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2011年5月5日(金)
今、宮城県栗原市にある孤雲屋敷にいます。
中を見学しましょう。これは長屋門です(写真①)。本来は武家や公家、豪農の一部などにしか建築を許されていなかった形式の門です。江戸末期はこれがゆるみ、明治になると農家がこぞってこの格好の門を作りました。こちらの方は江戸時代のものと区別して納屋門と言うこともあります。 これが主屋です(写真②)。元々は茅葺きだったのを小屋組をそのままにして銅板葺きにしていますから、元の茅葺きの面影もわずかに残っています。 主屋の中に入りました。大きな土間があり、土間に張り出す格好で囲炉裏があります。 誰かがお茶を飲んでいると思ったら、模型でした(写真③)。 横を見ると板敷きの間があり、機織り機が展示されています(写真④)。この頃の農家なら必ずと言っていいほどあったものです。 花山村の歴史というパネルです(写真⑤)。この辺りも前九年の役の舞台になりました。江戸時代は仙台藩の西の端、奥羽山脈の栗駒山を挟んで秋田藩と国境を接する所となり、国境警備の関所もありました。御承知のように2005年に栗原市と合併し、花山村は消滅しました。 北辰一刀流剣術指南所という看板がありました(写真⑥)。千葉周作ゆかりの家と言うことでこういうものもあるわけですが、多分、観光用に作られたものだと思います。千葉道場が栄えたのは「北辰一刀流」という名の付け方がよかったのだという話も聞きますが、まあ、まるで間違いでもないでしょう。 しかし、千葉道場は前にも話のあったとおり、今の剣道に通じる現代的な稽古を取り入れており、上達も早く、それで人気が出たというのが本当のところです。
花山村と千葉周作というパネルがありました。詳しく紹介しましょう。 周作が花山村で生まれたというのには異説があります。鎌倉時代の豪族、千葉市の流れをくみ、周作の祖父も剣術の達人でいずれも「北辰」を冠する流派でした。周作の父も剣術を教えていたそうです(写真⑦)。 その周作とこの家の主、佐藤孤雲との関係です(写真⑧)、孤雲は元仙台藩士で病気のため職を辞し田舎で隠遁生活をしていました。教養人で、周作の父とも親交があり、それが縁で周作も教えを受け、そのことが心技一体の剣の道の礎になったとされます。 江戸に出た周作のその後です(写真⑨)。まずは道場で修行し、その後、諸国武者修行の旅に出ます。この頃には北辰一刀流を名乗っていますが、故郷の流派の「北辰」と江戸での流派の「一刀流」を組み合わせたものだと分かります。 29歳の時に北辰一刀流の道場「玄武館」を解説しました。教授法は合理的で実践的、たちまち門下生は増え、名声も高まって、水戸藩の剣術師範を務めるようになりました(写真⑩)。これが現代の剣道に受け継がれたと言うから、千葉周作は時代の一つ先を行く傑出した人物だったことが分かります。 この解説を読むとその経緯がよく分かります(写真⑪)。 千葉周作自身は幕末の1856年に死去していますが、時は激動の時代、周作の門下生の多くが活躍の機会を得たのです(写真⑫)。このころの剣術師範で名が残っているのは千葉周作くらいのものですが、やはり、その名にふさわしい仕事をしていたのです。
千葉周作の画像というパネルがありました(写真⑬)。しかし、肝心の肖像画の写真がありません。そもそもここになかったか、借り物なので撮影禁止だったのかのどちらかです。まあ、大男でかなりの男前だったことは文から分かります。
千葉周作の人間像です(写真⑭)。弓の稽古をしているところで、行きがかり上、木刀で弓を受けることになり、成功したというのです。まあ、弓を本当に木刀で払うことができるかどうか、やってみないと分かりませんが、いささか作り話のような気もします。そのくらい強気の人だったということでしょう。 文武両道でもありました(写真⑮)。和歌、俳句、狂歌などを詠んでいますからかなりの教養人だったと思われます。 巨大な顕彰碑がありました。原本ではないと思われます。昭和33年に建てられたもので、東条一堂という儒学者と千葉周作とを顕彰したものです。東条一堂の瑤池(ようち)塾と千葉周作の玄武館は神田於玉ヶ池にあり、何と隣同士だったのです(写真⑯)。 さて、この話はこのくらいにして、孤雲屋敷を見学することにしましょう。 続く
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