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2011年5月5日(金)
今、宮城県栗原市にある細倉鉱山資料館にいます。
坑内の照明です(写真①)。左から昭和初期の灯油カンテラ、中央は昭和初期のロウソクカンテラ、左は江戸時代のなたね油カンテラです。 これは版画にありましたね(写真②)。火竹です。いつ粉塵爆発を起こすか分からないような坑道で火の照明を使っていたとは驚きですが、ほかに光源がなければやむを得ません。 これはヘルメットに着けられたヘッドライトですが、火はアセチレンガスを燃やしていました(写真③④)。 これもアセチレンガス使用のガスランプです。容器は真鍮製です(⑤)。カーバイトという炭化カルシウムに水を掛けるとアセチレンが発生し、これを燃料にするのです。今でも夜釣りなどで現役です。
これは現在のキャップライトです。横にあるのは蓄電池です(写真⑥)。 これは鉱物感知器です(写真⑦)。新たな鉱脈の発見は大事なしごとです。 さて、第2展示室に行きましょう。近くの下でマグマが煮えたぎる灼熱地獄さながらの感じです(写真⑨)。細倉鉱山の地質断面図でした。 赤い線が鉱脈、黄色い線は坑道です(写真⑩⑪⑫⑬)。主要な場所に立て坑が掘られ、そこから横に向かって坑道が伸びていきます。 これは鉛の粗鉱石です(写真⑭)。
採掘の様子です。江戸時代は鑿と槌だけの装備でしたが、次第に西洋式の最新技術が導入され、こっrは削岩機による採鉱の様子です(写真⑮)。 砕いた鉱石の塊です。これだけ見てもただの石と何ら変わりません(写真⑯)。 これから採れる目的の鉱物はごくわずか、これだけ骨の折れる仕事なのです。そうなると、電気製品などにたくさん使われている各種金属を回収した方がはるかに効率的です。 土の中など掘らないでいいし、環境対策もほとんど不要、精錬だけの仕事と言うことになります。完全リサイクルになれば、もう鉱山など必要なくなるかもしれません、まあ、それは少し無理ですか!。
これは鉛の標本です(写真⑰)。左から鉛精鉱で品位は70%、中央は焼塊で品位は40%、右は粗鉛で品位は98%です。
これが完成品の電気鉛で、品位は99.998%、ほぼ純粋の鉛です。鉛の比重は11.34、あの重そうな鉄でさえ比重は7.85ですから、鉛は本当に重いです。まあ、金は19.32ですから運を抜いて重いことになります。近頃は比重という概念は余り使われず、体積当たりの質量で重さを表示することが多いようです(写真⑱)。 続く |
第17回大旅行(2011年4月)
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2011年5月5日(金)
今、宮城県栗原市にある細倉鉱山資料館にいます。
細倉鉱山の歴史にも紆余曲折がありました(写真①)。明治32年、鉱山機械を輸入していた高田慎蔵が細倉鉱山株式会社を譲り受け、その後、昭和3年まで高田鉱山として稼働します、第一次世界大戦の特需などで最盛期を迎えますが、すぐに衰退し、高田は鉱山を手放します。 これは明治32年から昭和初期に掛けての高田鉱山の様子です(写真②③)。 高田鉱山時代に第一次世界大戦が始まり、弾丸の薬侠を造るのに高品位亜鉛が必要となり、当鉱山で亜鉛の電気分解に成功、これで莫大な利益を上げたのです。この当時、薬侠の材質や製法は開発途上にあり、貴重なものでした。米軍以外では、平時の演習で使った空の薬侠の回収を兵士に命じており、特に資源の少ない日本では厳しく回収が明示されていたそうです。まあ、国力の差がこんな所にも出ています。こんな国とまともに戦えるなどと思わない方がよかったのです(写真④)。
これは大正6年から昭和初期に掛けての鉱山の様子です(写真⑤)。右の2枚は亜鉛の精錬に関するものです。 高田工業の後を継いだのは銀行管理の共立鉱業株式会社でした。1931年(昭和6年)に満州事変勃発、以後、敗戦似たる1945年まで戦時体制にありました。当然のことながら各金属の増産が図られました(写真⑥)。 最後に登場したのは三菱鉱業でした(写真⑦)。財閥・三菱の全力を挙げ、日本最高水準の鉱山技術と膨大な資本を投入して鉱山経営に辺り、大いに発展したのです。 最盛期の細倉鉱山の様子です(写真⑧〜⑪)。 細倉鉱山の環境対策です(写真⑫)。廃水と排ガスの対策を色々と行い万全を期しています。
さて、細倉鉱山の模型がありました。まずは解説です(写真⑬)。坑道延長は5500キロ、最上部海抜245メートル、最下部で海抜△310メートルですから高低差は655メートルにもなります。 これが坑道模型です。蟻もびっくりするような構造です(写真⑭)。 鉱山で使った道具です(写真⑮)。余り特殊な格好をしたものはありません。 作業手袋、前掛けですが、どれもわら製です(写真⑯)。 山の中だから誰でも掘っていいというものではなく、江戸時代でも金堀の許可証が必要でした(写真⑰)。 中央は距離測定器、右は高度計です(写真⑱)。
これは初めて見ました。クルタという手動計算機です(写真⑲)。 昭和20年8月10日、グラマンが空襲に来て落としていった爆弾の破片と銃弾です(写真⑳)。 もう少しで戦争は終わりでした。 |
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2011年5月5日(金)
今、宮城県栗原市にある細倉鉱山資料館にいます。
鉱山を運営するのに物資の調達は必要不可欠でした。江戸時代も同じでした。昭和にはいると鉱山町はへんぴな田舎でありながら大消費地になり、地元は大いに栄えたのです(写真①)。 往時の調達の帳面が展示されていました(写真②)。記録が必要なのは今も昔も同じです。 さて、鉱山になるような所は鉱床というものがあります。土の中ならどこにでもあるというものではなく、火山活動によってできた鉱床にしか鉱石鉱物は含まれていないのです(写真③)。 鉱山が閉山する理由の一つが鉱脈を掘り尽くすことです。新たな鉱脈を見つけない限り、この日が必ずやってきます。いくらでもあるというのは鉄と石灰岩くらいのものでしょうか。どちらも海の堆積物で、鉱脈ではありません(。鉛や亜鉛の鉱床には接触型と熱水型があるとは知りませんでした(写真④⑤)。 細倉鉱山の起源です。紀元800年代に開発されたとされますが、確かな記録はないようです。確実な資料によれば1500年代の終わり頃だそうです(写真⑥)。 これを見ると、江戸時代は金と銀が経済の中心であり、銅も使い道がありましたが、鉛は用途はあったものの需要が少なく、細倉鉱山も銀山として稼働していたようです。江戸時代に中頃には鉛山になったようです。各地に金銀銅を産する鉱山はいくらでもあるのですが、鉛となると珍しいという感じです(写真⑦)。 山師の花見作兵衛の話です。山師というと、現在では詐欺師の代名詞、なにやら怪しげな人物という感じがしますが、当時は鉱脈を発見する鉱山技師や鉱山の事業を行う経営者のことでした(写真⑧)。 これは花見作兵衛の供養塔です(写真⑨)。 これは往時の鉱山の様子を描いた一枚の版画です。詳細は不明です(写真⑩⑪)。 よく見ると排水作業をしていることが分かります。木製のポンプで足下の大きな枡に水を吸い上げ、さらに上にいる人がそれを上に吸い上げるという作業をしています。鉱山は落盤と出水との戦いでもありました。写真⑩の一番下が鉱脈の先端のようで、わずかな照明を頼りに鑿と槌で岩盤を掘っています。事故死と隣り合わせの仕事でした。 江戸末期に使用された鉛貨幣と紙幣です(写真⑫⑬)。ただの藩札のようなものではなく、この紙をもっていると、近い将来、金一朱と交換できるとされています。簿記を勉強した人はご存じでしょうが、現在でも商売に使われる言葉は江戸時代から使われていた和語が多いです。それだけ、日本でも商業の仕組みが発達していて、西洋式の制度が入ってきたときも和語で外国語の翻訳に間に合ったと言うことでしょう。 医学などでは、蘭語を日本語に翻訳するときに多くの新しい日本語の言葉が造られました。この時代、こういう事ができたのは多くの人が漢文の素養があったからです。常用漢字と人名漢字しか知らないようでは造語力は生まれません。現在、外国語をカタカナ表記して得々としている人たちは、昔の基準で言えば教養人ではないのです。ガラケーやらネトゲに至っては幼児並みです。
堅い話はこのくらいにしましょう。明治の終わり頃の細倉鉱山の様子です(写真⑭)。鉱山は鉱毒ガスが発生するので周辺は禿げ山になっています。どこの鉱山も似たようなものでした。足尾銅山の鉱毒事件、宮崎県土呂久の砒素中毒事件などは公害事件として有名です。
明治の中頃の山神祭の様子です(写真⑮)。化粧まわしを着けた大勢の男達の輪の中で横綱を着けた人が土俵入りをしています。体格から見て本物の力士ではなく、鉱山の男達がやっているようです。 明治23年に現在の東北本線が細倉鉱山の近くまで開通しました。鉱産物は非常に重く、陸路での輸送は困難を極め、これは生産力の限界になっていました。細倉鉱山でも鉄道を敷設し、大正4年には東北本線に接続しました。動力は馬、つまり馬車鉄道でしたが、これでも輸送力は格段に向上しました(写真⑯⑰)。 日本各地にこういう鉱山鉄道が敷設されました。富は山の中にあったのです。現在では現役のものはありませんが、観光のものがあるようです。線路跡として痕跡を留めているところもあるようです。
森林鉄道も同じで、こちらもわずかながら観光用に動態保存されているところもあります。こういうものは、田舎にあることが多く、貴重な観光資源としても見直されています。
続く
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2011年5月5日(金)
今、宮城県栗原市にある細倉鉱山資料館にいます。
鉱山は交通不便な山奥にあることが多く、鉱山社宅というのが必ず造られます。これはその模型です。 三軒長屋のようです。井戸は共同でしょうか、軒下には大根や、柿が吊されています。
子供達がいると、当然に学校が必要です。小中学校は鉱山の近くに建てられました。病院、映画館なども建てられ、昭和30年代まで、鉱山町は山の中の大きな町だったのです(写真①)。
これは瑪瑙(めのう)です(写真②③)。原石(写真②の左下の端)はただの石ですが、磨くと中から不思議な模様が現れます。
三菱鉱物コレクションがありました。まずは解説です。和田維四郎博士の収集物を基にしたものです。和田維四郎は1856年生まれ、東大の教授や農商務省の官僚、製鉄所長官などを歴任し、日本の鉱物学の礎を築いた人物です(写真④)。
これがそのコレクションです。中央の写真が和田維四郎博士です(写真⑤)。 これは白鳥の剥製でしょうか(写真⑥)。 さて、民主党の国会質疑のようにピンボケで申し訳ありませんが、向こうに何か模型があります。どうやら昔の鉛の精錬のようです(写真⑦)。
解説もあったのですが、これもピンボケでした。急いで撮ると、ピントが合う前にシャッターが作動してしまうのです。書いてあることを要約しましょう。
この模型は藩政時代(つまり江戸時代)の鉛の製錬法の復元模型です。生吹き法と呼ばれるもので、1824年に細倉鉱山に導入されました。円径30センチ、深さ24センチ。内部を粘土で貼り固めて床を作り、床口に煙突を付けています。床の中に上鉛鉱粉38㎏、炭26㎏、荒鉄11㎏を入れて吹き子を3時間吹いて融解させて鉛をとりました。 よくは分かりませんが、この鉄を加えるという点が従来の精錬法と異なるところで、燃料を大幅に節約できたようです(写真⑧、⑧の2、⑧の3)。 できた鉛は何に使ったでしょうか、江戸時代は鉛は多用途だったものの精錬以外の需要は少なかったのです。石見銀山に行ったことのある人はご存じでしょうが、粗銅から金銀を取り出すのに灰吹き法を使いました。このときに大量の鉛が必要だったのです(写真⑧の4)。
これが炉です(写真⑨⑩)。 炉の構造です(写真⑪)。意外に小さいものだと分かります。
これは炉に空気を送る吹き子(鞴)です。鍛冶屋が使っているものと同じです。まあ、炉自体が小さいので吹き子もこのくらいで済みます(写真⑫)。 この解説を読むと、細倉鉱山の生産が本格的になったのは1800年代になってからのようです(写真⑬)。 神輿の模型です(写真⑭)。山は危険なところなので信仰心はとても厚かったようです。また、ほかにたいした娯楽もない場合が多く、祭は一大イベントだったことでしょう。 細倉山神社の紹介です(写真⑮⑯)。 かもじ坑の伝説です(写真⑰⑱)。西部劇に出てくるゴールドラッシュのような話です。
続く
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2011年5月5日(金)
今、岩手県一関市の旧沼田家武家住宅をでて一ノ関駅に向かって歩いているところです。
これが一ノ関駅です(写真①)。このときは2011年5月5日、平泉の世界遺産登録をめざしている最終段階でした。翌6月にはめでたく世界遺産に登録されました。ご同慶の限りですが、ただの観光資源と思わずに、この遺産を後世に残そうという気概が必要です。 さて、どうの地域性なのか、この辺りには銅像がいっぱいあります。ここにも銅像がありました。誰でしょうか(写真②)。 大槻三賢人でした(写真③)。大槻玄沢、大槻盤渓、それに大槻文彦の3人です。 これが胸像です(写真④)。こっちを向いているのが玄沢です。 さて、これで岩手県での見学は終わりです。国道342号線から国道4号線に乗り南下、宮城県に入りました。 途中で見つけた牛丼屋で昼食です(写真④の2)。 岩手県方宮城県に入ってすぐの栗原市金成有壁新町に旧有壁本陣があります。県境を越えてすぐの所を右折して脇道に入り、少し行くと有壁本陣です。
有壁本陣は奥州街道の宿駅で、東北と江戸を結ぶ主要街道でした。このときは大地震の影響からか公開されていませんでした。もっとも、建物内部は撮影禁止のようです。1619年の創設、今ある建物は1744年の改修によるもので、国指定史跡、県指定文化財になっています。 これが有壁本陣です(写真⑤⑥⑦)。 中の庭です(写真⑧)。
これが正式の門です。両端に明治9年と明治14年に明治天皇が東北地方を巡幸し、その記念の石碑が建っています(写真⑨)。 左は「明治大帝御御駐輦所蹟」、右は「明治天皇有壁御小休所」と書かれています。明治時代、この種のものが国の政策として全国に立てられ、天皇親政の世になったことを世間に示したのです。戦前はすべて史跡か文化財に指定されたようですが、敗戦後、すべて指定解除になりました。しかし、多くの場所に石碑自体は残っています。
有壁本陣を眺望したところです(写真⑩)。 1300時になりました。ここを出発、国道4号線を南下、途中で県道182号線に右折した。やがて国道457号線に合流、山の奥に向けて西進すると、1435時、正面にマインパーク・近代化産業遺産 細倉鉱山関連遺産という看板がありました(写真⑪)。 おや、今も鉱山は動いているようです(写真⑫⑬)。この鉱山は歴史が古く、1200年前にはすでに創業していました。1987年に採掘をやめています。後で分かったことですが、ここは元々鉛の鉱山でした。鉛の精錬精錬事業もしていたわけですが、採掘はやめても自動車などから出る廃バッテリーから鉛を回収する事業を継続しているのだそうです。 1436時、細倉鉱山資料館着(写真⑭)。あらかじめお断りしておきますが、鉱山資料館というものは全国各地にあります。江戸時代から戦前にかけて大いににぎわいましたが、鉱脈を掘り尽くしたり、採算が合わなくなったりで、多くの鉱山が閉山に追い込まれました。その遺構や飼料を集めているのが鉱山資料館ですから、余り面白いというものではありません。 中に入りました(写真⑮)。細倉石ボッコが出迎えてくれました。鉱脈調査のボーリングをした時の円筒形の石で、これを細工、彩色して人形に仕立てたものです。 鉱石の標本です。これは石英結晶です(写真⑯)。 これは方解石です(写真⑰⑱)。成分は炭酸カルシウム、要するに石灰岩です。 続く
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