|
これは やちよ27さんのブロク
私の散歩道(その48) 諸悪の根源 ストレス論 に触発されて記す意見です
私の生まれ育った茨城県(日立市)は、原子力開発時期、研究施設を含め殆どの施設が集積していた。東海村だ。 原子力の教育施設も多かった。遠足など、かなりの機会にその教育施設を訪れた。 原子力の恐ろしさを教えるコーナーは無かったかと思う。 前の職業で、それらに係わる 具体的には 今は統合された「動燃」(動力炉核燃料開発事業団)の施設、消耗品を設計していた事が有る。 その入構、退出は厳重を極めた。 今の原発災害に携わる人々の出立ちで有る。 それまで受けた知識からは、かけ離れた厳重さだ。 大人になっても、縮小はされたが、かろうじて残った原子力教育施設を訪れた。 物理的な興味からだ。 放射線は宇宙からも降り注いでいます。とデモンストレーションする「霧箱」に興味が有り、これを手作り出来ないかと、何回か訪れた。 「霧箱」は、「だから心配はいらないよ」と言いたかったのだろう。 その施設の片隅に、JCO臨界事故の記録コーナーが目立たないようにある。 この事故当時、娘が常磐線を通学に使っていた。 丁度事故の時、乗車していた電車は、東海村駅でドアを開放し緊急停車したのだ。 幸い、その後のスクリーニングで娘には異常はなかった。 社会に、最悪を想定したシナリオが全く無かった。何かの際、どうすべきかシュミレーションされて無かった。 JCOの事故も、個別な会社の話であるが、社会に最悪のシナリオを検討しておく社会的環境が有れば、もっと事業に係る監視は有効なものとなっていたろう。 この事故の記録は先に述べた展示だけだ。 いまでは、事業所の、極端には、作業員の慣れによる作業手順の無視と片づけられ、記憶の奥に片づけられた。 一命をとりとめた作業員のその後は一般には知り得ない。・・・マスコミもその後を多く語らない。 この事故の際、原子力には、慣れは許されず、まさかを想定しない事がいかに危険を、少なくとも原子力に携わる者が声を上げていれば、3.11に続く「原発災害」は軽減されていたのかと思ってしまう。 記述後 追記すれば、形式的には法律は出来た。形式的だから、その法律に基づいた訓練を、菅首相(当時)は、記憶に留めなかったのだろう。 さらには、原子力の真摯な推考がなされなかったのだ。 思いは、また 改めて書き続けよう。 |
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2012年02月13日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]


