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キム・ギドク監督の映画「弓(Bow)」を見てきた。平日(金曜日)の昼の上映だったが、観客は数十人で高齢者が多かった。女性ばかりというわけでもなかった。ソウルで映画「時間(Time)」を見た時もやはり数十人の観客で、こちらは若い女性が多かった。恵比寿ガーデンシネマで「うつせみ(3-iron)」を見た時にも思ったが、キム・ギドクの映画は、例えば昔の池袋の「文芸座」とか、ああいう小屋で上映してくれるとありがたい。昔の下北沢の「すずなり」とか、芝居小屋でうずくまって見るのも悪くなさそうだ。しかしこれは今となっては贅沢というものだ。ル・シネマの豪華で落ち着いたホールで映画を堪能した。
今回見直して、DVDで見た時に見落としたり誤解していることが多いのに気付いた。舞台となる船には名前がないと思っていたが、「インイル(仁一?)」という船名が舳先に書かれていた。また、自分が入手した韓国製のDVDでは色彩が寒々として鮮明ではないように思ったが、大画面で見るとそれほど寒々としていないし、赤・黄・緑の象徴的な三色は割と鮮明だった。仮に、赤が主人公の少女の色、緑が老人の色と捉えると、黄色は誰だろう。青年の色ということになるのか。今回はそのあたりを見極めようと思ったが、やはりよくわからなかった。
また、人間の目に近い画角が多用されていると思っていたが、そうでもなく、変化に富んでいるように感じた。やはり映画は21インチ程度のディスプレイで見るものではない。現在はテレビでの放映を意識した絵作りの映画が多いし、この監督の作品にはテレビ向きの絵が多いと思うが、映画「春夏秋冬、そして春」やこの作品は大画面向きのようだ。ただし、大画面は俳優の演技には酷である。ことに主人公に台詞がない場合はなおさらだ。今回、とくに少女の表情がやや生硬ではないかという印象を持ってしまった。
この映画で展開される神話ないし寓話について、未だにはっきりとした言葉にはならない。映画「悪い男」と映画「サマリア」を合わせたような話かな、という程度の単純な理解である。ノドに傷を持つヤクザと警官である父親を合わせると釣り船の老人になるような気がする。ヤクザ、父親、老人のいずれも暴力的で過激な行動をする。映像表現の過激さは順に逓減しているが、彼らの世界の本質は変わらない。愚かで切実で暴力的である。女世界の女子大生、女子高生、少女が性(セックス)を通して男世界と交わる。映画「弓」ではそのことが穏やかに暗示されているだけだが、基本の構図は変わらない。男世界でうまく世渡りできないヤクザ、父親、老人は愚かで切実で暴力的な行動を起こし、日はまた昇り、世の中は動いていく。
キム・ギドク監督の映画で語られる話は、いわゆる「大学二年生の疑問」のようだなあ、という感慨を新たにした。なんというか、気障な表現をすれば、そんな韓国語があるかどうかわからないが、「セッキイヤギ(悪たれ話)」なのである。大人げない話なのだ。分別のある大人が忘れてしまったか、分別のある大人のふりをしている人が避けている話なのである。キム・ギドクは「韓国のアンファン・テリブル(今年のトロント映画祭のホームページ、映画「時間」の紹介欄より)」なのだ。
映画「弓」をDVDで見た時にはキム・ギドク監督もややテンションが落ちたのではないかと思った。映像で見せる話というより、観念的に語る話のように思えたからだ。今回、好ましいかたちで見直してもその思いは変わらなかった。しかし、最新作の映画「時間」を見て、映画「悪い男」を見た時の衝撃を思い出した。もちろん、過去の自作を模倣しているとかいう話ではない。台詞が多いにもかかわらず、徹頭徹尾映像で見せる話になっていたからだ。
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