましたが、実際は当時フランチャイズ制が敷かれていなかった事もあり、東京巨人軍もよく試合をしていたそうです。

海の側にありカニが這いずり回っていたといわれ、満潮時にはグラウンドが海水につかってコールドゲームになることもしばしばあり、環境的に良くなかったため、水道橋に後楽園球場ができると翌年1938年には僅か3試合の開催に激減しました。
結局、解体したのがいつなのかもはっきり分かっていません。


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洲崎球場跡・記念碑。

以下、記念碑の記述です。

『伝統の一戦(巨人・阪神)』誕生の地
洲崎球場跡 新砂1丁目1・2付近

 洲崎球場(別称・洲崎大東京球場)は、日本プロ野球草創期の野球場で、昭和11年(1936)2月に日本で6番目に結成されたプロ野球チーム『大東京軍』の本拠地でした。
 プロ野球結成への気運は、昭和9年開催の日米野球で高まりました。
同年12月に大日本東京野球倶楽部(現在の読売巨人軍)が結成されると、東京、大阪、名古屋に相次いでプロ球団が誕生し、昭和11年には7球団によるプロ野球公式戦が開始されました。
 しかし、東京にはプロが使用できる野球場はなく、在京球団の本拠地建設が急がれました。
そのため、洲崎球場はわずか3ヶ月ほどで完成し、秋のシーズンの最後を飾る『東京第二次リーグ戦』が開催されました。
シーズン終了後には、巨人とタイガース(現在の阪神)による初のプロ野球日本一決定戦(3連戦)が開催され、沢村栄治投手擁する巨人が初代王座を獲得しました。
この試合は、日本プロ野球史上屈指の好ゲームといわれ、洲崎球場が最も輝いた時でした。
現在でも『伝説の一戦』といわれる両チームの熱戦は、ここから誕生しました。
 日本プロ野球の歴史を刻んだ洲崎球場は、昭和13年の3試合を最後に閉鎖されました。わずか3年とはいえ、日本プロ野球界繁栄の礎を築いた貴重な野球場跡として記録に残すものです。

平成17年2月 江東区教育委員会


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おそらく、この辺りはグラウンドだったと思われます。
センターからレフト方向に撮影してみました(ペパー軍曹の勝手な予測ですが)。


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洲崎球場跡、オルガノ株式会社の敷地内です。


明日、8月14日から東京ドームで3連戦。
今年のペナントレースの行方を大きく左右する闘いとなります。
激戦必至です!

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