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元禄15年(1702年)12月14日。
播州赤穂藩の浪士ら47名が、江戸の本所松坂町の吉良邸に討ち入った。
激しい戦闘の末に亡君の仇・吉良上野介義央(62歳)の首級を挙げた。
赤穂浪士一行は亡君が葬られている泉岳寺まで赴き、
吉良の首級を墓前に捧げた後、幕府に自訴する形で身柄を確保された。なお、
47名のうち、寺坂吉右衛門信行(てらさか きちえもん のぶゆき:39歳)は途中で姿を消しており、身柄を確保されたのは46名である。
46名の赤穂浪士の処分については、
幕府内部でも助命か処罰かでかなり議論は紛糾した。
結果は、46名全員の切腹であった。
翌年2月4日、46名の赤穂浪士らはそれぞれ身柄を預けられた4つの大名家の江戸屋敷にて、
切腹して果てた。
こうして前年の刃傷事件から始まった赤穂事件は結末を迎えたが、
この一連の事件は歌舞伎をはじめ、庶民の間に形を変えながら広まっていき,
『忠臣蔵』と呼ばれる有名な物語になった。
ペパー軍曹のマジカル・ミステリー・ツアーは・・・
東京都港区高輪二丁目の泉岳寺にやってきました。
泉岳寺は曹洞宗の寺院です。
曹洞宗のご本山は二つあり、
一つは道元禅師が開かれた福井県の永平寺、もう一つは横浜鶴見の総持寺です。
慶長17年(1612年)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を
拝請して徳川家康が外桜田に創立した寺院です。(現在のホテルオークラの近く)
しかしながら寛永18年(1641年)の寛永の大火によって焼失。
そして現在の高輪の地に移転してきました。
時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、
毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ、高輪に移転した泉岳寺は出来上がったのです。
浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものです。
赤穂義士のお墓があることで有名です。
中門。
総欅造りで天保7年(1836年)、
35世大龐梅庭(だいほうばいてい)和尚代に再建されたものです。
山門。
天保3年(1832年)34世大道貞釣(だいどうていきん)和尚代に再建されたものです。
二階部分には十六羅漢が安置され、一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、
銅彫大蟠龍がはめ込まれています。
『泉岳寺』の額は、晋唐の墨蹟研究者であった大野約庵による書です。
大石内蔵助良雄銅像。
この銅像は、浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、
所有が転々としていましたが、泉岳寺に寄進され、
大正10年12月14日に除幕したものです。
内蔵助が当時の風俗である元禄羽織を身につけ、
連判状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる姿を表したものです。
本堂。
旧本堂は第二次世界大戦で空襲にあい焼失。
現本堂は昭和28年12月14日に落成した鎌倉様式の建築です。
ご本尊は釈迦如来、他に曹洞宗の宗祖である道元禅師・瑩山禅師、
また大石内蔵助の守り本尊である摩利支天(秘仏)などが納められています。
主税の梅。
大石主税が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていた梅です。
赤穂浪士墓所入口。
瑶池梅。
義士の墓守りをした堀部妙海法尼が瑶泉院から賜った鉢植えの梅を移植したものです。
血染の石。
浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、
その血がかかったと伝えられている石です。
首洗井戸。
義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、
主君の墓前に供え報告したところから『首洗い井戸』と呼ばれています。
四十七士墓所の門。
この門は浅野家の鉄砲洲上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築されたものです。
浅野長矩公之墓。行年三十五歳。
長矩公夫人之墓。行年四十一歳。
大石良雄之墓(大石内蔵助)。行年四十五歳。
大石主税之墓。行年十六歳。
赤穂義士は元禄16年(1703年)2月4日に切腹した後、
直ちにこの地に埋葬されました。
ただし間新六の遺体は遺族が引き取っていきました。
また寺坂吉右衛門は本懐成就後、瑶泉院など関係者に討ち入りを報告して廻り、
のち江戸に戻って自首しましたが赦され、麻布・曹渓寺で83歳の天寿を全うしました。
現在も曹渓寺に眠っています。
泉岳寺にある間新六の供養墓は他の義士の墓と一緒に建立されましたが、
寺坂の墓は慶応4年(明治元年・1868年)6月に供養のために建てられたものです。
また、いわゆる四十七士の他に、本人は討ち入りを熱望したものの周囲の反対に遭い、
討ち入り前に切腹した萱野三平の供養墓があります。(明和4年(1767年)9月建立)
したがって泉岳寺の墓碑は48あります。
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