よねちゃんの車中泊旅行記

4月22日、はてなブログ「よねちゃんの花日記」に移行しました。車中泊旅行記もそちらで継続しています。

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    2007年8月15日 第6日目

  今、鹿児島市の桜島にいます。古里温泉にある林芙美子の文学碑を見学して出発、国道224号線を東進して、1010時、有村展望所にやってきました。

  ここは、桜島の火口の南西に当たります。駐車場はよく混んでいますが、運良く1台分空いていました。

  ここは、遊歩道が整備されていて溶岩台地の中を歩くことができます(写真 法浅間山の鬼押出と同じ趣向です。

  駐車場から早くも地獄のような雰囲気になります(写真◆法こういうように遊歩道はよく整備されています。途中まではまだ桜島の火口は見えません。

  最初の四阿(あずまや)に来ました。目の前に巨大な桜島の南岳が迫っています(写真)。直線距離で2キロメートルほどのところに火口があります。

  目の前には錦江湾が広がり、遠くには薩摩半島が横たわっています(写真ぁ法写真い涼羆に開聞岳が頭を出しています。

  この遊歩道には四阿が3カ所、避難壕が2カ所あります。万一、観光中に桜島が噴火したらここに逃げ込めということでしょう(写真ァ法もし、人が多かったらどうするのでしょう。

  火山学者の話として、もし火山の噴火に遭遇したらやみくもに背を向けて逃げるのではなく、火山の方を向いて火山弾の飛んでくる弾道を見てよけながら避難するのが正しいとかいう話を聞いたような気がします。しかし、この火山弾の大きさを見て、できるかどうか疑います。

  この有村展望所のあるところは、1914年の桜島の大噴火により噴出した溶岩原です。この時の噴火はすさまじく、想像を絶する溶岩流や火山灰が噴出し、いくつもの集落が全滅、桜島もそれまで島だったのが大隅半島と陸続きになったのです。

  それから約100年、こういうように、松が生えてきて穏やかな景色になりつつあります(写真Α法しかし、いつ噴火して地獄の様相になるか誰にも分かりません。

  写真Г里茲Δ法火口の麓も緑に覆われています(写真А法自然の治癒力には驚かされます。

  遊歩道にはいくつかの歌碑や句碑があります。これは高野素十の句碑です(写真─法


  初蝶の 熔岩に突き当たり 突き当たり


  いささか字余りの句ですが、このあたりの地形の厳しさが伺えます。もっとも、多くの蝶は鳥のように飛ぶことはできません。ひらひらよたよたと草むらの中を飛ぶというという感じです。

  それが素十にかかると、厳しさに変わるという不思議さが一流というところです。

  ちなみに、素十は余りよく知られていませんが、茨城県の出身で高浜虚子の直弟子、東大医学部を出た医学博士で、新潟大学や奈良県立医科大学で法医学を教えた先生でした。

  1976年、83歳で亡くなっています。この句の通り、俳句の原風景を継承したことでも知られています。

  次は、高野国臣の歌碑です(写真)。


  わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島山


  高野国臣を知らない人でもこの歌を知っている人は多いでしょう。意味は文字通りですが、意図するところは全く違います。

  高野は幕末の尊皇攘夷の志士でした。尚古趣味でやや時代錯誤的とも言える過激な武闘派といったら概ね当たっているでしょうか。

  福岡藩出身ですが、浪人をして攘夷活動に専念します。鹿児島にもやってきたのですが、島津久光に受け入れられず、やむなく鹿児島を去るときに詠んだのがこの和歌なのです。

  確かに、時代を動かそうとする有為の志士にとって、桜島の噴煙など取るに足らぬものだったでしょう。こういう気概をもって生きられた激動の時代、それが幕末だったのです。

  残念ながら、あと4年で明治という1864年、京都で獄死しました。

  写真の中央に写っているのは記念写真を撮る写真屋です。写真の横はこうなっていて、この石碑の前で大勢の人が記念写真を撮っています(写真)。

  今は、来る人を驚かせる桜島、その噴煙を我が志に比べれば大したことはないと言い放って去った幕末の志士、その歌を桜島の代表の歌であるかのように歌碑にしていること、意味深長としかいいようがありません。

  1025時、これで、桜島の見学が終わりました。このあと、国道220号線に入り、宮崎県の日南市をめざします。


  続く。

  

  


   



  

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    2007年9月15日

  今、鳥取県智頭町の石谷家住宅にいます。引き続き内部を紹介して行きましょう。

  主屋から畳廊下を歩いていくと、新建(しんだて)座敷と呼ばれるところに来ました(写真 法もらったパンフレットによると、昭和16年から17年にかけて改築された場所だそうです。

  これが新建座敷です(写真◆法左から付け書院、床の間、天袋、違い棚付きの床脇という構成です。パンフレットによると、天井材は奈良の春日杉、床柱は屋久杉の笹杢(ささもく)、床壁は和紙の袋張りとあります。

  杢とは木目の紋様の特に美しいものをいい、笹杢とは、笹の葉が折り重なったような先の尖ったギサギサ模様の杢のことだそうです。非常に高価なものが多いと思われます。

  実は、見ただけではそういう銘杢とは気がつかず、アップの写真も撮っていませんでした。

  和紙の袋張りとは、何枚か下張りをした上に和紙を貼り付ける手法です。「四畳半襖の下張り」事件はこういう手法で隠されていたエロ本を見つけるという体裁で始まりました。1980年に最高裁の判決が出るような大騒ぎになったのです。

  床の間には「両不相識」と書いた掛け軸があります(写真)。この当時の日本語は横書きの時は右から書きました。「識相ふたつならず」と読みます。九鬼隆一という現在の東京国立博物館の初代総長になった人の作です。

  「識相」は仏教でよく使われる言葉ですが、詳しいわけではないので省略します。

  振り返ると、次の間があります(写真ぁ法K榲は、入口側が次の間で奥が座敷です。ここにも平書院付きの床の間があります。

  この座敷からは庭が見えます。この庭園がなかなか豪勢です(写真キΑ法Gふりた松の枝が池にかかり、幻想的な雰囲気を醸しだしています。

  この新建座敷からさらに奥の江戸座敷に向かう途中の畳廊下にあったと思うのですが、「楓橋夜泊」と「寒山拾得」を書いた衝立(?)がありました(写真Л─法


   楓橋夜泊  張継

   月落烏啼霜満天
   江楓漁火対愁眠
   姑蘇城外寒山寺
   夜半鐘声到客船

  漢詩に興味のない人でもこの詩は知っている人が多いでしょう。漢文の教科書にも載っていて、恐らく、我が国で最もよく知られた漢詩です。

  旅の途中、船の中で夜を過ごす、遠くの寺の鐘の音が聞こえたのでもう朝かと思えば、まだ真夜中だったという意味です。車中泊にもぴったりの詩です。不眠症で眠れない夜を過ごす人にとってはわびしい限りでしょうけれど。

  寒山拾得は寒山と拾得という中国の唐の時代の僧のことです。伝説的な人物で真実どんな人だったか分かっていません。

  超俗的だったことだけは確かで、寒山拾得図としてよく画題になります。


  さあ、この奥がいよいよ江戸座敷です。

  続く。

  

  



  

  

  

  

  

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    2007年9月15日

  今、鳥取県智頭町にいます。江戸時代には宿場町だったところです。その町並みの中に石谷家住宅という登録有形文化財が公開されていると聞いてやってきました。

  大きな門構えをくぐると、門番小屋に突き当たり、少し行くと主屋が見えてきます(写真 法F母屋造り桟瓦葺きの巨大な建物です。

  中にはいると、まず受付があります(写真◆法F館料は500円です。開館時間は1000時です。

  まずは土間がありますが、これがただの土間ではありません(写真)。天井まで突き抜けた吹き抜け空間、解説では、高さが13メートルあるのだそうです。

  天井を見上げると、巨大な梁組みが見えます(写真ぁ法E薫罎浪虻の小屋組みの下に作られるものですから、正確には、土間の部分には天井がありません。

  石谷家は、江戸時代は塩屋という屋号で大庄屋を務めました。明治時代には石谷伝四郎が地主、山林経営者として活躍する一方、篤志家として社会貢献もし、貴族院議員になるなど政治家としても活躍しました。

  貴族院というのは今の参議院に一応当たりますが、現在のように、道理をわきまえていない「ガキ」でも参議院議員になれるような時代ではありませんでした。

  まあ、それはともかくとして、この伝四郎が大正末期から昭和初期にかけて大改築をしたのが現在の石谷家です。昭和初期ということなので、現在は有形登録文化財です。

  もう少しすれば、重要文化財になっていくでしょう。

  ところで、現在の住宅がなくしたものが土間と縁側です。土間と縁側は訪問者の応対をするのに便利なものでした。今でも、大抵の客は玄関先で応対しますが、靴を履いたままでちょっと腰でもかけられるところがあればなあ、というときに土間や縁側が大変便利なのです。

  土間の一角には必ずといっていいほど、かまどがあります(写真ァ法このかまどは焚き口が4カ所あり、みそ汁を作る鍋、湯を沸かす鍋、ご飯を炊く鍋が掛かっています。

  左手の外には薪(まき)が積んであるのが見えますが、この薪をかまどで燃やしたのです。真上に吹き抜けがあれば煙は余り座敷の方には行かなかったと思われます。

  土間から座敷に上がりました(写真ァ法ここは居間です。囲炉裏が切ってあります。

  土間の奥はこういう畳を敷いた廊下になっています(写真Α法8取り図によると、写真Δ力下の左側にはいくつもの部屋があるはずですが、うっかり写真を撮らなかったか、そもそも公開されていないかのどちらかです。

  あるはずなのは主人の居間とか書斎とか寝室ですので公開されていなかったかも知れません。

  この先は位置関係がよく分かりませんが、主屋はこういう感じになっています(写真Л┃)。

  主屋の畳廊下に突き当たりには仏間があります(写真)。非常に狭く、畳2枚敷きの小さな部屋です。

  普通、仏間は奥座敷の隣の大きな部屋であることが多いのです。仏壇の前で法事をするときにもこの方が便利です。こういう造りは初めてみました。

  この奥にあるのが新建座敷と江戸座敷です。

  続く。

  

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