李英愛研究

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栞−(6)閔妃暗殺

  「朝鮮王朝末期の国母 閔妃(ミンビ)暗殺」角田房子(新潮社 1988)

  <日清戦争まで>−本書の記述と「エンカルタ99」の記述を参照して構成
  李氏朝鮮王朝第26代国王高宗(在位1863-1907)の妃となった閔妃(1851?-1895)は聡明な女性で、優柔不断で頼りない高宗を陰で操り、しかしあくまでも国王をたてながら、1873(明治6年)年には高宗の実父にして摂政の大院君から権力を奪って閔氏一族による門閥支配を完成した。表向き国王親政の政権は政策的には開国を推し進め、日本から軍事顧問を招いて洋式の軍隊を設けた。しかし、1875年(明治8年)に開国を迫る日本の挑発によって武力衝突、江華島事件(雲揚号事件)が起こり、事態収拾のために翌1876年、日本側全権の黒田清隆・井上馨は軍隊と共に釜山に入港する。朝鮮側は交隣関係とよばれる江戸時代以来の対等な関係を望んだが、日本側は一方的に交渉を進め、近代国際法をたてにとって不平等条約を締結させ、この年の2月と8月に江華条約(日朝修好条規)が調印される。日本は欧米列強から学んだ経験を無駄にしなかったわけだ。

  その後閔氏一族はいわば親日政権として絶対的な権勢を謳歌する。しかし新式(洋式)軍隊と旧式軍隊では待遇に差があり、配給米の不正支給をきっかけにして旧式軍隊が反閔妃・反日のクーデターを起こす。これに貧民層が合流して日本公使館を襲撃する暴動となる。1882年(明治15年)7月の壬午軍乱である。それまで蟄居の身だった大院君はこれに乗じて政権を奪い返したものの、日清両軍が出兵する大事件となる。閔妃は忠清北道の長湖院に逃れて潜み暮らす。王宮にいた頃、屏風のかげから王に助言を与えたように、閔妃はここから高宗に密書を送り、清国に助けを求めるように献策したりする。

  しかし、大院君の復権は一月しかもたなかった。1882年8月、清国は壬午軍乱の首謀者として大院君を拉致し、船で天津に運んで査問にかけ、保程府という清国内の遠隔地に幽閉してしまう。当時の日本全権花房義質は日本公使館焼打ちの賠償金五十万円を含む七カ条の要求を国王に突きつけ、軍事行動も辞さない勢いで迫っていた。大院君は宗主国であり味方であるはずの清国の牽制に期待したが、花房と中国側代表の馬建忠が会談し、日本側は中国側の調停を受けいれることになる。この時点で日本は清と戦争をするつもりはなかったのだ。

  大院君がいなくなると閔妃は王宮に戻り、閔氏一族は以前にも増して権勢を誇る勢道政治を展開する。ただし、壬午軍乱以後、閔妃は清国に事大する守旧派に転じ、閔氏一族は反日的な政権になっていく。国内経済は疲弊し、清国の支援なしには存立できない政治体制であることをよく承知していたのだ。国内の政治情勢はこうした守旧派と海外留学の経験者からなる開化派に分かれて静かな対立をみせはじめる。

  1884年(明治17年)末、日本に留学した経験を持つ開化派の金玉均は、典型的なブルジョア改革としての甲申政変を起こす。しかし、「日本がアジアのイギリスになるならば、我々は朝鮮をアジアのフランスにしなければならない」と少数の同志だけで性急に事を急いだこのクーデターは、三日天下に終わる。日本の竹添公使に働きかけ、日本軍を味方につけた開化派は王を守りながら王宮を逃れてよく戦ったが、袁世凱が指揮する清国軍の前にあえなく敗退する。閔妃はこの時清国軍の陣地に赴き、やがて無事に王とともに王宮へ戻る。

  年が明けた翌1885年、甲申政変の後始末には日本側から外務卿井上馨が全権として交渉にあたり、竹添公使も民間人もこの政変には一切無関係であるという主張を通して「漢城条約」を締結させる。日本と清国の交渉には伊藤博文と李鴻章があたり、この年の4月に「天津条約」が成立する。こうした情勢の渦中で、日清の圧力に密かに対抗するために閔妃はロシアに接近して密約を準備する。この動きに対して同年6月、日本の井上馨は朝鮮を日清共同の保護下に置くべく「朝鮮弁法八カ条」を作り、駐清日本公使榎本武揚に打電する。

  この年、大院君が3年間の幽閉生活から解放されて帰国している。清国としては朝鮮側の親露政策を牽制しなければならない。そして大院君が帰国すると閔妃は壬午軍乱の残党狩りをこれ見よがしに行い、当時大院君とつながりのあったものをみな逮捕し、獄につながれていた者を死刑にしてしまう。一方、この時期、主として大量の米の輸出と商品の輸入により、朝鮮民衆とくに農民の生活は貧窮し、腐敗して弱体化した権力側には為す術がなかった。国庫は火の車で、赤字を貨幣の濫造で埋めていくやり方を繰り返したために悪性のインフレが末期的症状を呈していた。しかし王宮では豪奢な暮らしが続き、西欧の文物も入ってくる。

  少し下って1893(明治26年)年3月末、東学教徒が漢城(ソウル)の光化門の門前で三日間土下座し訴願を行った。30年前に処刑された教組崔済愚の雪辱のための伏閣上疏であった。4月には「排洋排倭」、すなわち西洋人や日本人を排撃して正道を、と攘夷論を主張する壁新聞が貼り出され、市民の共感を呼ぶ。衛正斥邪思想が大衆化し始めたのである。東学の思想は困窮しきった民衆、とりわけ農民の支持を得る。4月末、忠清道の報恩に東学教徒二万余人が集結し、暴政に対する憤懣、汚吏の懲討、生活難の打開を叫んで気勢をあげる。

  翌1894年(明治27年)2月、全羅道の古阜郡で民乱が起こり、これがあの「甲午農民戦争」の発端となる。水税を滞納した貧農が極刑に処されたことがきっかけであった。民乱を指導したのは東学の地方幹部、チョン・ボンジュンである。彼は東学の組織を利用しつつ、蜂起と東学の理念である「地上天国」の実現との合致を説明するなどして蜂起を周辺諸郡に広げることに成功した。農民主体の東学軍はよく戦い、漢城から相次いで派遣された官軍を次々にうち破る。そして5月31日に全州を占領する。この農民戦争の展開に、国王はそれまで何度か清国に援兵を頼もうと図った。だが諸大臣は、清国への援助依頼は日本やロシア等の派兵を促し、朝鮮全土が戦場になる危険があるとして反対していた。しかし事ここに至ってはほかに打つ手がない。あくまで内乱としてとらえ、宗主国に援助を乞うことになる。

  袁世凱を通じて朝鮮政府から援兵を乞われた李鴻章はただちに海軍に出兵を命じる。6月7日、清国は天津条約に従って朝鮮出兵を日本に知らせ、日本もまた朝鮮への派兵を清国に通知する。すぐに清国からは約二千八百人、日本からは大島公使とともに陸戦隊四百人の兵力が上陸する。こうして情勢が緊迫するなか、全州の農民軍との間に和議が成立し、6月11日には農民と東学教徒が退去したという知らせが朝鮮政府に届く。農民軍が和議に応じたのは自分たちの要求を政府派遣の招討使が受諾したためであり、なによりも日清両軍に侵入の口実を与えまいとするためであった。

  日本の外務大臣陸奥宗光はしかし混成旅団という大軍を朝鮮に派兵する。「混成旅団がソウルにはいれば、前々の勝利に慣れた清国軍団はかならず日本兵を攻撃するだろうから、それを機会に平壌あたりで一戦をまじえ、勝利を得たのち和を講じ、朝鮮を日本の支配下に置く」という日本側のハラの内である。日本の大島公使は陸奥外相の指示に従い、日清開戦の口実作りに動く。

  7月になって、日清開戦間近とみた袁世凱が帰国する。そして、開戦を間近に控え、日本は戦争遂行に協力的な傀儡政権を樹立する必要に迫られて大院君が担ぎ出され、7月23日に大院君政権が成立する。大島公使は朝鮮政府に対して清国兵撤退の要求を強要し、混成旅団に伝達する。

  7月末の豊島沖での海戦と成歓での払暁の陸上戦の後、8月1日に日清両国は宣戦を布告する。


  <感想>
  この本は最近、韓国に行く前に読み直した。本書は、閔妃と大院君の確執を縦糸に、日本と清の角逐や当時の朝鮮半島を取り巻く国際情勢を横糸にして、閔妃の生涯を浮き彫りにしようとした労作である。ただし、現在の研究水準から見ると異論のある向きも多いようだ。また、特に後半は、ポイントがいまひとつ鮮明でなく、歴史的事実の羅列に終わっていると思われるところが少なくない。しかし本書前半には読み応えのあるところが多い。衛正斥邪論者で守旧的な没落貴族だった大院君についての記述の詳細さや、高宗に嫁いだ閔妃の夫婦生活における心理的なあやについての記述、高宗の側室の李尚宮に自分より先に皇子が生まれた時の記述、初産で生まれた男子がすぐ亡くなってしまった時の記述、大院君との嫁-舅の確執を思わせる抗争の記述、贅沢な生活を愛した李王朝末期の上流階級の女性としての記述、徹頭徹尾自らの家門を守るためにきめ細かく周到に行われた政治的行動の記述等々、閔妃を歴史に翻弄された一人の英明な女として捉え、その内面に肉薄しようとする意図が伝わってくる。

  本書後半では、日本公使三浦梧楼に指嗾された大陸浪人崩れや『漢城新報』編集長の小早川秀雄ら実働部隊が、動員された日本軍の兵士と共に景福宮を襲撃する過程が克明に描かれている。ただし、この襲撃への大院君の関与については慎重に書かれている。閔妃暗殺は、今の言葉で言えば周到に計画されたテロ行為であり、日本の朝鮮侵略にとって象徴的な事件であったことが理解される。悲壮感にあふれた「憂国の志士」たちの義挙でもなんでもない。景福宮の奥の乾清宮内で三人の女が無惨に殺される。そのうちの一人が閔妃であった。誰も閔妃の顔を知らないので確かめるのに手間取った。その顔は二十五、六歳にしか見えず、衣服を剥いで年齢を確かめたという。遺体は庭で焼かれた。

  この本が書かれた当時、日本の役人が計画して日本人が一国の皇后を殺したなどという話は、いくら事実であっても、今ほど激しくはないにせよ風あたりが強かったのだろう。「閔妃は日本人によって殺害され、遺体は庭園で焼却された」−本書の後半、とくに閔妃殺害の前後は可能な限り資料を駆使して、この点について、文句が出ないように詳細かつ慎重に書いていることがよくわかる。後半では歴史上の様々な人物に対する蘊蓄も多く、勉強になる。だが、自分はこの後半でいささかダレてしまうのである。読後感はいまひとつである。ただし、その後この本がたびたび批判され、ノンフィクションではなく小説だ、とまで言われていることでしらけてしまったわけではない。

  自分は閔妃という女性に興味がある。閔妃の英明さと冷徹な権力者としての側面はよく伝わってくるが、徹夜の宴会を好んだ不眠症の王后、「愛憎ともに激しい」ひとりの女としては謎が残る。李王朝末期の宮廷生活の日常をもっと詳しく知りたいという不満が残ってしまう。まあ、そっちの方に重点を置きすぎると王族ファミリーの痴話事になってしまう危険があるので避けたのだろう。おそらく彼女の私的な生活に関する資料が決定的に不足していたこともあるのではないか。なにしろこの女性の写真といわれているもの−本書でも掲載されている−でさえ偽物であると言われている。そういえば、この本の題名は「閔妃」ではなく「閔妃暗殺」なのであった。

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