よねちゃんの車中泊旅行記

4月22日、はてなブログ「よねちゃんの花日記」に移行しました。車中泊旅行記もそちらで継続しています。

2006年旅行記録1

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    2006年11月5日
    写真は、鎌倉大仏です。

   0730時、鎌倉大仏に着きました。鎌倉は道案内が貧弱で車で移動するのは不便です。これだけ著名な観光地なのに、案内板がとても少ないように感じます。単なる不親切か、それとも車は由比ヶ浜などの駐車場に置いて歩くかバスに乗れ(パークアンドライドと言います。混雑解消と温暖化防止の対策です。)ということなのでしょうか。

   小さめの土産物屋が門前にあるくらいで天下の大仏の門前にしてはいささか寂寥感が漂います(写真 法この大仏のある高徳院は、0700時から中に入れてくれます。中学校3年生の修学旅行以来ですから、40年ぶりに見る大仏です(写真↓ぁ法

   記憶に残る中学生のときの印象は「とても大きい」というものでしたが、40年ぶりに見る大仏は「意外に小さい」というものでした。奈良の大仏の方がはるかに大きいという感じです。

   鎌倉大仏は、ご承知のように、鎌倉時代の1243年に作られました。初代は木造だったので4年後には嵐で倒壊し、1252年、改めて金銅仏として作られたのです。
一緒に大仏殿も建てられましたが、台風やら津波やらでなくなり、現在のような露座の大仏になりました。

   そのとき大仏殿と一緒に寺も壊れてしまい廃寺になりましたが、1712年に現在の高徳院が新たに作られたということです。この高徳院、看板で見ても境内を歩いてみても、本堂らしきものが見あたりません。まさかお坊さん達、露座の大仏の前で、同じく露座で毎日お勤めをしているのではないでしょうね。

   鎌倉大仏は阿弥陀如来で高さ12.4メートルです。対する奈良大仏は14.7メートル、やはり、奈良大仏の方が大きいですね。単純計算では、鎌倉さんが170センチだとすると奈良さんは2メートルの大男です。

   また、奈良大仏が大仏殿のなかで見るので実際以上に大きく見え、鎌倉大仏は露天で見るので余計小さく感じます。

   20円払うと中に入ることができます。胎内めぐりという趣向です。普通、体内めぐりとは書きません。中はがらんどうで、鋳型の後が残り、どうやって作られたかが分かります。首のところが色が違いますが、地震などでもげないようにプラスティック素材を使って強化したということです(写真ァ法

  背中に明かり窓があります(写真Α法これがないと中は真っ暗です。それにしても、やや後ろ姿が猫背で寂しさが漂うような気がします。

  鎌倉大仏は、仏様の中で一番の美男子とされます。それは、与謝野晶子の短歌に由来します。その歌碑が大仏様の裏手にあります(写真А法

  かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼(しゃかむに)は
  美男におはす 夏木立かな

  普通は、仏様を見て男だとか女だとか意識しないものですが、当代一流の情熱的な女性歌人にかかると仏様もこういう風になるのでしょう。大仏様もほめられて悪い気はしないでしょう。ところで、与謝野晶子が11人の子供の母親だったこと、ご存じでしたか。

  我が国は、何でも三大○○にするのが好まれますが、日本三大大仏というのがあるそうです。奈良大仏と鎌倉大仏は当然のように当選ですが、もう一つはどれでしょうか。
  
  私は、越前大仏かと思っていたら、富山県高岡市にある高岡大仏だそうです。高岡にそんなに有名な大仏があるとは今まで知りませんでした。 

   何でも、与謝野晶子が、後日、高岡大仏を訪れたときに、「あら、鎌倉さんより高岡さんの方が男前だわ、奈良さんはいかついけれど・・・・」と言ったとか言わなかったとか。そうなると、どんな男前か1回見に行くだけの値打ちはありそうですね。来年の5月連休あたりに砺波のチューリップ公園や日本最古の城といわれる福井の丸岡城と併せて見学することにしました。

  さて、これで、予定の全行程を終わりました。あとは、和歌山へ帰るだけです。陸路およそ550キロ、頑張って事故のないように行きましょう。

  0800時、大仏前を出発、まずは国道134号線を西進し、途中から1号線に乗り、秦野中井ICで東名に乗りました。足柄SAで土産物を買い、ひたすら西進して昼前に湾岸長島着。食事を済ませると、再び出発し、1600時、無事、和歌山に着きました。

  息子よ、日本のためにがんばれとエールを送り、今回の救援隊は終わりました。

  次回の沼津救援隊は3月頃の予定です。完。

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    2006年11月5日
    写真は、^霏璽崎から見た七里ヶ浜、△楼霏璽崎(その19の写真,虜瞳如砲任后

  さて、稲村ヶ崎のそんな歴史を振り返りながら、七里ヶ浜の方を見ると、遠くに江ノ島が霞み、そこに続く天下の砂浜は白砂青松の・・・・・ありゃりゃ、真っ黒です(写真 法

  これはてっきり、今、全国の砂浜で白砂青松の景色が黒砂青松に代わりつつあるというあの話だと思いました。潮で砂が洗われ、白くて軽い石英が流出し、黒くて重い砂鉄だけが残るから海岸が黒くなるという現象です。

  後で調べると、稲村ヶ崎近辺の砂浜は昔から良質の砂鉄が取れることで知られ、古くは製鉄も行われたそうです。そうなると、昔からこういう景色だったのでしょう。

  近年は、このあたりの海岸はサーフィンのメッカになり、1990年にサザンオ−ルスターズの桑田佳佑が監督を務めた映画「稲村ジェーン」もここがその舞台です。

  ここで沖を見て、板につかまっている黒い「たまちゃん」や「なかちゃん」がたくさんいると思ったら、それはすべてサーファーです。

  さて、1910年1月23日、ここ七里ヶ浜で近くの逗子開成中学の生徒12人がボートに乗っていて転覆し、全員が死亡するという事件が起こりました。

  私はてっきり、ボート部の練習中に起こった事故だと思っていました。しかし、事故の原因は、生徒が勝手に学校のボートを持ち出し、定員オーバーで航行したためでした。この事件を追悼した有名な歌があります。「真白き富士の嶺」です。

  実は、さっき見た新田義貞や明治天皇の碑の少し奥に、この遭難事件の慰霊碑があったのです。奥まっていて、うっかり立ち寄るのを忘れてしまいました。写真◆覆修裡隠垢亮命伸,虜瞳任任后砲如二つ街灯がたっていますが、右側の街灯の奥にその碑があります。

  真白き富士の嶺(ね)  作詞 三角錫子  作曲 不詳

  真白き富士の嶺 緑の江ノ島
  仰ぎ見るも 今は涙
  帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
  捧げまつる 胸と心

  有名なこの歌は、逗子開成中学の兄妹校だった(当時は中学校は男女別)鎌倉女学校(現鎌倉女学院)の先生だった三角錫子が事故を悼んで古い賛美歌の替え歌として作詞し、同年二月の法要の際に鎌倉女学校の生徒によって歌われました。全体にキリスト教の影響が濃厚な歌詞が続きます。

  三角は、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)数学科を卒業し、明治から大正にかけて女子教育に力を注いだ先進的な教育者でした。

  この歌は、大正時代に入り、主に演歌師によって歌われ全国に広まったそうです。だから、恐らく、森繁久弥が「美しき天然」という歌を歌ったときのような、小節のきいた、下手なバイオリンがよくあう演歌調の歌い方だったはずです。演歌師の語りもついていて、事件の概要を講談風に講釈していたと思います

  大学時代の詩吟部では、「琵琶湖周航の歌」と同じようなスローテンポの手拍子で歌いましたが、今は、歌曲として本格的に歌われることが多いようです。あくまでも、鎮魂歌です。

  ちなみに、鎌倉女学校は、系列校のこの事故の賠償金を払うために校舎用地の一部を売り払ったそうです。追悼の歌は美しく、今に歌い継がれていますが、現実は悲惨で悲しく、かつ、厳しいものでした。

  こうして、稲村ヶ崎の見学は終わり、ぼつぼつ、最後の立ち寄り先である鎌倉大仏も見学できる時間になりましたので、そちらに向かうことにしました。続く。
  

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    2006年11月5日
写真,楼霏璽崎、△郎犬新田義貞の史跡碑、右が明治天皇御製歌の歌碑、は稲村ヶ崎の水辺です。

  鶴岡八幡宮を出ると、先ほど歩いた参道の横を通る車道に出ました。これがまっすぐに由比ヶ浜まで突き当たっています。若宮大路というのがこの道の名前です。由比ヶ浜とその隣の七里ヶ浜との境が稲村ヶ崎です。現在の国道は、ここを切り通しにして通過していますが、昔は険峻な鎌倉の防御壁でした。

  切り通しを少し過ぎたところに駐車場があり、ここで車を止めて稲村ヶ崎公園まで歩きます(写真 法ここには、新田義貞の有名な史跡があります(写真∈検法I抻了海發呂襪西の方に頭を出すはずですが、この日は見えませんでした。旅行では、富士山を見るのは至難の業なのです。

  稲村ヶ崎の話、ご存じですか。鎌倉時代の末期、主君を裏切って朝廷方についた新田義貞軍が鎌倉に海づたいに攻め込もうとしたときに、行く手をここ稲村ヶ崎の険しい地形に阻まれたそうです。

  そのとき、黄金造りの剣を海に投げ入れ竜神に祈ると、たちまち潮が引き、そこをつたって鎌倉に攻め入ったという話です。確か、子供の頃にそんな映画を見た記憶があります。

  この史跡の横には明治天皇の御製の和歌の歌碑がありました(写真右)。

  新田義貞   明治天皇御製

  投げ入れし 剣の光 あらはれて 千尋の海も くがとなりぬる

  「くが」とは陸地のことです。要するに、先ほどの話を和歌に詠んだものです。何だか、モーゼの出エジプト記で、紅海が割れたという話を髣髴させますね。まあ、写真を見ればそれほどの磯でもないようですが。

  違うのは、稲村ヶ崎の話など今の私達にとってはどうでもいい話ですが、モーゼの話は本当にあったなどということをキリスト教徒が未だにまじめに議論していることす。

  日本の神道などに比べたらキリスト教ははるかに合理的な宗教と思っている人もいるでしょうが、どうしてどうして、こんな古臭い神話をかたくなに信じているという意味では大して変わるところはありません。まだ、素朴な自然崇拝と先祖崇拝を基調にした神道の方がましかもしれません。

  キリストの復活だの、聖杯(最後の晩餐に使った)はどこにあるだの、ノアの箱船の破片を見つけただのと、ロケットが飛ぶ時代によくそんな議論をしているものだと思います。まあ、八百万の神々のましますこの国では、一人や二人変な神様がいてもどうこうない話ではありますが。

  それはさておき、明治43年に、この話が文部省唱歌になりました。曲は静かでもの悲しい歌です。歌詞は8番からなっていて鎌倉の地名や神社仏閣を随所に読み込んでいます。

  鎌倉  作詞 芳賀矢一  作曲  不明(文部省唱歌には不明のものが多い)

  七里ヶ浜の 磯づたい
  稲村ヶ崎 名将の
  剣投ぜし 古戦場

  この名将とは、新田義貞のことです。新田義貞は、戦前は後醍醐天皇を助けたということで英雄視され、こんな歌も作られたのです。現在では、足利尊氏と比べると、愚かで弱い武将というような非常に評価の低い人です。もう少し高くてもいいはずですが。

  そうはいっても、対する足利尊氏も武将らしからぬ優柔不断の人で、それが南北朝の混乱に拍車をかけたというのはよく知られています。足利尊氏を讃えた歌というのは寡聞にして聞いたことがありません。
  
  この世代で一番評価が高かったのは、足利軍に朝廷軍として対峙して最後まで戦った楠木正成です。
この楠木正成を歌った歌も作られました。こちらは、歌詞もさることながら曲の方が勇ましい行進曲風の威風堂々たる歌で一世を風靡しました。

  桜井の訣別  作詞 落合直文 作曲 奥山朝恭

  青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
  木の下陰に駒止めて 世の行く末をつくづくと
  忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か

 桜井とは奈良県桜井市ではなく、今の大阪府島本町内の地名です。楠木正成が死地となる湊川の合戦に出向く直前に、長男の正行を本拠地である河内に返したときの別れの歌です。

  楠木正成の評価は戦前は特に高く、今でも皇居外苑に颯爽とした騎乗の銅像があるそうです。今度東京に出張したら是非みたいと思いますが、場所はどこでしょうか。

  詳しいことは、古典文学である太平記を読むとよく分かります。

  太平記で思い出しましたが、今、多くの高校で必修科目が未履修ということで揺れています。世界史が必修で日本史はそうでないと初めて知りました。どこの国に、自分の生まれた国の歴史を教えない国があるのでしょう。不思議でたまりません。
  
  私の世代では、高校では、日本史、世界史、地理、倫理社会、政治経済の5科目を習いました。理科だって、生物、物理、化学、地学の4科目を勉強したのです。大学受験も社会は2科目でした。

  そのとき、無理に詰め込んだ知識が、今、教養としてどんなに役立っているか計りしれません。残念なことに、ゆとり教育を受けた人たちは、ある意味で、全方位的な教養が無く、その分だけ、人生観が浅く狭く貧弱になっているような気がして本当に気の毒だと思います。続く。

   


  

  

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    2006年11月5日
    写真は、鶴岡八幡宮です。

  さて、もう一度、鶴岡八幡宮に入り直します。この神社は、源の頼義が1063年に建て、御祭神は応神天皇などです。頼義の子孫の源頼朝は1180年、源氏最高の旗を揚げてこの地に入り、神社を整備します。1192年に一旦焼失しますが、すぐに再興したのが現在の鶴岡八幡宮です。

  まずは、大きな石の太鼓橋です(写真 法8ての通り通行止めですが、橋の表面はつるつるした石でとても滑りやすくて危険です。各地にこの種の橋がありますが、浮世絵などに似せて見栄えよく表面の半径をきつくしたものほど危険です。表面に階段のないものや滑り止めのついていないものは渡らないようにしましょう。それは、渡る橋ではなくて景色の一部です。

  鎌倉幕府の三代将軍、源実朝は鶴岡八幡宮で甥の公暁に殺害されますが、襲撃現場は普通、この先の石段とされていますが、この石橋だったという説もあるようです。

  さて、広い境内を歩くと、舞殿に着きます(写真)。入母屋造り桧皮葺唐破風付きの巨大な「四阿(あずまや)?」にこれまた巨大な銅板葺きの庇(ひさし)?がついたものです。その奥に見えるのは最近立てられた社殿で、どうも七五三などはここでするようです。

  その奥が、本殿に至る石段です(写真ぁ忘玄蠅謀形概念物の大イチョウがあります。通説では、この陰に隠れていた甥の公暁に襲撃されて絶命したとういうのが一般的です。

  写真には、黄色い服を着た中年の女性が写っています。写真を撮るためにしばらくいなくなるのを待っていたのですが、イチョウの付近を行ったり来たりしていました。何か祈っていたか、実朝さんを供養していたか、鎌倉幕府を偲んでいたかは定かではありません。

  源実朝は、金塊和歌集を残すほどの歌人でした。歌風は公家のなよなよとした言葉遊びではなく、将軍にふさわしい凛とした厳しいものがありました。百人一首にも入っているので知っている人も多いでしょう。

  鎌倉右大臣(実朝のことです)

  世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ あまの小舟の 綱手かなしも

  世の中は無常といわれるが、いつも変わらぬものであってほしいものだ。渚を漕いで行く漁夫の小舟 、その綱手を引くさまが、なんとおもしろく感じられることだろうか。

  実際言って、貴族たちの言葉巧みな和歌に慣れた身には素朴な感じがします。却って解釈が難しいかもしれません。実朝の和歌の先生は、かの有名な藤原定家でした。

  石段を登りきると拝殿です(写真ァ法神社なので弓矢で武装した一騎当千の高級武官が両側を固めています(写真Ν)。こんなに広い境内なのに拝殿の前がとても狭く、いい写真が撮れませんでした。入母屋造り瓦葺きの重層構造です。拝殿の両側にもこんな風に建物があります(写真─法これを何と呼んだでしょうか。

  さて、まだ、0645時ですが、一応参拝は終わったので、稲村ヶ崎に向かうことにしました。続く。

  

  

 

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    2006年11月5日
    写真は、鶴岡八幡宮です。

  さあ、今回の旅行の最終日です。朝、0400時起床。私はぐっすり寝ましたが、やっちゃん(妻です)は途中で起きてしまったとか。年です、年。エスティマのせいではありません。

  朝は道がすいています。長距離旅行をするときは、この時間帯を活用することが大切です。でも、高速の割引時間帯(トラックが増える)や交通事故の多発時間帯を考えると、午前0時から0400時の時間帯はかなり危ないことが分かっています。できるだけこの時間帯は避けることにしましょう。

  まずは、視界の確保です。この季節は窓の室内側に激しい結露があります。全部拭かないと移動できません。動かせるようになると、トイレの近くに移動、身支度をして出発です。

  芦ノ湖の湖畔を出ると急勾配の山岳道路と狭い温泉宿の軒先をかすめるような道の連続です。ところどころ、激しい霧が出ています。

  恵明学園、小涌谷、宮ノ下、大平台、箱根湯本・・・・何のことか分かりますか。国民的行事になったかの有名な東京箱根間大学駅伝で実況中継に出てくる地名です。

  もう何十年も毎年見ています。正月のこの季節、レベルの低い芸能人の特番に辟易した目にはこの行事が大変新鮮に映るのです。

  今回車でこの道を移動しています。しかし、きつい坂でエンジンブレーキを多用しないと危険な道です。こんな坂道を飛ぶように登る人たちがいるのです。とても人間わざではないと実際に車で走ってみて感じました。

  鉄道の線路というものは、電車優先なのですが、小涌谷の駅の横の踏切は、いつも駅伝の時だけ人間優先です。よくテレビで見る光景です。この坂を下りきったところに小田原城がありました。また、次回ということに。

  平地に入り、国道1号線、国道134号線と走ると、江ノ島に着きました。来てみて気がついたのですが、ここは車を駐車場に置いて歩くところです。余りにも朝早く、先を急ぐので鎌倉に直行することにしました。
 
  0610時、鶴岡八幡宮の裏手の駐車場着(写真 法3倉は言わずと知れた鎌倉幕府の置かれたところです。専門的な話は全部抜きにして、主立ったところだけ見て和歌山に帰ることにしました。本当は、2日ほど腰を据えて見学するといいのですが。

  鶴岡八幡宮はとても大きな社殿と敷地を持っています。今回はいきなり本殿横に出てしまいました(写真◆法そこで、とにかく、南の端まで歩きました(写真)。こういう参道がよく残されています。昔は海側の由比ヶ浜からずっと続いていたのでしょうか。

  大勢の人が散歩をしています。大抵は60歳以上でしょうか。気を付けてくださいよ、これから朝も暗くなるから。

  振り向くと、これが鶴岡八幡宮の入り口の鳥居です(写真ぁ法D撒錙∪个梁生欟供舞殿、拝殿と一直線に並んでいるのが分かります。アップすると、こんな感じです(写真ァ法B海。
  

  

  

    

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