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きのうは愛国心押付けの教育基本法に反対する集会(日比谷野音)へ行った。主催者側発表3千名。国会へデモもした。高橋哲哉や福島瑞穂、君が代を歌うのを拒否して罰金刑を課せられた板橋高校の藤田さんも来ていた。個人で行ったので、市民団体の旗のところにチョコンと坐っていた。インターネットでダウンロードした立川川反戦ビラ有罪判決についての署名用紙をコピーして持っていったら、頼んだ人全員が署名してくれた。こういう場所に行くと同じ思いの人が大勢いてとても力づけられるのだけれど、自分の生活している場で話をしたり署名を集めたりするのはとても難しい。ほんとうは生活の場で自分の思いを語り、対話していかなくちゃいけないんだけど、とてもとても難しい。
私が非常勤で勤めているカトリック学校では、卒業式で君が代を歌う。卒業生が入場するやいなや聖歌よりもお祈りよりも先に君が代を歌う。ぶったまげた。着席する勇気はなかった。着席したら翌年はクビになるだろう。非常勤だからクビにするのは造作ない。「君が代を歌わなかったから」と言われるのではなく、「来年の授業のコマがないから」といわれて終わりだろう。
キリスト者よ、なぜ君が代を歌うのですか。キリスト教会が戦時下でどんな目に遭ってきたか知っていますか。君が代は天皇をたたえる歌です。「千代に八千代に」天皇制が続くことを願った歌です。戦時下で、キリスト者は宮城遥拝や靖国参拝、教育勅語への礼を強制され、神以外のものを拝むことを強制されました。「それは国民としての義務であり、国家儀礼だから、キリスト教信仰とは相反しない。」と言われました。それなら、ということで天皇を拝みました。そして日本の戦争に協力しました。韓国や台湾のキリスト者に天皇を拝み、日本の「解放戦争」に協力するよう訴えて回りました。(韓国のクリスチャンの中にはこれを拒んで逮捕投獄された方々も多くいます。)そうして日本は戦争への道を突き進み、国民への統制も日ごとに厳しくなり、そのうち聖書を読むことさえ禁止されるようになりました。もし私たちがその罪を悔いるならば、今なぜ君が代を歌うのですか。靖国参拝は国家儀礼であり宗教ではない、というかつてと同じ政府の説明に黙するのですか。
学校の80年誌を読んでみた。「本校においても国策に沿う教育をすることが要求され」たが、「今日の冷ややかな客観的見方から、これを評価することは果たして正鵠を得るだろうか」と書いてあった。むしろ圧迫された当時の学校当局者の苦衷を知り、戦時下をけなげに生きた生徒の純真を思うべきなのではないか、と。
私は今日の高みから当時の学校当局者やクリスチャンを批判することはしない。
しかし、ならなぜ今君が代を歌うのですか。教育基本法が改悪され愛国心(戦時下の日本のように、国の支配者が考え、定義する愛国心です)が押付けられようとしているときに、隣国の人々の傷をえぐるようにして、首相が靖国参拝を続けているときに、この流れにさからわず、率先して君が代を歌うのですか。
悔い改めは神様とのつながりを回復することです。過去の日本の過ちを反省しようとすると、「自虐史観」などと言われるけれど、キリスト者は悔い改めることによってより大きな神の恵みを受けることをしっています。今日本は大変な時期にさしかかっています。どうかこの時代を見てください。どのような時代に私たちが生きているのかを。
転載元: キリスト者として今を生きる
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