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李英愛の演技について「大長今」まできたところで中間総括というのも変な話だが、最新作の映画「親切なクムジャさん」についてはこのブログの別の所でしつこく書いてしまった。これについて一言で言えば、映画はなっていないし李英愛の演技もいま一歩ではないかというのが偽らざる感想だ。彼女以外であの役を演じられる女優はたくさんいるはずだ。だが一方で、「わかってないなあ、彼女が演じたからこそ面白かったのだ」という話も承知しているつもりだ。
李英愛研究というこのブログのそもそもの出発点は、たとえこちらが非力で資料も不完全であっても、彼女の演技の発展の跡を辿りつつ「イ・ヨンエさん」に迫ることだった。この人に関心を持ったきっかけはインタビュー番組である。「この人はできるのではないか」という直感から始まっている。しかし、ドラマはほぼ全部見ていない。映画も全部見ていない。演技面での発展の痕跡にすら近づけなかったと思っている。
李英愛について書きながら、彼女の「演技力」について考えるのは悪い冗談なのだろうか、演技力の無さをCFの人気や著作その他の情報から伝わる人柄で補っている「大根役者」、いや、「スター」にすぎないのだろうかという思いも持ち続けた。「『スター』にすぎない」という表現は不適切だ。それが「スター」というものかもしれない。例えば「浮雲」の高峰秀子や「居酒屋」のマリア・シェルではなく、「東京物語」や「麦秋」での原節子、「カサブランカ」や「追想」でのイングリット・バーグマンを思い出すべきなのかもしれない。
李英愛が末永く残る女優になれるかどうかはわからない。そんなことは誰がどう思おうと時間が経てば自ずと知れる。しかし、どう意地悪く見ても、この人は「役者」なのだ。ツボにはまった時は、「この役はこの人のこの演技しか考えられない」と思える。「春の日は過ぎゆく」のことだけを言っているのではない。都彌夫人のように顔が綺麗すぎるので、「大長今」までは役柄が限定されてきたのだ。最新作を経ても、演技の幅が飛躍的に広がったとは思えない。もっといけたはずだ。最新作は彼女の演技人生の節目にはなったが、やはり「クムジャ」ではなく「チャングム」で彼女を記憶する人が多いと思う。
李英愛は新たな出発点に立って、これからも「イ・ヨンエ」というブランドの持つ一定のイメージと格闘しながら演技を続けていくことだろう。もうこの際、「スター」でも「役者」でもどちらでもよいから、早く彼女の次回作を見たい。テレビドラマやパク・チャヌク作品だとアレだが、チャン・イーモウの「活きる」やスティーブン・ソダーバーグの「エリン・ブロコビッチ」みたいな作品に出てくれたらいいなと思う。
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