よねちゃんの車中泊旅行記

4月22日、はてなブログ「よねちゃんの花日記」に移行しました。車中泊旅行記もそちらで継続しています。

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    2014年11月22日(土)
 
  今、豊田市の旭郷土資料館にいます。場所は豊田市役所旭支所の北東約1.6キロです。
 
  ご当地で釣れたアマゴの魚拓です(写真①)。魚拓の歴史は新しく江戸末期に始まり、現在のような形式になったのは戦後間もなくの頃です。昨今はスマホで済ませることも多くなったでしょうか。
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  これはアユの魚拓です(写真②)。
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  枠だけの足踏み式機織り機です(写真③)。 
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  桑切機がありました(写真④)。単純な押し切りではありません。昭和に入ってから普及したものです。
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  縄ない機がありました(写真⑤⑥)。なかなか複雑な動きをする機械でしかも足踏み式、それまでの手ないの縄に比べると強度と品質の均一性ではるかに勝りました。
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  昔の農家の土間の片隅によく置かれていた唐臼です。脱穀に使われました(写真⑦)。
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  2人用の人力用の鋤(すき)です。現在のスコップに相当します。鋤は牛馬に引かせる犂(すき)が一般的ですが、小規模な畑ではこういう小型の人力用の鋤が今も使われています(写真⑧)。
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  人力用鋤の解説もありました(写真⑨⑩)。
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  筵(むしろ)です。今ではブルーシートに取って代わられた感があります(写真⑪)。
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  筵は農家でこういう機械を使って織っていました(写真⑫)。
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  さて、ご当地の矢作川のすぐ上流に矢作ダムがあります。1962年に着工し1970年に竣工しています。
  ダムが完成すると一部の地区が水没したのですが、その中に弁慶号の鏝(こて)絵が描かれた家がありました。まずは解説です(写真⑬)。
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  明治5年、新橋横浜間を汽車が走ったのですが、その機関車が弁慶号、義経号と名付けられました。ご当地の人がそれを見物に行き、土産に持って帰った錦絵を元にご当地の左官が作ったものでした。
  その絵がこれです。水没前に撮られた写真です(写真⑭)。
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  当資料館にそれが復元されていました(写真⑮⑯⑰)。壁ごと切り取って移築した本物か精巧な模造品かは不明です。
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  明治の初め、西洋の事情を見て鉄道の真の実力を知っていた長州藩出身の井上勝や佐賀藩の大隈重信が中心になって鉄道敷設を進めたのですが、薩摩の西郷は軍備増強が先だとして猛反対し、薩摩藩邸の中に鉄道を通さないといったのあからさまな妨害も行っています。
 
  この時点で、西郷はもう時代遅れの過去の人になっていました。5年後、西郷は西南戦争を起こして非業の死を遂げます。
 
  続く
 
    2014年11月22日(土)
 
  今、豊田市の旭郷土資料館にいます。場所は豊田市役所旭支所の北東約1.6キロです。
 
  紙漉きの話になりました。伝統的な手法で作られる和紙の産地がたくさんありますがご当地にも森下紙がありました。主として傘紙に使われましたようです。残念ながら昭和35年頃には和傘の需要減により途絶えたようです。(写真①②)。
  各地で明治以降に途絶えた色々な技術の復活が試みられていますがご当地はどうでしょうか。
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  不鮮明で申し訳ありませんがこれが森下紙です(写真③)。
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  和紙の多くは楮(こうぞ)を原料としています。刈り取った楮をまずは蒸して皮を剥ぎます(写真③の2,③の3)。
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  その皮をこの「はそり釜」で煮ます(写真④)。
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  煮た楮はこの桶で水にさらします(写真⑤)。
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  これは「いかけ」といい、水にさらしたあとでゴミを取るために楮の繊維をこのザルに通します(写真⑥)。
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  次はこの棒ではひたすら楮の繊維を叩きます(写真⑦⑧)。
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  少し省略して紙漉きです(写真⑨)。
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  これは舟です(写真⑩)。テレビでも紙漉きの工房が紹介されることがあるので見たことがあるでしょう。
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  これも御存知でしょう。漉きコテと呼ばれる枠に竹簀をはめ込んだもので舟の水をすくい、中の繊維を漉し取っていきます(写真⑪)。
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  各種竹簀です(写真⑫)。
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  これは紙板です(写真⑬)。できた紙を貼って天日干しにします。
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  完成した紙を裁断する台と紙切り包丁です(写真⑭)。
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  以前はこういう提灯が森下紙で作られたそうです(写真⑮)。文中の一色町は2011年に愛知県西尾市の一部になっています。
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  往時の傘作りの様子です(写真⑯)。
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  では次に行きましょう。
 
  続く
 
    2014年11月22日(土)
 
  今、豊田市の旭郷土資料館にいます。場所は豊田市役所旭支所の北東約1.6キロです。
 
  林業の道具です・大ツル、トビは御存知でしょう。皮むき鎌というのは裏方なので見る機会は少ないと思います(写真①)。
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  木挽鋸です(写真②)。浮世絵にもよく登場する鋸で製材用の縦挽き鋸です。
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  江戸時代の林業の道具です(写真③④⑤)。形状と名を見ればおよその用途の見当がつきそうですが、中には分からないものもあります。
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  さて、この辺りから川漁の話になったでしょうか。笠です(写真⑥)。編み方が一種独特という感じです。
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  籠です(写真⑦)。
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  こういうように補強されたものの方が丈夫という感じです(写真⑧)。右に見えるのは破れたタモです。
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  ウナギ猟ののときに使った籠のようです(写真⑨)。
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  御存知、カーバイトライトです(写真⑩)。今でも現役です。別名をアセチレンランプといい、炭化カルシウムに水を掛けて発生するアセチレンガスを燃やして発光します。
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  ご当地で「いしゃんこ」と呼ばれるヨシノボリ(ハゼの仲間です)をすくう網です(写真⑪)。
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  残念ながらピンぼけになりました(写真⑫)。箱眼鏡です。テレビのダッシュ島ですっかり有名になりました。
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  銛(モリ)です(写真⑬⑭)。解説によると銛は投げるもの、ヤスは手に持って使うものとなっています。
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  この先は色々な魚籠が並んでいます。これは運搬用の魚籠です(写真⑮)。
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  これは珍しい形状の魚籠です(写真⑯)。名札には「ハヨ用腰籠」とあります。ハヨとはハヤと呼ばれる魚のことと思います。
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  では次に行きましょう。
 
  続く

 
    2014年11月22日(土)
 
  今、豊田市の旭郷土資料館にいます。場所は豊田市役所旭支所の北東約1.6キロです。
 
  往時、ご当地にあった製材所の工場規定です。まずは就業時間です(写真①)。早朝0630時に始業、1830時に終業、休憩時間は正午に1時間、午前と午後に30分、かなりの長時間でした。
  従業員は近隣の人が多くて通勤時間がさほどかからない人が多かったでしょう。
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  就業者心得です(写真②)。
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  まだ道路が十分整備されていなかった頃、材木を運送するのに筏を組むことが多かったのですが、その際に使った櫂(写真③)。
  今も観光用の筏流しが行われていますが、乗りたいとは思いません。観光用とは言え筏はやはり危険ですから。
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  これは「はびろ」といい、文字通り刃の幅が広く作られています。斧(おの)と鉞(まさかり)の違いは難しいのですが、こういうように刃の幅が大きいものは鉞と呼ばれることが多いようです(写真④)。
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  上は「輪尺」、つまり直径を測るもの、下は曲尺です(写真⑤)。
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  左端は何でしょう、荷鞍でしょうか。右の棒は頸木(くびき)です(写真⑥)。頸木とは牛馬に付けて犂や車を連結する道具ですが、これは牛用です。
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  筏流しの筏です(写真⑦)。 
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  この解説を読むと、舵(かじ)を持っている方が筏の先端、竿を持っている方が最後尾ということでしたした(写真⑧⑨)。そうなると写真⑦の左端が先頭です。普通の舟だと舵は最後尾にあるのですが。
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  これは先端の舵取りです(写真⑩)。
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  ここがその最後尾です(写真⑪)。この竿で尻尾が岩に当たらないようにしたと言うことです。
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  こういう解説もありました(写真⑫⑬)。  筏に組む材木の量は水の流れの量で決まったそうです。ダムができても筏流しは行われましたが、ダムを放流しないと筏が進まないため、いろいろと面倒なことが起こりました。
  経験を積んだ年寄りが先頭で櫂を操り、最後尾では小僧が竹竿を使ったということです。小僧といっても3年ほど経験を積めば独立することもできたようです。
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  材木は陸路でも運びました。筏のある所でも川までは陸路で運ばないと行けません。そのときの道具が木馬(きんま)です(写真⑭)。
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  少しぼけましたが木馬の解説です(写真⑮⑯)。こういう重量物を積んだソリをコロを敷いた道を滑らせて移動するのですから危険極まりない仕事でした。
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  続く
    2014年11月22日(土)
 
  今、豊田市の旭郷土資料館にいます。場所は豊田市役所旭支所の北東約1.6キロです。
 
  また、往時の写真です。興業共進会の展示即売会のようです。現在の道の駅の多くももこの伝統を引き継いだと思われます(写真①)。
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  昭和27年、小学校で児童が苗木の手入れをしています(写真②)。
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  昭和28年、炭焼き窯の築造講習の様子です(写真③)。
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  シイタケ栽培の講習です(写真④)。このまま、山の幸を作り続けることができたら今の過疎化の問題は起こらなかったのですが。
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  五平餅を作っているところです(写真⑤)。五平餅はご当地の郷土料理です。うるち米を粒が残る程度について串につけ、醤油か味噌味のタレを塗って焼き上げます。香ばしくてとてもおいしいです。
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  昭和32年頃に撮られた製材所の写真です(写真⑥)。これができると林業も一気に近代化しました。しかし、電動丸鋸は手や指を飛ばす危険と隣り合わせでした。
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  「シシロウ」という名札が付いた柵です。恐らくイノシシを捕まえる罠だったと思います。しかし、強度は大丈夫だったでしょうか。イノシシのと戦いは今も続いています(写真⑦)。
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  中央は伐採用の横挽き鋸です。手前の方は鞘に入った状態です(写真⑧)。
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  これは広葉樹から切り出した板でしょうか(写真⑨)。写真では名札の字が読み取れません。天板か置物として使ったと思います。
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  ワラ製の簑です(写真⑩)。雨具ですが防寒具にもなりました。
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  これはシュロ製の簑です(写真⑪)。ワラ製よりも軽く。耐水性もありました。
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  中央左は馬の沓(くつ)、真ん中は牛の沓、その右は人用の雪沓、右端の金具は牛馬の爪切り包丁です(写真⑫)。
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  馬の荷鞍です(写真⑬⑭)。
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  半ソリという宇名札が付いた道具です(写真⑮⑯)。かなり小さめです。接地面に金具が装着されていて雪道専用ではなかったかもしれません。
  これに人が腰掛ける部材を付けると子供のいいオモチャになりました。
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  続く
 

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