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2006年9月29日
写真は、我が家のスモモの花です。桜と同じ時期に白い花を咲かせます。華奢で弱々しく、桜のようなあでやかさはありません。散り際も花びらが一枚ずつ静かに散っていきます。
さて、福島県の知事の命運が風前の灯だったのですが、とうとう身内の犯罪行為で辞任に追い込まれました。5期目だったそうですが、評価に値する政策をきちんと実行してきた人だっただけに残念でなりません。
ところで、何かの疑惑を持たれた人がテレビカメラの前でよく口にする言葉があります。
「心に一点の曇りもなく、天地神明に誓って身にやましいところはない」
それが本当なら、それはそれで結構なのですが、これだけだと単なる強がり、虚勢と受け取られます。もし、あなたが同じ立場に立ったら、これに加えてもう一言いいましょう。
「仮にも疑いを持たれたことについては、身の不明、不徳を恥じるものである」
恥じるというのは、反省するというのとほぼ同義語です。本当に無実であってもこう付け加えた方がいいのは、東洋にはこういう格言があるからです。
「李下に冠を正さず 瓜田に履を納れず」
この言葉は、不祥事が発覚するたびに登場します。最近では、日銀の福井総裁の村上ファンド疑惑のときに谷垣財務大臣によって使われました。大臣曰く、
福井総裁が1000万円を村上ファンドに資金を拠出したのは民間人のときだから、法に触れる問題ではない。しかし、日銀は金融政策を担っており、現在はその総裁である。李下に冠を正さずという言葉もある。日銀としてもその辺に意を用いてほしい・・・・・・
厚顔無恥の福井総裁は、問わず語りに真実を暴露してしまい、運用益は国民のために使ってもらうと言い出し、挙げ句の果てには日銀全職員に一部の株取引を禁止する通達を出す始末。そんな汚い金はいりませんし、連帯責任で分母を増やして責任を矮小化しようとする姑息な魂胆も丸見えです。
さて、この格言は次の歌から出ていて、その歌の解説は次のとおりです。
古楽府・君子行
君子防未然
不處嫌疑間
瓜田不納履
李下不正冠(以下省略)
君子は未然に防ぎ
嫌疑の間に處(お)らず
瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず
李下(りか)に冠を正さず。
君子たるものは、人から疑いを招くような事を未然に防ぎ
嫌疑をかけられるような振る舞いはしない
瓜畑の中で靴をはくな(そんなところでうずくまるとウリ泥棒と間違えられる)
李(すもも)の木の下で冠をかぶりなおすな(そんなところで手を上げるとスモモ泥棒と間違えられる)。
一般には、誤解を受けるようなまぎらわしいことをするなという意味で使われます。
原文からすると、瓜田が先ですが、李下の方が語呂もいいし、光景としても美しかったのでしょう、李下が単独で使われることが多いようです。
ちなみに、 楽府とは、漢の武帝のときに設置された音楽をつかさどる役所のことで、そこで採集された民間歌謡の名称となったものです。君子行の「行」には、「行い」という意味と「楽府の曲」という意味があり、ここでは、「君子の歌」という意味だと思います。
ところで、言葉は使ううちに意味が変わります。「君子危うきに近寄らず」という格言も使いようでは卑屈なことなかれ主義と受け取られがちです。「李下の冠」もその危険がありますが、そうではあってはなりません。
他人からみたら自分のやっていることがどう見えるかということを常に意識して、思慮深く慎み深く行動せよというように理解して処世訓としたいと思います。他人から見たらというのは、健全な常識から見ればどう見えるかという意味でもあります。自己中心的、権利意識ばかり旺盛な人が多い昨今、こういう視点で、我が身の立ち居振る舞いを顧みることがとても大切だと思います。
ところで、「天地神明に誓って」という発言が地上で出るたびに、その誓文を誰が請け負うかで八百万(やおよろず)の神々の間に波紋が広がります。経験則上、そんな誓文はやましいところがあるからいっている場合が大半なので、神様達もだれも請け負いたくないからです。だから、もし自分がそういう立場になったら、うっかり天地神明などと口走らないことです。かえって重い神罰が下る結果になりまから。
俺は大して偉くもないから誰も賄賂など持って来ることもないし、そんな格言と関係ないと思っている人いませんか。実は、この古楽府・君子行には続きがあります。例えば、「嫂叔は親授せず(密通を疑われないよう、兄嫁とは親密に接するべきではない)」というようなくだりです。
今風にいうと、男女の間はとかく難しい。不倫、セクハラ、痴漢等々・・・。今昔物語に出てくる久米の仙人(雲に乗る神通力を体得したが、空から洗濯中の女性の白い太ももを見て神通力を失った。)以来、最近ではミラーマンやら常習痴漢のあだ名を得た植草先生に至るまで、残念ながら聖人君子といえどもこの道だけは怪しいものです。難を避けるには、意志を堅くして疑わしい態度や行動はとらないことしかありません。
そのほかにも、いつ何時、濡れ衣に等しい疑いをかけられることがあるかもしれません。そんなときでも、普段から「李下に冠を正さず」という清廉潔癖の姿勢で身を処していればまず大丈夫です。ただし、ときとして、これを貫くのは大変なこともあります。
みなさんの職場では、コンプライアンス(法令遵守)という言葉が繰り返し使われていませんか。余り繰り返して言われるものだからこれさえ守っていればいいと思っていませんか。
大学の法学部で最初に勉強するのは法学概論です。そこで習うのは、「法は最低の道徳である」という言葉です。
コンプライアンスさえ守っていれば人間としての義務は果たしたなどと思うのは大間違いです。そんなもの、どんな人でも守らないといけない最低限の義務を果たしただけのことで、せいぜい罰則が適用されない程度のものに過ぎません。人の道、倫理の命じるところに従って行動することこそが大切なのです。そうすれば、自然に最低の道徳である法律の要求するところなど守っていることになります。
ただし、法学部出身のエリートである弁護士は、金さえもらえば白いものでも黒と平気でいう口の達者な詭弁屋と思われることも多いです。テレビで凶悪犯の弁護士が会見していてそう感じたことはありませんか。仕事で弁護士を相手にしていても、いかにも自分だけが正しいというような居丈だけな姿勢を感じます。
弁護士は依頼人の利益を最優先する人だと思ってください。商売だから当たり前のことですが、彼らは決して自分に金を払わない人のためには行動しません。その結果、弁護士は、その仕事が正義を守るという崇高な職務を担い、社会的地位が高い割には決して心から尊敬されることはありません。
いずれにしても、まともな人間は、正義と道徳と人間としての矜持(きょうじ)の命ずるところに従って行動しないといけないのです。天網恢々疎にして漏らさず、これを守らなかった人には、いつの日か必ず神々の厳罰が下ることでしょう。
我が家には、表と裏にスモモの木を一本ずつ植えています。6月初めの青いうちから実をかじるのが目的の大半ですが、ほんの少々別の目的もあります。それは、毎日出勤時にこの木を見て「李下に冠を正さず」という格言を思い出し、人生の自戒とするものです。完。
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