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経済的な理由で映画館から足が遠のいて久しい。もっぱらレンタルDVDで最近の映画を楽しんでいる。近所のレンタル屋なら映画館一回分で古い作品(旧作)なら18本見られる。最近レンタルが始まった新しい作品(新作)でも9本見られる。
ところが先日、表題の映画をどうしても見たくなって最寄りの映画館へ出かけた。この作品は舞台で聴きたかったのだが、来年の日本公演が始まるころまでその志が持続しているかどうか自信がない。原作はユーゴーの大小説で、『ああ無情』という子ども向けの翻案を文字通り子どもの頃に読んだきりで、この原作『レ・ミゼラブル(Les Mise'rables−惨めな人々)』を元にした映画を見たことがあるのかどうかも定かではない。映画『レ・ミゼラブル』(2012)は27年間続いているミュージカルの舞台を映画化したもの、ということで出かけた。 映画は、2時間半を超える長尺であった。有名な舞台作品の映画化なので、細かい背景説明等は省略したのか、元々そういう舞台作品なのか、展開が思いのほかスピーディーであった。これだけ唄にどっぷり浸れるならペースダウンして4時間ぐらい続いてもいいなと、そう思った。 数々の聴かせどころでは歌い手の顔がクローズアップされ、いわばむき出しの感情表現=唄芝居を見せつけられる。口パクではなく、撮影時に歌唱を同時録音したのだそうだ。そしてこの手法はトム・フーパー監督がこの作品を引き受ける条件だったのだそうだ。聴かせどころが多く、それに伴って頻繁にクローズアップが使われる。画面は窮屈になる。それを見ながら、自分は最初、テレビ放映を意識したカメラワークか、などと的はずれで下品な憶測をした。しかし、どうもそうではないようだ。彼ら「惨めな人々」は、窮屈どころか息も詰まりそうな現実社会の桎梏を前にして絶望し、慟哭し、人を想い、焦がれ、喜怒哀楽を、思いの丈を迸らせる。それを見て聴いている自分は目を逸らすことができず、例えば惨めなファンティーヌの有名なアリア、いや、ソロでは、他人の秘密をのぞき見しているような居心地悪さまで感じてしまうほどだった。ファンティーヌ役の女優はレンタルで見た『ダークナイト ライジング』(2012)でキレの良いアクションを見せていた人だ。その良し悪しは別にして、これからこの女優とファンティーヌという役名が強く結びつけられる事は間違いないだろう。 主要な登場人物は他人を想う=愛することで生きる意味を見いだす。木石ではない生身の人間なので、想われたい、愛されたいという願いはないわけではないだろう。しかし、ファンティーヌは自分を捨てた男や娘のコゼットを、ジャン・バルジャンはコゼットを、コゼットはマリユスを、エポニーヌはそのマリユスを・・・、人それぞれのやり方で想い、相手に良かれと信じることを実行する。相手がどう出ようとそれを受け容れ、赦す。そして、ジャン・バルジャンを宿敵と見なし、しつこく追いつめるジャヴェール警部もまた何かを想う=愛することで生きている。ただし、彼の場合、その相手は人間ではなく、彼にとっての絶対の正義=法であるが。そして、法の成就と赦しの狭間で苦悶する。 このオペラ、いや、ミュージカルには美しい曲が溢れている。ジャン・バルジャンの多くのソロやファンテーヌの上記の唄、下層の人々の嘆き、学生たちの革命の叫び・・・、主だった唄や合唱に年甲斐もなく泪を流しながら聴き入ってしまった。そして、自分が最もこころを揺さぶられたのは誰の唄だろう。それは、マリユスに切なく寄り添うエポニーヌ、何がどうあってもひたすら想い、想い続けるエポニーヌだった。エポニーヌ役の女優は舞台版でこの役を唄っていた人だそうだ。 さしあたり、自分にとってはエポニーヌの『レ・ミゼラブル』だった。 ふだん大画面で映画を見ることがほとんどないせいか、そうではないのか、ともかくこの映画を見て大感激してしまった。プサン(釜山)の修道女のお言葉をもじって筆の勢いで書き添えるなら、他人と共に泣く方法を見つけるために、近いうちにもう一度見たいと思っている。 |

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