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2011年5月4日(木)
今、奥州市の伝統産業会館にいます。
明治の頃の鋳物造りの続きです。型おりという行程になりました鋳型ををウメ、その中に中子納め玉金を中子の上に乗せて固定します(写真①②)。 どうやらここまでで鋳型が完成したようです(写真③)
この辺りから順序が分からなくなりましたが、絵付けという行程があります(写真④⑤)。 こういう工程を経て鋳型かできます(写真⑥)。
まあ、こういうものを順を追って鋳型に仕上げると言うことのようです(写真⑦⑧⑨)。 さて、この鋳型に銑鉄を流し込むのですが、まずは鉄を溶かさないといけません。それがこしきという炉とたたら、つまり、大きなふいご(吹子)です(写真⑩)。
これが足踏み式の大型のたたらです。もっと大きなものもあります(写真⑪)。 昔の人はいわゆる「労働歌」が好きだったようで、こういう民謡が残っています。まあ、歌っていれば調子も合うし辛さも忘れると言うことでしょう。日本の民謡のの原型はこういうものでした。 職人衆がそう言う歌を料理屋などで歌うと、やがてそれが芸者の三味線や太鼓の合いの手で洗練されて採譜され現在に至ったものもたくさんあります(写真⑫)。
炭坑節のような作業に合わせた調子のいいものもありますが、名品と呼ばれるものの多くはゆっくりした節回しで哀調を帯びたもののようです。この曲は七七七五の都々逸風の歌詞になっています。よくある型ですが、起承転結の勢いがあって一ひねりした小粋な感じのする歌詞になることが多いです。
この中央のものが「こしき」、つまり溶鉱炉で、中から出ている黄色いものが解けた銑鉄です。これを「湯」といいます(写真⑬)。 次は湯を鋳型に流し込みます(⑭⑮)。 その後、鋳型は壊され、製品の鉄瓶が姿を現します(写真⑯)。
しかし、これで完成ではありません。この後、釜焼きという行程があります(写真⑰⑱)。 続く
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第17回大旅行(2011年4月)
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2011年5月4日(木)
今、奥州市の伝統産業会館にいます。
伝統工芸士及び伝統工芸展の入賞入選作品です(写真①)。 一部ですが紹介しましょう。これは筋目筒釜といいます(写真②)。その名の通り、本体は丸形ではなくずん胴の筒型、横に筋が入っています。釜ですから注ぎ口は無く、柄杓で湯をすくったのでしょう。 中央は普通の形の鉄瓶です。平丸鉄瓶とでも言うのでしょうか。左はややなで肩で筒型の鉄瓶、右はしぐれ筒形鉄瓶です。しぐれ筒型とは優雅な名ですが、筒に長短の線が掘られていてこれがしぐれと言うことでしょうか(写真③)。 まあ、どれも黒光りして洗練された美しさを誇っていますから、紹介してもきりがありません(写真④⑤)。逸品を見たかったら是非、この会館にお立ち寄りください。 展示室の様子です(写真⑥)。
この世界には詳しくないので一部省略します。明治の初め頃に行われていた鋳造作業を再現したコーナーがありました(写真⑦)。 まずは粘土です。鋳型造りの砂や中子造りの砂などの粘着剤として鋳物造りに欠かせないものだそうです。御当地では昔から良質の粘土が採れるそうです(写真⑧)。 粘土をこねているところです(写真⑨)。 次は型挽きです(写真⑩⑪⑫)。使う道具は「べこ→牛」というものです。これで鋳型を作ります。鋳物は鋳型に銑鉄を流し込んで固めますから、鋳型造りは重要なのです。 これは砂の目を分ける篩(ふるい)です(写真⑬)。
危険な仕事ですから、仕事場には神棚があり、作業の安全を祈ります(写真⑭)。 順番が少し違いますが、砂です(写真⑮⑯)。 鋳型には中子を入れる必要があります。できた隙間に鉄を流し込むのです(写真⑰)。
とはいえ、私は素人ですから、この写真を見てもどこがどうやらよく分かりません(写真⑱)。 続く |
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2011年5月4日(木)
今、奥州市の旧後藤家住宅にいます。重要文化財です。
家には什器などは全くなく、わずかにこの長持ちが置かれています(写真①)。 これは珍しい格好をした電球です(写真②)。 ここにも長持ちと箪笥があります(写真③)。 これな表座敷です。常居と言ったりするでしょうか(写真④)。 奥座敷との境は板戸になっています。昼間は明けておかないと奥座敷がとても暗くなります(写真⑤)。 奥座敷です。縁のない畳が敷かれています。床の間にあたる部分だけが壁の色が違います(写真⑥)。奥座敷は台所ともつながっています。 自然光で撮った台所です。まあ、昼でもこのくらい暗かったのです(写真⑦)。 最後に旧後藤家の全容を紹介しておきましょう(写真⑧)。 さて、1302時になりました。ここを出発、県道14号線を南下し、1330時、東北新幹線の水沢江差駅着。東北本線の水沢駅は北上川の西側にあるのですが、新幹線の駅は北上川の東側にあります。これが水沢江差駅です(写真⑨)。 「後藤新平と少年」という銅像がありました。後藤新平も忘れられようとしていますが、台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長などを歴任して顕著な業績を残した偉大で傑出した政治家、医師です。 台湾総督としては、衛生向上やインフラ整備につとめ、現在の台湾の発展の基礎を築きました。最も知られている業績は関東大震災後の帝都大改革案を策定し、一部は実行されています。一つ先の時代をいく人物で、残念ながら同時代の他の政治家には後藤の真価が理解できなかった面があります。 この銅像は、後藤がボーイスカウト日本連盟初代総長を勤めたことがあったため、その記念として建てられたものでしょう(写真⑩)。服装もそのような格好をしています。 さて、ここに来たお目当てはこれです(写真⑪)、奥州市伝統産業会館です。駅のすぐ近くにあります。 ここの売店で南部鉄器などを売っています(写真⑫)。ここで、土産に鉄の風鈴と鉄の花瓶を買いました。 さて、ここには南部鐵に関する様々な資料を展示した資料館があります。簡単に紹介しましょう。 まずは、入り口の所に大きな鉄瓶がありました(写真⑬)。 この鉄瓶の名前です(写真⑭)。高さは167センチ、大きめの女性並み、自重210キロ、水が260リットル入るとあって、総重量480キロという凄さです。 これは何でしょう(写真⑮)。炉の模型でしょうか、単に鍋の湯を沸かしているところでしょうか。 これは胴が南部鉄でできた太鼓です(写真⑯)。もちろん、木製よりも重く、90キロもあります。どんな音がするか聞いてみたいですが、一般の演奏で鉄製の太鼓は聞いたことがありません。まあ、皮が張ってありましたか、半鐘を叩いたような音はしないでしょう。 飾り物でしょうか、何かの実用品でしょうか(写真⑰)。 続く |
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2011年5月4日(木)
今、奥州市の明治記念館にいます。 中に入りました。最初に言っておくと、展示品はそう大したものはありません(写真①)。 まあ、想像がつくように地味な展示が続きます(写真②)。 往時、ここで使われた金庫です(写真③)。 明治期の医療器具です(写真④)。 鐘の鳴る丘、ラジオドラマでしたが、この建物も有名になりました。「明日はきっといい日が来る」、戦争孤児達がそう信じて生きていた時代の懐かしい記念碑です(写真⑤)。 さて、ここはこれで終わりです。ここから車で少し移動すると旧後藤家住宅です(写真⑥)。
解説がありました(写真⑦⑧)。曲屋ではなくて直屋、元禄年間の竣工というから西暦1700年前後で建てられたものです。改修や改造は行われていますが、建物の主要部は竣工時の形式がよく残されていると言うことです。 これが全景です。寄せ棟造り平屋建てです(写真⑨)。国の重要文化財です。
中に入りました。建物の半分くらいは土間です(写真⑩)。 こちらに高床式の居住部分があります。これは台所のようです(写真⑪)。 これが表の板敷きの間の上がり口です(写真⑫)。 入り口に近い方に風呂場があります(写真⑬)。家の中で風呂釜に薪を入れて焚いていたと思われます。風呂場には仕切りがなかったのかもしれません。 さて、板敷の間です(写真⑭)。元々黒い板を使っている上に開口部が少なく、真昼でも薄暗く感じます。 家の中を見渡しました。典型的な田の字の間取りで、右側が囲炉裏のある台所、左はもう一つ板敷の間、一番奥に畳を敷いた座敷があります(写真⑮)。 天井は無く、小屋組がむき出しです(写真⑯)。 では台所に行きましょう(写真⑰)。 比較的広い部屋です。簡素な自在鉤と火格子、小さめの囲炉裏がありました(写真⑱)。 奥に2個、車長持ちがありますが、水屋や什器はありません(写真⑲)。
台所から見た土間です(写真⑳)。 続く |
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2011年5月4日(木)
今、北上市のみちのく民俗村にいます。 大体の所は見学し、元に戻りつつあります。 これは考古館という建物ですが、私が行ったときは閉まっていました(写真①)。 出口付近にやってきました。向こうに入場券売り場のある家が見えました。旧今野家といい、江戸時代から続いた商家です(写真②)。 中を見学しましょう。床の間がありました(写真③)。 押入のふすま絵です(写真④)。 店先はこうなっています(写真⑤)。展示されているのは南部系のこけしです。こけしは各地に名産品がありますが、地域によって少し趣が違います。 これも店先のようです(写真⑥)。地元の産品を並べたもので、売り物ではなさそうです。 さて、外に出ました。左手は北上市博物館ですが、およそ博物館という名がつくところでは写真が撮れませんので省略します(写真⑦)。 今日は早朝から立ち寄った北上展勝地の桜祭りのポスターです(写真⑧)。一見の価値がありますから、この時期に是非訪れてみてください。民俗村の近くですから、展勝地に来たついでにこの民俗村にも立ち寄るといいでしょう。 駐車場付近です。今日は5月4日、東北の遅い春もぼつぼつ終わりのようです。サクラが散り急いでいました(写真⑨)。 さて、1136時になりました。ここの見学はこれで終わりです。駐車場を出発、県道14号線に出て南下、途中で国道456号線に入りました。奥州市江差区の市街地に入り、人首川を渡って住宅地にはいり明治記念館と旧後藤家住宅のある所につきました。 ここに来るには詳細な地図を作っていかないとたどり着くのは難しいでしょう。なお、場所としては有名は江差藤原の里の1キロほど南西にあります。 さらに 途中でスーパーを発見。夕食を確保しました(写真⑪)。
1234時、明治記念館の駐車場着(写真⑫)。 駐車場にはこういう看板がありました。平泉で戦死したはずの源義経が実は生きていて北海道まで渡ったというような話です(写真⑬⑭)。 さて、これが明治記念館です(写真⑮)。どこかで見たような記憶がありませんか。
入り口の所にこういう碑が建っていました(写真⑯)。 これがその石碑です(写真⑰)。「鐘の鳴る丘」というのは昭和22年から3年半にわたって放送されたNHKのラジオ番組で、復員兵と戦争孤児達が信州の山奥で明るくたくましく生きていくというドラマでした。 時期も時期だけに多くの人の共感を呼びました。これがその主題歌です。歌詞を読めば、ああ、あれかとすぐ気がつくでしょう。小関裕而作曲の名曲でした。歌詞を読んでいくと戦争孤児の話だと言うこともわかります(写真⑱⑲)。
この建物は元々は岩谷堂共立病院の建物でしたが、小学校の校舎、役場などと変遷しています。作家の菊田一夫が先の大戦中に江刺市(現奥州市)、つまり当地に疎開してこの建物を見ています。戦後、菊田はこれをモデルに「鐘の鳴る丘」というラジオドラマを作ったと言われています(写真⑳)。
続く |






