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2012年8月16日(木)
今、長野県大桑村の大桑村歴史民俗資料館にいます。
ご当地出身の画家、曲田桃沽の絵の続きです。
桃沽の「明石峻峰図」という絵で1926年の作です(写真①)。明石とはどこの山でしょうか。
桃沽の「明石峻峰図」の下半分です(写真②)。のどかな汀の集落です。咲いているのはウメでしょうか。
桃沽の「蚕玉様」。つまり養蚕の神様です(写真③)。
これがその蚕の神様です。背負っているのは桑の枝、左手で差し出しているのは蚕の種を付けた種紙だと思います。確かに有り難い神様です(写真④)。
桃沽のこういう絵もありました。どこか与謝蕪村を想起させる雰囲気です(写真⑤)。
犬、猫、鳥が描かれています(写真⑥)。
これは桃沽の野鳥の絵です(写真⑦)。
これは狩野派の絵でも真似たものでしょうか(写真⑧)。これで曲田桃沽の絵は終わりです。本式の山水図から北斎漫画のようなものまで、とても優雅な世界でした。
今いる大桑村には旧中山道の宿場が2カ所もありました。須原宿と野尻宿です。解説がありました(写真⑨)。
宿場に関する用語の紹介です(写真⑩)。これを理解しておくと旧街道を歩くのに便利です。
中山道の最大にして最後の輝きとも言える国家的大行事が1861年に行われました。皇女和宮が将軍家に降嫁するため中山道を通ったのです。
当時発行された印刷物です。日付は文久元年(1861年)10月20日、この日、京都を出発したのです。木曽路には11月1日に入り、4日間で通過しました。この間、三留野、上松、藪原の各宿場に泊まり、他の宿場では休憩か昼食をしたようです。総勢は2万5千人、人馬も食料も桁外れで、それこそ天地をひっくり返したような大騒ぎになったことでしょう。
解説では各宿場には大きな経済的負担がかかったとありますが、現在でも見られないような世紀の大イベントを見られたことに比べれば大したことはなかったでしょう。お金は地元の金持ちが出したのです。
これが印刷物に書かれたその様子です(写真⑪⑫⑬)。なお、文中には「和宮は否応なしに・・・」とありますが、これは現代の思い込みやステレオタイプの発想で史実ではありません。 「須原ばねそ」という盆踊りの様子です(写真⑭)。
野尻の羅炎という行事です。京都の大文字とそっくりです(写真⑮)。
解説を読むと分かりました(写真⑯)。もちろん、お盆の行事です。多分、京都から伝わったものでしょう。
続く
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