李英愛研究

ネットの記事でイ・ヨンエさんに迫ります

閑話休題

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]

閑話休題(19)

  自分は、なんと「マディソン郡の橋」を劇場で見たクチで、クリント・イーストウッドの出演作・監督作は初期のSF等何本かとウィリアム・ホールデンが出た文芸映画(?)やフォークシンガーを主人公にした映画以外は全部LDかDVDで押さえてある。だが、押さえていない作品の題名はみんな失念してしまっている。二枚組の昔懐かしい「マルチメディア」タイトルで映画「マディソン郡の橋」までの全作品を網羅したCDV「Eastwood」がどこかにあるのだが、今探しても見つからない。最近はイーストウッドの映画をあまり見ていなかった。

  イーストウッドの映画で西部劇なら、自分はなんといっても「アウトロー」が一番だと思っている。次が「許されざる者」、そして「ペイルライダー」と続く。ソンドラ・ロックのファンなのでこの順位は不変である。だから現代劇では「ブロンコビリー」、「ガントレット」、「ダーティハリー4」と続く。オランウータンと協演した映画も自分は認める。出演しないで監督しただけの映画なら「ミスティックリバー」、「恐怖のメロディ」、「バード」となる。いや、「恐怖のメロディ」には出演しているか、…なかなか難しい。

  イーストウッドが出演した戦争物では映画「ハートブレイク・リッジ」が一番好きだ。「兵隊バカ」の主人公のキャラクターは彼の十八番だし、「職業としての軍人」、あるいは軍隊というものについていろいろ考えさせられる。また、第二次世界大戦でもヴェトナム戦争でもなく、朝鮮戦争(6・25動乱)というものを決して忘れない米国人がいるのだということもわかった。

  昨日、久しぶりにクリント・イーストウッドの監督作を見てきた。映画「硫黄島からの手紙」である。平日の昼間で雨模様だったが、最寄りの映画館の客席は8割方埋まっていた。この映画は同一のテーマを日本側の視点で描いたもので、米国側の視点による映画「父親たちの星条旗」も同じ映画館で上映している。こちらはたまたま夜一回切りの上映だったので「硫黄島からの手紙」をとりあえず見た。

  映画「ラストサムライ」を見たときにも感じたが、向こうの映画製作におけるリサーチのものすごさにまず感嘆した。映画に登場するのは日本軍の兵士がほとんどで、台詞もほとんど日本語である。そして、一兵卒から将校、司令官に至るまで、見事な軍服姿であった。回想シーンで出てくる日本の家屋もよく作り込まれていた。「愛国婦人会」かなんかのタスキの文字がちょっと細すぎないかなとか、ごくつまらないことが気になっただけだった。むしろ、千人針というものやその正式な使い方に感心し、愛国唱歌(?)の「硫黄島の歌」の出し方に感心し、その他の小道具の使い方の的確さに感心した。ひところ、米国で日本研究がブームになったことがあるそうだが、一定の研究成果がきちんとデータベース化されているのだろう。

  映画は、陸海連合軍の守備隊司令官栗林中将を通して巨視的に、大宮在のパン屋である西郷という一兵卒を通して微視的に、「硫黄島の地獄」を体験する構成になっている。日系の女性が書いたと思われるシナリオがすばらしい。人間栗林の描き方に無駄がなく、それなりに感情移入できるし、ごく普通の兵士の西郷の方も無理なく感情移入できる。そして、この二人をはじめとする配役のいずれもが見事な演技を見せてくれる。台詞も自然ならそこに出てくる「皇軍兵士」の語彙や言い回しも自然だと思った。しかし、天皇の赤子(せきし)たる軍人といえども愚かな者もいれば聡明な者もいる。弱虫もいれば狂信者もいる。各々の性格は、あまり台詞でごちゃごちゃ語らせず絵で見せてくれる。演出も、脂っこくないイーストウッド・タッチの乾いた描き方で、的確だと思った。なによりも人間を見る眼の確かさと暖かさと明晰さが印象に残った。人間の一番愚かな営みである戦争には勝者も敗者もいないのだと思った。

  戦場の映像はモノクロームの一歩手前という感じの、いわば退色した色調である。それがこの陰惨な戦いに実によくマッチする。戦闘シーンは手慣れたもので、アクション場面の監督(名前は失念)の力量は相当のものと見た。スリバチ山が絨毯爆撃されるところでは思わず大丈夫か、と思ってしまったが、後で考えれば、今はCGの黄金時代である。心配には及ばないのだ。モノトーンに近い陰鬱な色調のなかで、飛び散る血の赤と沈む夕日の橙が鮮やかに印象に残った。

  よくできたシナリオとそれを可視化するための経験豊かなスタッフの存在があればこそ、クリント・イーストウッド監督はこのすばらしい作品を作ることが出来たのだろう。ハリウッドがこのような日本兵の話を映画にすることにも違和感はなかった。そういうことを問題にしたら、例えばイタリアオペラの制作は出来なくなるだろうし、日本の国技の大相撲も興行が成り立たなくなるだろう。

  気障で大げさな言い方をすると、「価値自由」の製作態度が徹底され、そのために当時の日本側の視点で説得力豊かに映像化できたのだと思う。それはいわゆる「自虐的な視点」ではない。自分はこの視点に納得した。夏のソウル以来、久しぶりに頭と胸にぐっとくる映画を見た。

  閑話休題、・・・

閑話休題(18)

  山田洋次監督の映画「武士の一分(いちぶん)」を見てきた。最寄りの映画館は平日の昼なのに8割がた埋まっていた。これは、山田監督による藤沢周平原作の時代劇三部作の最後を飾る作品だそうだ。映画「たそがれ清兵衛」、映画「隠し剣鬼の爪」そしてこの作品と見比べると、話としては短編三作を混ぜ合わせ「たそがれ清兵衛」が一番面白かった。どう混ざるのか期待して見に行って、それほど違和感がなかった。全編に語りが入り、清兵衛の娘の回想の形で構成した「たそがれ清兵衛」のラストシーンには賛否両論あったようだが、自分はあれで良いと思った。なにしろ岸恵子の語りと回想なのだ。よしとしなければならない。そして、手慣れた作りの「武士の一分」もそれほど悪くなかった。で、残念ながら「隠し剣鬼の爪」は他の二作に水をあけられていると自分は思った。

  藤沢周平作品では、昨年、映画「蝉しぐれ」も見たが、これは作品の雰囲気、海坂(うなさか)藩の空気感みたいなものが上記三作品には及ばないと思う。もちろん自分勝手な鑑賞評である。藤沢作品を二読、三読した上で見ているので気になるところが多かった。やはり主人公は少し泥臭いほうがいいのだ。それに、あの長編をあの時間にまとめたシナリオは労作だとは思うが、原作のドキュメンタりというか、くそ真面目なレジュメみたいになってしまい、平板だという印象を持った。そのわりに剣戟シーンはサーヴィス精神たっぷりで、それにもちょっと首をかしげてしまった。

  映画「武士の一分」は、「隠し剣秋風抄」という剣客小説集に収められた短編「盲目剣谺(こだま)返し」が原作である。これしか使っていない。原作は三人称で書かれているものの、新之丞の一人称に近い構成で、これが短編小説としてよくまとまっている。緊密な構成やラストの開放感の醍醐味は格別である。もともと藤沢周平作品はすぐれて映画的なのだが、この映画では原作にない場面を加えた脚色が施され、設定等も改変されている。しかし、三人称でうまく脚色された映画的構成ではないかと思った。シナリオには女性が参加し、山田監督を含めて三名の合作である。登場人物は主役の二人を除いて、実際にこういう人たちがいたのではないかと思わせる面構えである。加世(壇れい)は若い頃からその美貌が評判の海坂小町、そして新之丞(木村拓哉)も凄腕の美剣士という設定だから、まあ、仕方ない。加世の描き方が実にきめ細かく、存在感があったのはシナリオに女性が参加していたからかもしれない。木村拓哉も渾身の演技で難役に体当たりしていたことがわかる。

  山田監督としては、劇中のエピソードとして時代劇場面を含んだ作品を除けば三作目の時代劇である。東北の貧乏藩の平藩士の日常生活のディティール描写にも磨きがかかり、実在感のある映画になっていると思った。例えば、緊迫感のある凄まじい剣術の稽古をしている、その向こうに、のんびり表を掃除する人が見える。新之丞家の下僕の老爺がはまり役で、その風貌はこういう人が当時いたのではないかと思わせる。加世が裸足で正座したときに見える足の裏は、両足で歩きに歩いた当時の事情をしのばせる。城中の膳所の様子、料理番の調理の様子も興味深い。お城の場面では定番の彦根城が時々出てくる。これは大好きな城である。天守閣が現存している城の中で往時を一番想起させる城ではないかと自分は思っている。この映画を見ながら、なぜか時代劇全盛期のモノクロ映画を思い出した。まあ、ありていに言えばマンネリなのだが、退屈はしなかった。

  この映画は、原作を読んでから見ても、読まずに見ても楽しめるだろう。ただ、原作では「武士の一分」という言葉は一回しか出てこない。映画では三回出てきた。新之丞が二回、同僚の藩士が一回口にする。一回だけか、せいぜい新之丞と同僚の二回でいいように自分は思った。決闘場面は一応原作を踏襲しているが、いわば現代的な脚色が施され、工夫が施されている。単純な勧善懲悪、または単なる私怨の復讐に堕することを嫌ったのだろう。これはこれで悪くないと思った。

  主人公のこの映画での性格づけからは文明開化の音が聞こえる。そういう性格づけなので、やや一本調子で時に軽薄に見える木村拓哉の演技も、まあいいか、と思えてしまう。この役者、ただの客寄せとも思えないが、緒方拳や桃井かおりとサシで芝居をしたらアラが目立つのは仕方ない。それを計算に入れた演出だったのではないか。むしろ、木刀を握った姿はちゃんと腰が据わり、なかなかのものだった。それに、主人公の暗黒面をもっと掘り下げると娯楽映画としては重くなる、との判断もあっただろう。

  だが、壇れい演じるひたむきな妻の姿には説得力があったと思う。この話は新之丞の痛みを描くとともに加世の痛みを描いている。それを小説以上にきめ細かくフォローしていると思った。この女優の演技は初めて見た。いい役者だ。見ようによっては和装より洋装の方が似合いそうなバタ臭い顔なのだが、生まれたときからきものを着ているように見える。横顔が美しく、もう少し面長だと韓国で消費者の人気ナンバーワンの女優に似ているなと思って見ていた。

  …それはともかく、抑制された精確な文章によって藤沢周平作品に描かれた身分社会の平侍の悲哀や感慨は、「自由な」時代に生きる人間にも不思議と重なる。そうした重なりがこの映画でも一応確認できた。まあ、そんなにうるさいことを言わなくても、藤沢周平の小説はなによりも娯楽小説として無類に面白い。映画の方は、少しお行儀よくまとまりすぎているかな、とも思えたが、娯楽映画としてそれほど悪くないと思った。

  藤沢周平作品では「用心棒日月抄」より前の「暗い」作品群が自分の好みなのだが、映画向きではないかも知れない。円熟期の作品で、例えば剣客物なら、「秘太刀馬の骨」を映画で見たいと思っている。原作は短編連作のかたちで一本の映画にまとめにくい。しかし結末の意外性からするとこれが一番映画向きではないだろうか。

閑話休題(17)

  [連合ニュース]は、いわゆる中道の報道機関で、事件や災害等の出来事を偏りなく忠実かつ網羅的に、しかも迅速に報道することを旨としていると思っていた。なにしろあのキム・ギドク監督がメールを送って自分の胸の内を伝えたメディアだ。それに、今年ベルリンに行ったイ・ヨンエの現地インタビューで一番読み応えがあったのもこのメディアの記事だった。ネットにつなぐとまずこのサイトを覗くのが半ば習慣になっている。

  それが、ここにきて疑問に思えることがある。まず、現在韓国で話題になっている386スパイ疑惑事件の扱いだ。韓国語版は問題ない。「386スパイ疑惑」などという刺激的な表現は使っていないものの、連日記事を配信し、<時事評論>で取り上げてもいる。しかし、その日本語版にはこれに関する記事が抜け落ちている。民主労働党の訪北団関連の記事で若干ふれている程度である。[朝鮮日報]、[中央日報]、[東亜日報]の三大紙の扱いに比べると明らかにおさえていることがわかる。これが中道たる所以なのだろうか。

  日本語版でスパイ容疑の話をおさえている理由はわからないでもない。現在進行中で、野党第三党(9議席)の政党を巻き込んだ大規模なスパイ事件に発展する可能性もあるし、疑いが晴らされて国情院と検察の勇み足だったという結末もありうる。もう少し事実関係がはっきりするまで様子を見ているのかもしれない。国内のスパイ事件を根掘り葉掘り報じることが日韓の親善友好に資するとも思えない、との判断であろう。

  次に、韓国語版に10月30日(18:31)送稿の『北朝鮮、飢餓で北朝鮮脱出難民危機』という記事がある。ロンドン特派員からの記事で、'Independent'という英国のインターネット新聞の記事を翻案した内容である。翻案だから元記事のポイントを外していなければよいのだが、これには大いに首をかしげた。

  元記事は、"Fear of famine is creating North Korea refugee crisis"というもので30日付である。朝鮮半島(韓半島)の核危機とそれによって北朝鮮の人民が被る災厄に関して、国際危機グループ(The International Crisis Group:ICG)という団体の専門家の発言とこの団体の報告書"Perilous Journeys: The Plight of North Koreans in China and Beyond"が引用されている。

[連合ニュース](10月30日)『北朝鮮、飢餓で北朝鮮脱出難民危機』
http://www.yonhapnews.co.kr/news/20061030/021200000020061030183134K2.html
[Independent](10月30日)"Fear of famine is creating North Korea refugee crisis"
http://news.independent.co.uk/world/asia/article1940791.ece

  [連合ニュース]の記事は、上の'Independent'の記事を引用して、飢餓の恐怖から脱北者が増え、中国国内に多数が潜伏しているとし、こうした状況を改善するためには中国政府が努力するしかなく、北朝鮮人権問題に対して最大の声を出すアメリカとヨーロッパ連合会員国たちもこの問題を認識してもうちょっと多くの脱北者たちが再定着することができるように受け入れなければならない、というICGの報告を孫引きして終わっている。元記事をうまく縮めた、韓国にとってはまるで他人事のような記事である。そして、ちょっと気になる記述があった。

  [連合ニュース]の記事に、

「北朝鮮に飢餓が近付いており、今年の夏の洪水で農作物収獲が打撃を受け、来る冬は特に寒い冬になるとICGは予想している、とこの新聞は伝えた。」

というくだりがある。元記事は、

"The International Crisis Group says famine is approaching in the North. This winter is expected to be a cold one and summer floods destroyed a portion of the country's harvest."

となっていて、ほぼ直訳したことがわかる。問題はその後の記述である。すぐ続けて、

「国際援助食糧の減少と自然災害が重なって、来る冬北朝鮮は数百万名が飢餓で死んだ1990年代中盤のように何らの食糧を求めることができない状態に至ることもありうる。このような困境を避けるために北朝鮮住民数千名が命をかけて脱北者の隊列に加わっている。」

とある。元記事は、

"This natural disaster combined with less aid because of the nuclear crisis and Pyongyang's refusal to allow charities to monitor distribution, could mean no food this winter, as it did in the mid-1990s when millions died of hunger. Thousands of North Koreans are risking their lives trying to escape their country's hardships."

となっていて、"the nuclear crisis"と"Pyongyang's refusal to allow charities to monitor distribution"が「less aid」の理由としてあげられている。そして、これらの理由が偏向した特別の立場を表しているとも思えない。例えば、これが韓国の対北包容政策を批判しているなどとひねくれて考えることは出来ない。ごく一般的な国際常識だと思う。しかし、[連合ニュース]の翻案ではいきなり「国際援助食糧の減少」である。

  韓国語版を読んだ多くの人は"the nuclear crisis"のために「国際援助食糧の減少」が起きているのだろうと漠然と理解するかもしれない。しかし、モニタリングの方はどうだろう。支援物資に対するモニタリングが不透明であるという話は今に始まったことではない。韓国政府の支援などはその使途が闇の中なのではないかと思わせる心許なさだ。せっかくの支援が人民の側ではなく支配者や軍隊にだけ渡るのは、支援する側の誰も望んでいないのだ。この点に関して、韓国の読者はどう思っているのだろう。先軍政治だから人民すなわち軍隊だ、などという詭弁は通用しない。…今まで、韓国の、特に進歩派言論の記事を読んでいていつも気になっていたことがこの記事にも小さく現れている。モニタリングの問題に触れずに支援の問題を扱おうという姿勢である。そういう記事ばかり読んでいたら、モニタリングの欠如が支援を減らしているなどという発想は生じにくいのではないか。

  やはり、支援のモニタリングへの言及を抹消した翻案の仕方には首をかしげざるを得ない。自分は物好きで元記事をあたってみたが、上の記事を読む人が皆そうするとは思えない。事実、自分は今までこのたぐいの記事が出てきても、ああ、そうなのか、と読み飛ばしていた。「民族共助」にモニタリングなどという水臭いことは不要か、またはそれほど神経を使う必要のないことだというのなら、それはそれで仕方ない。同民族同士の話である。北朝鮮の支配者に誤ったシグナルを送ることになっても何をか言わんや、である。ただし、そういう誤ったシグナルで周りが迷惑することは理解しなければならない。北朝鮮の下層の人民にとっては迷惑以上の問題だと思う。また、中国も含めて、韓国以外の国々からの物的支援(食料・物資・現金)を同民族同士の感覚で捉えてもらっては困る。ましてや、「人道的支援」というときの「人道」の意味を「民族共助」のフィルターを通して見てもらってはますます困る。使い途もわからず無闇に支援することは人の道に沿ったことではないと自分は考える。

  …いつのまにか、こういう場所で書いても仕方ない話になってきた。しかし、この話は中道本流と信じてきた[連合ニュース]への素朴な疑問である。そして、韓国の進歩派言論一般に対して日頃疑問に思っていたことでもある。まさか、「南北交流」報道の機会のために、北の対外連絡部が読んでも機嫌を損ねないように書くことが習い性になっている、というわけでもないだろう。どうなんだろう。

  閑話休題、・・・

閑話休題(16)

  忘れもしない。2003年2月、元プロレスラーの吉村道明が亡くなった。確か享年76歳だった。吉村道明は引退後プロレスとは縁を切り、母校である近畿大学で古巣の相撲部の顧問をしていた。吉村道明の「回転エビ固め」、大木金太郎の「頭突き」、このタッグは幼い頃の自分のアイドルだった。どういうわけか、「プロレス」という言葉で自分が思い出すのは力道山や馬場や猪木ではなく、大木や吉村、豊登、遠藤幸吉といったバイプレイヤーである。両手を抱え込むようにして体側に当て、「カッポン、カッポン」という音を出す豊登の仕草と音は今も忘れられない。何がどうなっているのかわからないような吉村の素早い技、相手の頭と言わず背中、肩、腹にまで繰り出される大木の頭突きのパワーが忘れられない。大木と吉村のタッグは、今振り返ってみれば、静と動のバランスが絶妙な渋いコンビであった。そして、昨日(10月26日)、大木金太郎ことキム・イルがソウルで亡くなった。77歳だった。

  プロレスのある日に、近所の旅館だったか公民館だったか、とにかくテレビが見られるところに出かけていって見せてもらった。相撲や野球はラジオで満足していたのか、やはり見せてもらったのか、はっきりしない。しかし、プロレスは見ないことには始まらなかった。家にはじめて白黒テレビが来たときも、プロレスを自宅で見られることが何よりも嬉しかった。父が大のプロレス好きで、オーバーヒート気味に応援する。そのたびに母がうんざりしたような顔をしたのを思い出す。そして、いまも頭に残る格闘場面はなぜかすべてモノクロームである。家にいつまでもカラーテレビが来なかったのか、記憶が曖昧になっていてよくわからない。ブラッシーは覚えているような気がする。ボボ・ブラジルははっきり覚えている。ミル・マスカラスは名前は知っているが、このころはもうプロレスを自発的に見なくなっていた。

  プロレスが大好きだった頃、学校で前の晩見た試合の話をして、あれはみんな八百長だと訳知り顔の友人に揶揄され、むきになって抗弁したことが懐かしい。なぜ、むきになったのだろう。今のプロレスのことは全く知らないが、自分が覚えているプロレスは、大木や吉村や多くの選手たちは、出し惜しみをしなかったのだと思う。うまくだまされたのか、単にぼんやりしていたのか、少なくとも自分にはそう見えた。出し惜しみをしない試合を見て、出し惜しみせずに熱中した。

  キム・イル、いや、大木金太郎は、韓国プロレス界でも一時代を築き、1980年に引退するまで3000回試合を行い、世界タイトルを20回防衛した。引退後は後進の指導にあたるなど韓国プロレス発展に尽くしたが、90年代に事業に失敗した後脳卒中に倒れ、入退院を繰り返した。晩年は各種の病気を併発して痛ましい状態だったようだ。先月10日、チャムシル(蚕室)球場で行われたプロ野球始球式で車椅子に乗ったまま投球したそうで、これがファンの前に立った彼の最後の舞台となった。そして今日(10月27日)、文化観光部のキム・ミョンゴン長官から体育勲章青竜章が贈られた。

  大木金太郎さん、ぜひ向こうでも吉村道明さんとタッグを組んでください。

  ご冥福をお祈りいたします。

  閑話休題、・・・

閑話休題(15)

  コンピュータの調子が悪くなって、Safe Modeで様子を見ようと立ち上げたらF8を押してもリブートと起動を繰り返すようになった。つまり、長年使ってきた機械がただの箱になってしまった。開かれた社会には敵も、多いのか、なあ。…ただし、いまだにFAT16でやっていたのでFDからDOSを立ち上げてハードディスクの中身を見ることが出来る。物理的損傷とか寿命とかいう話ではないので、不具合を起こした正体不明の実行ファイルを探して駆除し、OSを再インストールするか、最悪でも別にハードディスクを用意すれば今までため込んだファイルを救済することは出来そうである。幸い、買い置きのハードディスクがあるはずだ。しかし、側板をはずして中をさわったり、かったるい再インストールをする気になれないので、小型で薄手のデスクトップ型を押入から引っ張り出して代用することにした。

  CPUの速度はがた落ちするしビデオはオンボードの遅いやつである。サウンドもYAMAHAのチップがオンボード、主メモリは確か今までの1/3しかないはずだ。決定的に弱いのはハードディスクの容量である。周辺機器も接続し直さなければならないし、フライトシミュレータで遊んだり大きな画像の処理をしたりすることはあきらめなければならない。クロックを上げてDVDを見るためにはもう少し寒くなるまで待たなければならない。しかし、さしあたりネットにつながって文字さえ読めれば御の字なので、何も手をかけずに当分これで行くことにした。そこで、この機械にディスプレイをつないで起動してみると、ブラウザはインターネットエクスプローラ(IE)の5.0であった。OSはなんにも添え字のないWindows98である。といっても今まで使っていた機械の方はSEだったから、若干不利になるだけである。OSはもう一つ、おまけでKondara Linuxの古いヴァージョンが入っていた。この部分を切り直せば容量を増やせる。

  モデムをつなぎ、まず時計を合わせる。1095秒も進んでいた。次に、ブラウザのIEをしばらく使ってみるが、ヴァージョンの古い新しいにかかわりなく、やはりこのブラウザは性に合わない。さっそくFirefox( http://www.mozilla.com/firefox/ )をダウンロードした。ダイアルアップ接続環境の強い味方である。日本語対応の最新版でも5MBぐらいしかない。最新版は1.5.0.7でGeckoエンジンは9月9日付である。すぐにダウンロードできてすぐに使える。やはりこれだ。これのタブ機能を古いIEで実現するフリーソフトも使ったことがあるが、なんというか、動作のキレと速度、安定感が違う。もちろんまだまだ発展途上のブラウザだからクラッシュが起きないわけではない。しかしふつうに使っている分には無敵であると自分には思える。すぐにNoScriptをインストールし、韓国語等を読めるように環境を整え、前の状態に近づけた。いくつか見慣れたテーマをインストールしなければならない。苺を食うときに普通のスプーンでもかまわないが、自分は苺スプーンを愛用している。

  この機械を使ってみて、大きな問題に気づいた。音である。前の機械は結構大きな筐体だが静音設計を謳っており、やはり静音設計の電源と対策済みのハードディスク・ケースのおかげで比較的静かであった。しかし、これは熱対策の排熱ファンまで付けてあるのでうるさい。なんか気になるなあと思ったら、ハードディスクの「キーン」という長い音であった。この「キーン」が排熱ファンの音と混ざって長周期のうなりを生じている。さらに、入手当初に付いていた薄型のCD-ROMドライブが壊れて、その後通常サイズのDVDドライブをつないだが、ドライブが中に入らないのでガムテープで「外付け」されている。これが動作するときの音もバカにならない。なんでこの機械を使わなくなったのかやっと思い出した。

  閑話休題、・・・

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!
ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事