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2011年5月5日(金)
今、宮城県栗原市にある孤雲屋敷にいます。
奥から入り口側を見たところです(写真①)。広い土間に囲炉裏が大きくはみ出しています。 これが囲炉裏です。太い縄で吊った大きな火格子、竹の筒を使った自在鉤、細長い炉、弁慶や吊った唐辛子もあります(写真②)。
板敷きの間に上がりました(写真③)。 仕切りはなく囲炉裏のあるところにつながっています(写真④)。 唐辛子と弁慶です。弁慶は藁製の筒に竹の串を刺すもので、川魚を串に刺して燻製にするのに使います。ハヤなどの川魚は一般に水っぽくてまずいのですが、こうすると美味になります(写真⑤)。 自在鉤に使われている竹は根元の部分まで細工して美しい曲線を描いています。いわゆる留め具は普通の木ですが、魚の形をしたものも多いです。鍋を引っかける鉤には細長い金属の棒が付いていて、竹筒の中を通っており、横木と呼ばれる木で締め付けて鍋と火との距離を調整するのです。火箸、鉄瓶、火消し壺などもあります(写真⑥)。 囲炉裏の向こうは今で言う台所です(写真⑦)。 展示されているものを紹介しましょう。羽釜、鉄鍋です(写真⑧)。羽釜はかまどで、鉄鍋は木の落とし蓋付きで囲炉裏に掛けて使います。 左の太身の鋸は製材用の木挽鋸、右2つは伐採用の横挽き鋸です。刃が飛んでいるので「窓鋸」などといいます。刃が飛んでいるのはおが屑が外に出やすいようにする工夫です。手前中央は移動式のかまどに載った釜です(写真⑨)。 蒸籠(せいろ)です(写真⑩)。昔は蒸す事が多かったのですが、今は煮る、焼く、炒めるが主流で蒸籠の出番は少なくなりました。 「水舟」、つまり、昔の流しです(写真⑪)。見た感じでは近くの沢などから竹の樋で引いた水を掛け流しにしたようです。山奥ではこういう装置を利用することができ、今の水道と変わらない感覚で水仕事ができました。井戸から水汲んで水瓶に溜めるのは大変な重労働だったのです。水道が止まったときは今の人も経験できますが。 左端は口付き鍋、中央3個は鉄瓶、右端は灯火用の油壺です(写真⑫)。 左上にちょっと見えるのは鉱山用のカンテラです。光源はロウソクではなく植物性の灯油だと思われます。水瓶、臼、火消し壺、羽釜もあります(写真⑬)。 燭台です(写真⑭)。今風の感覚だと目を刺しそうで怖いです。光源は高い方が明るく感じるのですが、倒れて火事になる危険も増えます。 いもかてきり(芋糧切り)、焙烙です(写真⑮)。さて、どんな芋を切ったのでしょう。考えられるのはジャガイモ、サツマイモ、里芋ですが、一番ありそうなのは1735年にあの青木昆陽が八代将軍徳川吉宗の命を受けて栽培を始めたサツマイモでしょう。ジャガイモの普及はそれから100年ほど遅れました。 一方、里芋の方は椰子の実と同じように黒潮に乗って東南アジアのタロイモが縄文時代に日本に入っていますからこれかもしれません。右端は「焙烙(ほうろく)」で、今も現役です。
これは大根糧切りです(写真⑯)。食べる米が確保できなかった場合に大根を切って米に混ぜて総量を増やした貧困層の食べ物ですが、米しか食べない上流階級の人たちが脚気というビタミンB1欠乏症候群によくかかったのに対し、大根の混ぜご飯を食べた人は元気という皮肉な結果にもなっています。もちろん、大根飯なんか米のご飯に比べれば格段にまずいです。 田舎住まいで大根飯ばかり食べていた侍が何かの折りに江戸に出ると、米のご飯が余りにもおいしくてそればかり食べるようになりますが、しばらくすると体に異変が起こります。足がむくんだりしびれたりするのです。 心不全や末梢神経の障害が起こるようになり、江戸の奇妙な風土病とまで言われました。江戸の庶民は、蕎麦が好きで常食としていましたが、蕎麦にはビタミンB1が含まれるため、脚気にはなりませんでした。
明治に入っても脚気は続き、あの皇女和宮も脚気で若くして亡くなっています。旧陸軍では田舎出身で米の食えなかった兵士が多く、親心で、せめて軍隊にいるときくらい米を飯を食えと言うことになったのですが、これが仇となり、脚気が多発し死者も出ました。 一方、旧海軍は創立当初から大英帝国海軍の指導を受けていました。英国海軍は大航海時代以来の経験でいろいろなものを一緒に食べると病気にならないことを経験的に知っていて、これを旧日本海軍に伝習したため、旧海軍では一人も脚気にかからなかったのです。
これは臼堀道具です(写真⑰)。石臼ではなく、木の臼を作るのに使ったと思います。 さすがというか、木刀もありました(写真⑱)。 続く |
第17回大旅行(2011年4月)
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