李英愛研究

ネットの記事でイ・ヨンエさんに迫ります

鶏林日月抄

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バンチャン(飯饌)

 いつものようにネットで韓国の新聞のページをぼんやりと眺めている。最近は、例えば[国民日報]の料理ページや[朝鮮日報]の料理紹介記事などに眼を通すことが多い。作って食べようというより、食材や料理の名前、調理法自体に興味がある。いわゆる宮廷料理の類には全く食指が動かない。日常的に食べられていると思われる、バンチャンと呼ばれるおかずや一品料理、郷土料理の記事は必ずみている。

 最近、[朝鮮日報]で見たなかで面白いと思ったのは、海産物を白菜で包んだ「海鮮茶きんキムチ」みたいな漬け物だった。白菜は青みがかった柔らかい部位を使う。どちらかというと白菜は包み紙である。目当ては中に包み込む海産物で、タコやアワビ、むきエビを使った贅沢な漬け物である。タコはマダコとミズダコの二種類を、これは湯がいてから使う。向こうのむきエビの実態を知らないが、むきエビは熱処理されていると思う。アワビはそのまま使うようである。ここにナツメやカラシ菜、ネギなどとニンニク、ショウガのみじん切り、アミの塩辛や唐辛子などを加えて下味を付け、塩でしんなりさせた白菜で材料を包んでセリの茎で縛る。冷蔵庫で二週間ほど熟成させる。

[朝鮮日報](ダンミのページ)有名韓国料理店で習う異色キムチ 特講3
http://danmee.chosun.com/site/data/html_dir/2008/01/09/2008010951047.html?Dep0=chosunmain&Dep1=newsplus&Dep2=life&Dep3=single01

 [国民日報]は料理専門ブログの記事を転載している。下はナスの天ぷらの記事。肉厚に切ったナスの片面に炒めた塩をふり、湿り気が出たところでてんぷら粉をまんべんなく付ける。衣になる天ぷら粉は冷たい水を入れてさっと混ぜるだけにしておき、下ごしらえしたナスをくぐらせてカラッと揚げる。要するに普通の天ぷらである。ナスの天ぷらは子供のおやつという扱いで、酢醤油で食べるとのこと。

[国民日報](料理のページ)表面は菓子のようにサクッとして、中は柔らかいナスの天ぷら
http://news.kukinews.com/article/view.asp?page=1&gCode=lif&arcid=0001375995&code=41172111


1.前にも書いたが、自分は韓国料理に関して無知で、日常的に口にしているわけでもない。自分の知識のタネ本も、東洋文庫の『朝鮮の料理書』や『朝鮮歳時記』など、ごくわずかである。そういう無知な人間が大きいことを言うなら、市井の人々が口にしてきた伝統的な韓国料理(朝鮮料理)は保存食そのものではないかと思っている。

 韓国の普通のシッタン(食堂)で定食なんかを頼めば、二〜三品は小皿でバンチャンが付いてくる。セルフサービス式の食堂でも、キムチやナムルなんかはお代わり自由である。家庭での食事はほとんど見当がつかないが、おかずがあらかた片づいて、ご飯をかき込む時に、湯漬けにしてサラサラ、という話にはならない。気の短い家長なら、「おい、ミョンテチム(明太チム)があっただろ、はやく」ということになるのではないかと憶測している。

 大衆食堂での「無料のおかず」は、使い回しを禁止する法律が今年できた。食べきれないことを半ば承知の上で客に出してきたようだ。そうしないと商売にならなくて、注文された品だけを出すやり方だと「サーヴィスが悪い」、「あそこはケチケチしている」なんてことになるのだろう。これはいろいろの解釈ができる。食堂で出す食事は家庭料理の延長で、誰でも作れる。わざわざ金を出して食いに行くんだからバンチャンぐらいケチケチせずにサーヴィスしろ、というのが一つ。一種の食堂卑下説である。

 また、小皿がたくさん、にぎやかに並ぶことを良しとする長い食の伝統があるのかもしれない。それだけ食事というものを大切にする、いわば食事祝祭説である。市井の人々のブログなんかをみると、軍隊時代の思い出でほぼ間違いなく食事のことが書かれている。金属製のプレートに盛りつけられた、いわゆるチャムバッ(クサい飯)である。いまの軍隊食ではさすがにコメ100%で、おかずもおいしそうなものが出るようだが、昔は麦の比率が多かったのではないだろうか。質素な食事に、厳しい兵役時代のささやかな楽しみと切なさがない交ぜになって思い出されるのだろうと想像している。プレート一枚にご飯と一品料理、汁物、バンチャンが盛りつけられ、仮にお腹がふくれても、これは違うんだ、そういう感覚があると思う。

 自分は心身共に貧しい人間なので、考えることに偏りが生じているのを承知で言うなら、食事祝祭説は貧しさの裏返しなのだと思っている。最近の韓国の食事事情は文字通り豊かなものであろうが、いわゆる維新独裁(開発独裁)時代、たしか、政府のお達しで満足にコメを食えないような時もあったと記憶する。とくに高度成長以前は、質素であってもにぎやかに並ぶ手料理は、ほかの何物にも代え難い豊かさの象徴だったのではないかと思っている。あり合わせのクッパの丼ひとつでは母親や妻、時には男やもめの、作り手としての矜持を保てなかったのではないか。メシが天であり、家族が囲む食卓は日常生活で最も大切な祝いの場なのだ。バンチャンはその祝いの場を彩る大切な小道具である。これがなけば始まらない。それは結局、心尽くしの保存食のかたちであっただろう。

 食事は、うちで食べる手料理が一番なのだ。食堂での食事は家族で囲む食事の代わりにはならない。食堂にはとにかく仲間や家族と行くのが当然であり、一人でテーブルを前にするというのは一般的ではないという話もある。食堂卑下説の条件はこうしてととのえられたのではないだろうか。

もちろん、今時の韓国で、メシが天だ、なんて言っても特に若い世代の人々には通じないだろう。年配の人でも、コメのメシしか食わなかったという人だっているだろう。

2.バンチャンは漢字で「飯饌」と書き、「おかず」一般を指す。このことばで現在いったいどんなものを指しているのか、辞書ではよくわからないので、「バンチャン」という検索語でたまたま引っかかった或る通信販売のページを覗いてみた。分類として、「キムチ類(KIMCHI)」、「バンチャン類(SIDE)」、「ジョッカル類(PICKLES)」、「チェサ(祭祀)の食べ物(RELIGIOUS)」などがある。キムチ類は18品を販売していた。普通の白菜キムチが1kg5千ウォンである。高いのか安いのかよくわからない。ジョッカルは塩辛のことだが、8品ある。ここにはジョノ(錢魚または箭魚)という小魚の塩辛がある。ちょっと調べてみたが、サワラの稚魚のサゴシ(青箭魚)のことだろうか。うまそうだ。

 このサイトではバンチャン類として、さらに「煮物類」(27品)、「炒め物類」(14品)、「和え物類」(14品)、「漬けたもの」(16品)、「その他」(13品)の5つに分けている。「漬けたもの」にはカンジャンケジャン(蟹の醤油漬け)がある。やはり100g2千5百ウォンもする。「その他」にはパジョン(ネギのお好み焼き風)などジョン類が多い。

 キムチはキムチで別分類である。ただのおかずというより、食事に必要不可欠の存在なのだろう。このサイトでは、バンチャンはジョン類を除けば71品、キムチを加えると89品になる。掲載されている写真を見ると、赤い料理が目立つが、ケチャップ系のものはないようである。コンソメ系やバター系の味付けの食べ物も見あたらない。総じて日持ちのよさそうな食べ物で、いわゆる「おふくろの味」ばかりのようだ。販売方法による制約もあるのだろうが、やはりバンチャン自体に日持ちするものが多いのだと思う。

 たまたま行き当たったサイトの情報を一般化することはできないし、保存のきかないおかずをどの程度の頻度で食べているのかは全くわからない。だが、汁物を除けば、現代の韓国で日常的に家庭料理として食べられているバンチャンは、例えば上の89品にごちそうになる一品料理や保存のきかない料理、西洋風のお総菜や和式(日本風)の料理などを加えて、最少で二百数十品ぐらいが相場なのではないかと憶測している。これは西洋風及び日本風の料理の浸透度を過小評価しているかもしれない。スープにしろソースにしろ、大量生産による廉価販売では一日の長がある。なにしろ、例えば天ぷら一つとっても、カロリーその他が気になるならオリーヴ油で揚げましょう、なんていう話も見たことがある。食事の内容は変化し続けているようだ。

3.明治維新以降、日本の食事の変化として、「温かいものが多くなった」、「柔らかいものが好まれるようになった」、「概して食うものが甘くなってきた」という三点を指摘した民俗学者がいた。富国強兵の時代、軍隊に行けばとりあえずコメのメシが食えるようになったし、それまでの伝統的なメニューはハイカラなものや異国情緒のあるもので補強された。伝統的な食にかかわる神々は出番が少なくなっていき、食文化は大きく変わった。韓国で日本の明治維新にあたるのは、大韓帝国の成立から日本統治時代にかけてのあたりかもしれない。日本には西欧の文物が流れ込み、韓国にはもっぱら日本のものが持ち込まれたが、近代化という点では共通すると言えなくもない。

 日本統治時代の、市井の人々の食事のメニューや実際について研究した本や論文があるのかどうかよくわからないし、それ以前の時代についても、文書として残っているのかどうかよくわからない。。以前、ソウルの景福宮の奥にある民俗博物館を見に行った時、いわゆる常民、向こうなら奴卑や白丁なんかの食事を知りたかったが、ヤンバン(両班)階級の生活展示が中心だった。上に名前だけ引用した東洋文庫の『朝鮮の料理書』は、自分にとって大昔の食事のことを知るよすがであるが、三冊の料理書からなるこの本は李氏朝鮮時代後期のヤンバン階級の食事しか伝えていない。例えば、あらゆる階層の人がカンジョン(糠精:揚げ餅)をゴマ油で揚げることができたとは思えない。また、すべて唐辛子の伝来以降に書かれた話なので、それよりもっと前の食事のことはよくわからない。

 よくわからないが、向こうの人々にとって食事の大変化は16世紀末あたり、唐辛子の伝来以降ではなかったかとかねがね妄想している。唐辛子の使用が普及して、食うものが辛くなったのである。生来、辛いものを好む人々が多かったとは思っていない。辛味は保存食に絶好なのである。おまけに、少量でメシをかる。コメが食えなくてムギメシでもへっちゃらである。そこいらにある野菜はなんでもキムチになる。唐辛子を入れることによってキムチは食文化的に完成した。ムルキムチとか、赤くないキムチも唐辛子を少量加えることによって味が完成した。エゴマの葉の醤油漬けなんかも、塩辛だけでなく唐辛子を加えることによって最終的に完成した。そういう話である。唐辛子の辛味は貧しさの象徴であると同時にキムチという格別の存在の豊かさを象徴する重要な属性ではなかったかと思っている。

 現在の韓国は物質的に豊かになり、大型スーパーには食べ物があふれている。工場で生産されるインスタント食品や、いわゆるジャンクフードもコンビニ等で安価に入手できる。子供の肥満が社会問題になっているほどだ。のり巻きが携行食の定番になり、「おふくろの味」にもケチャップ系やコンソメ系、バター系のメニューが追加されつつあるのだろう。家庭一般での食事の味付けはどうなっているのだろう。依然として唐辛子色の赤い料理が多いにせよ、昔より甘みは増しているのではないかと想像している。辛みはどうだろう。これはよくわからないが、いまはキムチの辛味の象徴的意味なんてことを言っても全く通じないだろう。

アリラン 3

 3.江原道旌善郡にあるアリラン食堂は、キムチチゲ、豆腐チゲ、チョングッチャン(清麹醤)、タットリタン、猪肉(=豚肉)の辛炒め専門の店で、味噌チゲはもちろん、イカと豚三枚肉の炒め物などもある。「アリラン」を探して旌善郡界隈のページを調べている時、たまたまこの食堂のページを見た。

 上の「チョングッチャン」は味噌の一種を指すことばで、これだけでチョングッチャンチゲを指すようだ。納豆汁の親戚みたいな料理である。ただ、「タットリタン」がわからない。「タッ(鶏)」の「タン(湯)」で、鶏のスープなのだろうと思うが、あいだの「トリ」がわからない。いろいろ検索すると「タットリ」で「鶏」らしい。ひょっとすると、「トリ」は日本語の「鶏または鳥」のことで、いわゆる畳語の変種なのかもしれない。無理矢理書けば「鶏鳥湯(とりとりスープ)」。

 向こうの辞書を見ると、「チゲ」は「肉・魚・野菜・豆腐などの材料に味噌や唐辛子など薬味を加えて煮た鍋物」、「タン」は「汁物」である。タットリタンはスープらしいが、タットリチムというのもある。「チム」は「鳥・魚・肉・野菜などをいろいろの薬味と一緒にじっくり煮つめたもの」だそうで、辛いシチューのような料理かもしれない。

 自分は韓国料理に関してはほとんど何も知らない。数年前に韓国に行った時も、ろくなものを食べなかった。もっぱらジャジャンミョン(ジャージャー麺)か、町のおかず屋のようなところでジャガイモのマッタン(大学芋風で甘いおやつ)みたいなものを買って食べた。地下鉄の駅を出たところにあるパン屋で安い惣菜パンを見つけて食べたりした。トッポッギも、目抜き通りの屋台ではなく、観光コースから離れた横町に入って安い店をさがした。晴れがましい食事は、チキンカツ定食ぐらいだった。

 大阪府の鶴橋にあるアリラン食堂のメニューには、テールスープ、メウンタン、ふぐ汁、ビビムバ、あわびお粥、トック、特製チジミ、たちうおチム等々、一品料理や各種焼肉なども豊富で、何でもある。自分は鶴橋はおろか、大阪駅に下車したこともないが、応援している球団の関係から親しみを持っている地域である。

 上の「テールスープ」は向こうで「コリコムタン」と呼ばれるものなのだろうか。これはかなりうまそうだ。スープ自体もそうだが、出汁が出切ったあとでもゼラチン質のところはうまい。焼肉部のメニューには「プルコギ」があって安心する。平たい方形の肉を焼いて薬味と一緒にサンチュ(包菜)で包んで食べる、というやり方は、それほど昔から続いているわけではないと思う。自分が初めて食べた「焼き肉」は、薄切りの肉をタレに漬け込んで味を染みこませてから焼くプルゴギだった。今でもめったに食べられないが、焼き肉といえばジンギスカン用の調理器具で焼いたプルゴギを思い出す。

 米国のアリラン食堂をネットで探すと、例えばハワイにはArirang House Korean Restaurantというのがあったが、メニューは出ていなかった。ここは日本人観光客が多いせいか、日本式の餃子の店やラーメン屋もある。他の韓国系のレストランをみると"Yakiniku"と表示している例がいくつかあった。なんで"Bulgogi"と言わないのだろう。ファストフード店に行ったら「プルコギホットドッグ」みたいな品がありそうなご時世である。「プルゴギ」で焼き肉一般を代表させてもいいように思うのだが、これだと最近の「方形肉の焼き肉」というスタイルを表さないということなのかもしれない。それとも、自分が勘違いしていて、「ヤキニク」と「プルコギ」は別の範疇なのかもしれない。

 米国本土で探すと、例えばサンディエゴにはLA Galbi Arirang House Restaurantというのがある。「LAカルビ」はいわゆる「骨付きカルビ」の呼称で、韓国でもっぱら使われているのだろうと思っていたが、向こうでも店の名前になっている。「カルビ」は「カルビビョ(骨)」の略で、「あばら(肋)」または「肋骨」であるが、単にカルビで、主に牛の「バラ肉(あばら肉)」を指す。LA(ロサンゼルス)には米国最大のコリアンタウンがある。自分は、ロサンゼルスあたりの在米韓国人がお土産に持ち帰ったり節日に贈り物にしたことからこの名前が付いたのだろうと勝手に想像していた。骨と垂直に肉を切ることから、"Lateral Axis"の頭文字をとったなどという話もあるが、そんな難しい言葉を肉の部位には使わないだろう。飛行機の世界では「左右軸」になってしまい、いわゆるピッチング、機首の縦揺れの話になる。これはガセ臭い。この名前の由来について定説はないようだ。

 "Arirang Restaurant"という検索語でGoogle検索すると、米国だけでなく世界中のアリラン食堂が見つかる。たぶん、"Arirang"は"Korean"と同義語なのだ。

 カナダのモントリオールにあるアリラン食堂の紹介記事をたまたま読んだ。[MIRROR]という雑誌の'Bibim bap bang'という4年半前の記事によると、「民謡を表す"アリラン"という言葉は、教育ビデオからウエッブサーバーの保守ソフトまで、製品のブランド名として世界中で見いだされる。レストランももちろんこの言葉を借用し、香港やパース、ロンドン、ストックホルム、サンディエゴ、ボストン、ニューヨークといった所の飲食店がこの名前を掲げている」とのこと。

 この紹介記事によれば、ここのアリラン食堂は気楽に注文出来て値段も納得できるもので、ビビンバッに入っていたシイタケ(shitake mushrooms)、それにキムチ(kimchi)が特に美味しかったそうだ。トッポッギ(the teok-bok-gi/$5.25)から始めてビビンバッ(the beef bibim bap/under $8)を食べ、食後にオミジャ茶(a five-grain tea/$1.50)という食事である。この店は酒を出さない。金属製のお箸はやはり使いにくいらしく、トッポッギの餅やビビンバッの目玉焼きの卵を食べるのに筆者は苦労したようである。

 この食堂で出しているキムチは"The version I thoroughly enjoyed was made up of fermented shredded cabbage and spiked with red pepper powder."となっている。キャベツではなく白菜だと思うのだが、あるいはこういう「キャベツキムチ」なるものがあるのかもしれない。当時のカナダドルのレートを1ドル85円ぐらいとして、合計で15ドル弱であるから1275円弱。これに税金がついたとしても、それほど高価な食事ではない。ただ、店内には韓国の民謡などが流れていたわけではなく、米国のスタンダードナンバーを想起させるような曲だったそうだ。そういうものだろう。

[montreal MIRROR](2005年3月 第20巻 38号) Bibim bap bang
Arirang dishes up delicious, healthy andaffordable Korean cuisine
http://www.montrealmirror.com/2005/031705/resto.html

アリラン 2

 2.映画「アリラン」(1926)をウィキペディアで引くと、一番分量のあるのが英語版である。韓国語版と日本語版は実にあっさりした扱いになっている。ウィキペディアでは、この映画を登録しているのは韓国語・日本語・英語の三つだけである。ただ、英語版に掲載されているポスターは1957年にリメークされたキム・ソドン監督の「アリラン」のものである。脚色 監督 金蘇東と読める。

 この映画は1926年の製作であるから、いわゆる活動写真である。当然、上映の際には楽団と弁士(活動写真弁士)がつく。当時、向こうの小学校を尋常小学校といったかどうかはよく知らないが、弁士の名調子があったとしても、少なくとも小学校の上級生ぐらいでないと理解出来ない内容だったと思われる。この映画は当時としては空前の大ヒットだったそうだが、実際に見た人が仮に12〜13歳ぐらいとして、83をたせば現在は94〜95歳ぐらいだろう。10年前でも80代半ばである。ただ、オリジナルの「アリラン」は日本による統治時代(日帝植民地時代)を通してたびたび上映されたそうなので、大雑把に20を引くと、ひょっとすると現在70代の方で見たことがある人もいらっしゃるかもしれない。

 しかし、この映画は文字通り幻の映画で、今となっては実際に見た人はほとんどいないか記憶も曖昧になっているのではないだろうか。オリジナルのネガはおろか、オリジナルのシナリオも残っていない。日本の好事家がフィルムを所蔵しているという噂が長い間流れたが、その方が亡くなられた後、沙汰止みになった。どうやらガセだったようだ。あとは、北朝鮮随一のシネフィルと言われる金正日が持っているかどうかだが、たぶん持っていないと思う。なにしろ、この映画は韓半島(朝鮮半島)に住む人々やこの半島を故郷とする人々にとっては文字通り宝である。宣伝に利用しない手はない。今まで、実物のフィルムを使った宣伝を北朝鮮は行っていないと思う。結局、今のところこの映画は、人々の記憶を通して語り継がれてきた神話的ないし伝説的な映画なのだ。

 昨年、あの団成社(日本統治時代から続く映画館[聯合ニュース])にかかわった人の筋から、映画「青春の十字路」(1934)のオリジナルネガが出てきた[中央日報]。そして、これがフィルムの現存する韓国映画最古の作品になった。映画「アリラン」はこの映画の8年前である。ネガが出てくる可能性はゼロではないだろう。もう一度奇跡が起こることを期待するしかないと思っている。

[聯合ニュース](日本語版 2008年9月24日)団成社が経営難で不渡り、映画館は通常運営の見通し
http://japanese.yonhapnews.co.kr/society/2008/09/24/0800000000AJP20080924003700882.HTML
[中央日報](日本語版 2008年3月5日)韓国映画‘最古のフィルム’発見−映画「青春の十字路」(1934)のオリジナルネガ発見の記事。フィルムはその後日本で復元された。
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=96950&servcode=700§code=730

 映画のあらすじは、韓国語版ウィキペディアでは次のようになる。「アリランは1926年に製作されたナ・ウンギュの映画代表作だ。日帝に抑圧された韓国民族の潜在的な民族愛を表現したレジスタンス映画だ。この時申一仙が初めてこの映画でデビューした。」
 (シン・イルソン(申一仙 1906-1990)はこの映画でデビューした女優、歌手。日本の大阪で歌手活動をしていたこともある。)

 日本語版はもう少し長い。「『アリラン』は、日本統治時代の朝鮮で1926年に作られた映画である。羅雲奎監督の代表作であると共に、日本統治時代の朝鮮映画の代表作でもある。民謡の「アリラン」は、この映画で歌われて有名になり、広まったものと考えられている。
 主人公は、三・一独立運動に関係して投獄され、精神を病んで故郷に帰ってくる。主人公の妹を親日派が強姦しようとすると、主人公は親日派を鎌で殺す。そして主人公は「アリラン」を聞いて再び連行されていく。」

 英語版はPlot summaryとし、もっと長い。「この映画は、1919年三月一日に日本の統治に抗って蜂起した三・一運動にかかわって日本側に逮捕され、拷問を受けた後、精神を病んでしまった学生チェ・ヨンジンを扱ったものである。彼は、父や妹のヨンヒと暮らすために故郷の小さな村に帰る。ヨンジンの友人のユン・ヒョングはヨンヒと愛し合っている。村人たちが収穫祭に総出の日、いまは日本の警察官になっているオ・ギホはヨンヒを手込めにしようとする。ヒョングはギホと格闘になり、ギホを殴って鎌で殺してしまう。ヨンジンは正気に戻り、自分がギホを殺したのだと信じる。この映画は、アリラン峠を越えて日本の警察がヨンジンを監獄に連れ戻すところで終わる。」

 もっと詳しいものでは、例えば「韓国映画入門」(1990、李英一+佐藤忠男、凱風社)に李英一氏による作品紹介(PP.197-199)がある。自分はもっぱらこれをよりどころにしてこの映画について考えている。上のウィキペディア英語版ではオ・ギホを殺害するのはユン・ヒョングで、正気に戻ったヨンジンが自分の罪だと誤解する、というドラマティックな説明になっている。だが、李英一氏による作品紹介ではいささか異なる。

 「…(ヨンヒが襲われた時)、駆けつけたヒョングとオ・ギホの間で格闘が繰り広げられる。ちょうどその場に居合わせたヨンジンは、彼らを見ながらニヤニヤと笑ってばかりいる。彼の目には、闘っている二人の姿が楽しく戯れているもののように見えたからだ。そんなヨンジンが幻想を見る−砂漠で倒れた恋人同士の男女が、通りがかった商人の一隊に水をくれと哀願する。商人は水と引き換えに女をよこせと言う。水一杯のために女は商人の胸に抱かれる。
 その瞬間、怒ったヨンジンが鎌を振り上げた。と同時に血を流して倒れたのはオ・ギホだった。鮮血を見て次第に正気を取り戻し始めたヨンジンの手には日本の警察の縄がかけられ、彼の父とヨンヒ、ヒョング、村の校長と近所の人々が彼を取り囲んでいた。…」

 自分は以前から、このオ・ギホ殺害の場面を見たいと思っている。砂漠の幻想を見たいと思っている。この場面は、ウィキペディア英語版での紹介のように、わかりやすくドラマティックな悲劇ではなく、文字通り絵で見せる叙事詩に違いないと信じている。韓半島(朝鮮半島)に生きてきた人々の感性に訴える感情のドラマだろうと信じている。

 この砂漠の場面は1926年10月7日の東亜日報で言及されたようだ。以下は[某ブログ]で見かけた引用記事。

「この映画はまず、配役が適材適所を得たのが成功の大きい要因を作ったため、監督の苦心をのぞくことができる。ナ・ウンギュ、シン・イルソン、チュ・インギュ、イ・キュソルなどはみな、それぞれの演技に独特の特別な動作と個性が表現された。場面はほとんどみな鮮明だったし、特に砂漠の場面は全朝鮮映画をあわせても優秀な場面といえる…」。

 [某ブログ]の記事には略伝が書かれていた。また、[KMDb(韓国映画データベース)]にも略伝がある。

 チュンサ(春史) ナ・ウンギュ(羅雲奎)は、1902年10月17日、ハムギョンド(咸鏡道)、フェリョン(会寧)で旧大韓帝国軍人を父に、3男3女の三番目の息子として生まれた。12歳の時、2歳年上のチョ・ジョンオクと結婚したが、13歳の時に満州に行き、16歳までカンド(間島)のミョンドン(明洞)中学校に通った。この時期はナ・ウンギュに決定的な影響を及ぼした。ナ・ウンギュは19歳の時、北間島独立軍で活動し、圖判部事件(独立宣言文数千枚を教会地下室で謄写配布した疑惑)で日本の警察に追われ、ロシアに逃走してそちらで傭兵生活もした。傭兵生活の後に帰国したが、北間島の時期の圖判部事件で指名手配されたことによって2年の実刑を受け、監獄生活をすることもした。

 1924年、プサン(釜山)に創設された最初の映画会社、朝鮮キネマ株式会社に研究生として入社、1925年に「ウニョンジョン(雲英伝)」に出演して、映画界にデビューした。1926年に「アリラン」を監督して大成功をおさめ、映画界の鬼才と呼ばれた。1927年には羅雲奎プロダクションを作って独立する。その後も多くの作品で活躍は続くが、1930年代に入ると俳優・監督としての実績はやや低迷する。羅雲奎プロダクション解散後、他の監督で1930年に「アリラン 後編」を、1936年に自身の監督で「アリラン3」を作ったりもする。1937年に監督した『オモンニョ(五夢女)』が遺作。

 韓国映画黎明期の風雲児 ナ・ウンギュは1937年8月9日、ソウルで死去。葬儀は最初の映画関係者葬として盛大に挙行された。享年35歳。

[某ブログ]お話 韓国映画(2008年9月2日)‘アリラン’の男ナ・ウンギュ
http://book.interview365.com/34
[KMDb(韓国映画データベース)]ナ・ウンギュ…『韓国映画監督辞典』から評伝が引用されている。
http://www.kmdb.or.kr/actor/mm_basic.asp?person_id=00038451

アリラン 1

1.韓国には外国向けのArirang TVというのがあったと思う。たしか日本には『月刊アリラン』という韓国語の雑誌がある。アリランはかつて米国陸軍第7歩兵師団の行進曲に使われた。北朝鮮では外貨稼ぎのためにマスゲームのアリラン公演を行っている。これは韓半島(朝鮮半島)を想起させる代表曲だろう。

 数年前、ソウルに行った時、名作映画の銘板があるというアリラン坂を探したことがあった。それとおぼしき道路を歩いたが、坂が出てくる前に興ざめしてしまい、予定していた時間も尽きたので引き返してしまった。あれは歩いて訪れる場所ではなかったのかもしれない。単に自分が根性無しなのかもしれない。

 韓国語・日本語・英語のウィキペディアで「アリラン」をひくと、分量では英語版が一番多い。ただ、ウィキペディアを見る限り、この歌を包括的に扱った研究書の類があるのかどうか、よくわからない。

 この歌の由来については大同小異の説明が並ぶ。広く人口に膾炙した話を記録したと思われる説明である。そのごくごく一部を並べてみる。

「アリランは地域別で多様な種類があって、代表的に知られているのはチョンソン(旌善)アリラン、カンウォンド(江原道)アリラン、ミリャン(密陽)アリラン、チンド(珍島)アリランなどである。'キョンギ(京畿)アリラン'または'新アリラン'と呼ばれるアリランは19世紀末〜20世紀始めに作られたものだ。」−韓国語版
「アリランという単語の語源は『我離郎』に由来するなど諸説あるが、決定的な説はない。この歌は元来咸鏡道地方の農民歌であったが、1926年日韓併合下に公開の映画「アリラン」の主題歌として全土に広まったものと考えられる。珍島アリランや密陽アリラン等、様々なバージョンがある。」−日本語版
「アリランのもともとの形態はチョンソン(旌善)アリランで、これは(江原道の)旌善郡で600年以上歌われてきた。しかしながら、アリランの最も有名なヴァージョンはソウルのものである。それは実際には"標準的"ではないものの、いわゆる「本調アリラン」である。これは通常、単に「アリラン」と呼ばれ、比較的最近出来たものだ。かつて韓国映画の黎明期の名作、映画「アリラン」(1926)」で主題歌として使われて広く知られるようになった。」−英語版

 「アリラン」ということばの由来について、韓国語版では、「"アリラン"は峠の名前であり、峠を越える時の疲れやだるさ、赤ん坊を産む時の生みの苦しみ(産苦)の表現で、ハン(恨)の表出であり歌の題名だ。"アリラン"は"アラリ"から由来したという主張も説得力を持っているが、これは最初のアリランのチョンソンアリランが、もともと"アラリ"という名前で呼ばれたためだ」としている。英語版では、「'アリ'は"美しい"を意味し、'ラン'は"あなた(dear)"を意味する(例えば、アリタウンという韓国語は"美しい"、"愛らしい"、"素敵だ"を意味する)」となっている。

 「アリラン峠」については、日本語版でははっきりと、英語版では穏やかに、伝説上の地名としている。韓国にある同名の地名はこの歌にちなんであとからつけられたという解釈である。韓国語版では、その峠の名前がうたの名前になったと読み取れる記述をしているので、主として実在説に立っているようだ。

 日本語版では、「元来咸鏡道地方の農民歌であった」と断定されている。咸鏡道起源説である。これがよくわからない。旌善アリランを指しているわけではなさそうだ。旌善アリランの旌善の所在地はカンヌン(江陵)の南、どちらかというと忠清北道や慶尚北道の近くである。あるいは、韓国語版で「江原道アリラン」と言及されているものが江原道の北辺に伝わるものなら、日本語版の「農民歌」はこれと同じものなのかもしれない。また、そうではないのかもしれない。

 次に、あまり期待せずに手元の音楽中辞典(白水社)を引いてみると、次のようになっている。「朝鮮の民謡。全羅道地方の珍島アリラン、江原道地方の旌善アリラン、慶尚道地方の密陽アリランなど、その地方独特の音階による種々のアリランがある。もっともよく知られているものは京畿道のキン・アリランをもとに作られた新民謡のアリランで、日本の占領下、抗日運動をテーマにした映画≪アリラン≫(1926、羅雲奎(ナ ウンギュ)監督作品)の主題歌に使われ、民族の愛唱歌として半島全域に広がり有名になった。」

 上で引用されている「旌善アリラン」について、現地のお役所のサイトに日本語の解説ページがあった。旌善アリランは1971年12月16日、江原道の無形文化財第 1 号に指定された。この“ 何でも歌になる民謡 ” である旌善アリランの歌詞は現在採録されているものだけでも約1300個を超えるそうだ。「旌善アリランには時代精神がそのまま溶け込んでいる。そして、男女の愛情と切なさ、夫への怨望、嫁いびりの辛さ、姑との葛藤、田舎ののんびりした暮らし、野良仕事の大変さと楽しさ等、 人生の喜怒哀楽がそのまま映されている」([旌善郡日本語サイト]旌善アリランの由来)。

上で「キン・アリラン」ということばが出てきた。旌善アリランの解説ページにもあった。何だろう。本当に恥ずかしい。自分は何も知らない。前に見たZ-inのCFに「キィン センガッ(長考)」というのがあった。「長いアリラン」だろうということで検索する。ここで韓国語版ウィキペディアをあきらめ、向こうのポータルの知識検索でやってみることにする。しかし、自分の耳になじんだ「新アリラン」のもとになったといわれる「京畿道の長いアリラン」に関しては、都合のよい書き込みは見あたらなかった。探し方が悪いのだろう。ただ、動画でうたを聞くことができた。新アリランより長く、ゆっくりしたテンポで、小節(こぶし)の味も堪能出来る。歌詞は全く異なるものであった。

 ところで、自分の手元で「アリラン」と名のつくものを探すと、一枚のCDに収められたARIRANGという曲が出てきた。韓日のミュージシャンが共演した『フッギョン(黒莖)/Black roots』(nices SCP-001PSS)というアルバムに入っている。演奏者はキム・デファン(打楽器)、山下洋輔(ピアノ)、梅津和時(サキソフォン)、そして、カン・ウニル(ヘグム)である。1991年12月3日、ソウルの芸音ホールでの録音。キレの良いパーカッションの音、叙情的なピアノの音、そして馬力のあるサックス・ブロウが印象に残る演奏であるが、このアルバムでヘグム奏者はトリオのプロジェクトにゲスト参加したかたちのようだ。この曲でも要所要所で控え目に、しかし凄味のある音で登場するヘグムの音色をもう少し楽しみたい気もする。

 そういえば、もう一つ、DVDがあった。キム・ギドク監督の映画「春夏秋冬そして春」(2003)の終わり、荒行の場面でアリランが流れる。あれは旌善アリランだ。このうたは老若男女が歌い継いできたのであろうが、あれを聞くと、女声独唱以外での詠唱は想像しにくい。

 結局、自分が慣れ親しんでいる"アーリラン、アーリラン、アーラァリィヨーォオォ"といううたは、「新アリラン」または「本調アリラン」と呼ばれる、昔の映画の主題歌だった。自分は、曲の途中で、"アリアリラン、スリスリラン、アラリガナンネェー"というような繰り返しが出てくるうたも聞いた覚えがある。あれは何アリランなんだろう。

[韓国文化院](日本語)豆知識:アリラン−名前の由来に関する諸説が簡略に紹介されている
http://www.koreanculture.jp/info_mame_view.php?year=all&page=3&number=69&keyfield=&key=
[ネイバー]知識検索のQ&A:アリランに関して−名前の由来に関する諸説が紹介されている
http://k.daum.net/qna/view.html?qid=3uNz5
[旌善郡日本語サイト]旌善 アリランの由来−旌善アリランの包括的な解説サイト。「杜門洞書院誌」という書物の写真が出ている。このサイトでは曲を耳にすることも出来る。
http://www.jeongseon.go.kr/jshome_jp/culture/02.asp
[旌善アリラン研究所]−旌善アリランだけでなくアリラン全般に関する興味深い情報がある。
http://www.arirang.re.kr/

チンホンワン(真興王)

 善徳女王は韓半島(朝鮮半島)の歴史上最初の女性君主であったが、女性が政治の実権を握って治世を行う例はそれ以前にもあった。『三國史記』の新羅本紀だけをネタにするなら、例えば、善徳女王の2代前、第24代 真興王(540−576)は7歳で即位し、その前の第23代 法興王の娘である王母が太后として政治を代行した。太后の父親の法興王の時代には仏教が国教扱いになっているし、その後の世代でも仏教保護は続き、音楽への関心も記録されている。いわば、人文系の支配者による治世とでも呼びたくなる時代の王である。

 法興王の孫であり、幼い頃に即位した真興王は、治世12年目(551)あたりにひとりだちを始めたのではないだろうか。この年の春正月、国号を開国と定めている。そして、同年春三月、王は各地を巡幸して娘城(じょうじょう)にとどまった。これより以前、加耶国の嘉悉王が十二弦の琴を作り、それで一年十二ヶ月の音階をあらわした。そして于勒(うろく)に命じてこれにあう音曲を作らせた。加耶国が乱れるようになるとその楽器を持って新羅に逃れてきたので、その楽器をカヤグム(加耶琴)と名付けたのだそうだ。そして、真興王は娘城に于勒および弟子の尼文を召し出し、河臨宮で新作を奏させた。

治世13年目(552)、王は階古、法知、万徳の三人に命じて、于勒から音楽を学ばせた。于勒はこの三人の才能を見極めて、階古には琴、法知には歌、万徳には舞を教えた。それぞれの学業を達成すると王は音楽を奏させ、とても満足した。

 幼少で即位した真興王の治世は37年の長きにわたる。百済の王女を娶って小妃としたり、百済の東北部を奪い取って新州(漢江流域)を置いたりした。治世16年目(555)の冬十月、王は北漢山を巡幸し、この地の境界を拡張し、確定した。そして、王族・貴族の師弟や、新羅の伝統的な根拠地である六部の有力民を移住させた。今のソウルのあたりを支配下に置いたのであるが、これは百済との確執を激化させもした。

 真興王は仏教に深く帰依し、治世14年目(553)の春二月、黄竜に導かれてあの皇龍寺を建立した。伝説的な「丈六の仏像」を鋳造したのもこの王である。晩年には髪をおろし、僧服を着て法雲と号した。王妃もこれにならって尼となり、永興寺に住んだ。

 治世37年目(576)、秋8月、王は薨去し、哀公寺の北峯に埋葬される。享年43歳。
(東洋文庫『三国史記 1 』より)

 真興王が好んだカヤグムというのは、膝にのせて演奏するお琴のような楽器である。日本のお琴がカヤグムのような楽器なのかもしれない。新羅で音楽が格式と様式を備えつつ組織的に発展していく過程で、音楽好きの王はたくさん存在したのだろうが、自分にとっては音楽好きの王として真興王が印象に残った。

…今年聞いた伝統楽器の音色で忘れられないのはノ・ムヒョン前大統領の国民葬での演奏であった。各種宗教系の聖歌や故人の愛唱曲がやや慌ただしく演奏され、その最後に、黒ずくめの女性演奏者が一人で、たしか、ヘグム(奚琴)を弾いた。何曲かメドレーで続くうち、最後の最後に、即興的な楽想の渦の中から現れたのだと思う。嗚咽するように哀切なアリランの旋律が、微かで芯の強い響きで流れた。その弱音が弱ければ弱いほど、つよく心に響いてくるような旋律だった。

 あの時は、カトリック、プロテスタント、仏教、円仏教の聖職者が法会またはミサをあげ、自分にとっては奇妙にみえる国民葬だった。多元的な価値意識の現場を見る思いだった。まるで国民食のビビンバッそのもののような永訣式だった。そして、あのアリランの旋律は忘れがたい印象を残した。

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